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村史

発刊のことば

蓬田村長 坂本大博

 蓬田村の創始は審かでないが考古学の観察によれば縄文式前期に起こり、そして亀ヶ岡式の初期に再び先住民族相集い、村落が形成されて繁栄した跡が窺われる。尚、伝説によれば七世紀のころ宗光坊と称する開拓者によって既存型の開田がなされ、営農が行なわれたとも言われている。又、南北朝時代か明応年間頃の築城蓬田城址はともかく徳治二年安東の一雄相馬則一北畠氏の支配下として居り、文明の頃城主越前是に代り、およそ百有余年間美田万畝の富をもってこの地一帯を治めた事実は明かである。こえて天正十三年三月為信公による津軽統一に及ぶも、本村は古代から農本立村の条件が培養されたものと考えられる。先に金光上人陸奥国の行脚布教の史実からも古代文化が伝承せられ先人の意識の内に育った。殊に藩政時代の苦役に堪え明治維新以降の史実に輝く玉松の壮挙は郷土純愛の至誠である。爾来民心皈一の道場となり挙村一致の団結が不抜の村民性として確立せられたのである。およそ自治の発展は郷土開発の諸相を解明し、父祖の遺業を顕彰し、後世の飛躍を期するのは村民の責務と考え、大正初期に既に郷土史資料の調査がなされたが、其の業半ばに中断された。しかし本史編さん事業の放置を許さず、昭和三十四年村議会に相計り着手した。以来継続実に十有余年の歳月を費した。今や本村は新世自治の軌道を直進し、殊に学制を一元化し民風の同和を期したるの秋、幸いにして村史誕生を見たるは村民等しく喜びとする処である。これ一重に編さん委員各位の御努力と資料提供助言者、なかんずく監修に当られた肴倉弥八先生の卓見と御労苦に対し深甚の敬意と御礼を申上げるとともに、本史が広く村民、郷土研究の方々、特に次代を担う青年諸君に推奨し、愛読されて先人先輩の教訓の内から、自明大心の御理解を頂くよき伴侶となり、明るく豊かに住みよい郷土建設に寄与出来ますことを念願して刊行の辞とする次第である。
 昭和四十七年十二月

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村史発刊によせて

蓬田村教育長 田中一雄

 このたび蓬田村史が発刊されることになり村民の喜びは勿論でありますが蓬田村に関心ある人々の興味ある喜びでもあると思います。
 わが村の歴史は新しくない。新しい現在を知るとともに過去を振り返り未来像を描いた蓬田村振興の指針となるよき友でありたいものです。
 その友が友を呼び交わり輪を広げ、お互の心と心の繋がりが隣人の成長を育み、住みよい社会環境を形成させなければならない。
 この村史が後代を担う人々の励みの一助ともなればこの上ない幸せであります。

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村史発刊に当り

編さん委員長 清水專造

 我が蓬田村は外ヶ浜海岸沿いの南北に細長い村であります。早くから先住民族が住みついていたことでもわかるとおり住みよい平和な土地であります。
 七百年の昔から金光上人の行脚地として、更には相馬氏蓬田越前則政是に代り数代に亘り居城地として文化の花開き、下って明治期玉松台精神を実らせ県下模範青年団として、表彰を受ける等、優秀、堅実な伝統を築いてきました。今未曾有の発展途上にある我が村にあって希望と愛情をもって、父祖伝来の家業に打ち込めるのもこうしたすぐれた伝統のささえがあればこそと痛感されるのであります。
 村史編纂の意図もひとえにこの伝統により明確に後世に伝えたいと云うところにあります。
 蓬田村史編さんの企ては、既に大正時代にはじまり、当時の村会議員農会長森藤八氏が農会から金三十円を支出し、坂本義徹氏を初めとして坂本種一氏、佐藤琢法氏等にその編さんを依頼したのですが、不幸にしていずれも事半ばにして逝去、資料も充分整わぬまま時を過ごしてきました。
 幸いこの度、明治百年ということもあって、蓬田公民館を中心にこの企画が再燃するや村長、村会議員、村教育委員会等の全面的な賛同と協力を得、その上、必要経費は村から支出することが議会で議決され事業は急速に軌道に乗ることになりました。よって公民館長坂本豊道氏の手により村史編さん委員会が組織され、以来幾多の歳月に亘り肴倉弥八氏をはじめ多数の研究家や協力者のご活躍が続けられ今日ようやくその完成を見るに至ったのであります。
 議会人として長年村政に加わらせていただいた者としても、また一生この村で生き、この村を愛し続けて来た一老人としても喜びはこの上もありません。念願の村史出版にあたり関係者各位の深甚の感謝を申し上げるしだいであります。
  註 清水氏は生前本史刊行を念願としていたのであるが、ついその発行をみることができなかった。しかし編さん事業が終末に近づいたのを知り、本序文をしたため残していったのである。

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序にかえて

編さん事務局長 坂本豊道

本史発刊に当り、企画して十余年を経て初めて活字になったわけですが、その間資料の提出、さまざまな助言を賜ったことをこの項をかりて厚く感謝申し上げます。
 思えば長い年月を費し、心ある人々から強い批判と叱責をうけることは当然のことでなんの弁解の要も認めず心からお詫び申し上げます。
 ただ遺憾なことは、編さん途上に高田平之助、清水專造の、両氏の故人となられたことであります。
高田氏は編さん日も浅かったが清水氏は今一息のところで本史をみることなく他界したことは豊水一生の痛恨と深く故人にお詫び申し上げます。
 本史発行後はあらゆる角度から、あそこはこうではないか、こんなこともあったではないか等様々な批判が集中されることも予想されます。それ等についても喜んでお受けするつもりです。
 本史は決して満足するものとは思っておりません史、まだ眠っておるもの、発掘不可能とされたものも残っております。
 これから発掘されるもの、調べ落しのものを大事に保存し、次代を担う若い人々によって機会があったら、更に充実したものを発行する機会がいくらもあると思われます。
 本史をみて時代の若人たちの本村に対する理解と、これから我が村の指針になればこの上ない幸いと存じます。
 更に欲を云えば、更にこれ以上のものをと古いものを大事に、そして更に新しきを生むことを思い下さる若者が育つことを念願して筆を措きます。

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自序

編輯者 肴倉弥八

 蓬田村史の出版について相談があったのは昭和三十七年の末である。坂本大博村長が来室あって内意をただされたが、青森市史を定期的に出版しなければならぬ責任があり、その上に今別町史の執筆を依頼され、同町史の執筆をはじめたばかりであったので、蓬田村史の執筆を引受けることは、躊躇せざるを得なかった。しかし新地盤開拓の快さはひとしおであるので、事情は前述の状態にあり、短期日の執筆は困難であるので、相当年月の余裕をみて貰い得ればよりと心が動いた。
 坂本豊道蓬田公民館長が昭和三十七年十二月四日正式に交渉に来られた。そこで資料はでき得る限り村内をかけまわり探してくれるばかりでなく、執筆も援助してくれる約束で執筆を引受けた。第一回の委員会は翌三十八年一月十九日蓬田役場で開かれ、編さん委員の顔あわせを行った。
 各村々の事情を知るとともに資料集収に委員とともに各部落をまわった。ところが最初想像していたより以上に資料は少ない。これでは本になりかねると思っていたら、坂本村長宅で種一翁の書いた玉松台の記録から蓬田村の美談と郷土資料が現れた。
 蓬田村で大正のころ郷土史編さんを計画したことがあり、坂本種一氏はこれらの方面を受もって資料を集めていたものと思われる。しかし当時の蓬田村史編さんの内容はどのようなもので、坂本氏一人の執筆か他に何人かの協力者があるか判然としていなかった。
 ところが、正法院が庫裡を新築した。自分は正法院のことを調査するに佐藤住職を訪問したら、佐藤さんは書棚を整理中、このようなものが出ましたと出されたのは、坂本義徹氏が書いたかなり枚数のものがあった。その内容は青年団、民俗資料、童謡、俗謡、謎等であった。特に戦前の青年団活動を知る上に、これ以上のものがないと思われる貴重な青年団の記録である。やはり義徹さんも編さん委員の一人であった。
 最近民俗学の研究が盛んになってきた。だが古い時代の記録がなく民俗学研究に困難を感じているとき、義徹さんの資料が世に出ることは、研究者にとって非常に益するところであると思う。村史編さん委員の皆さんは、資料集収に協力して下さった。特に公民館長である坂本豊道氏は終始一貫、資料集収と執筆に御協力下さった。
同氏の御協力なかりせば蓬田郷土史の刊行を見ることができなかった。ただ遺憾なことは予定の年月を余りに経過したことである。その責任は勿論編さん者の自分の責任にある。だができる限り正確にして内容豊かなものを刊行したい気持ちで努力したい気持で努力したがため、意外の長年月を費やしたことお詫びする次第である。

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