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村史

第十章 神社、仏閣

第一節 神社

 本村の神社は大字中沢に稲荷神社、大字長科に稲荷神社、大字阿弥陀川に稲荷神社、大字蓬田に八幡宮、大字郷沢に稲荷神社、大字瀬辺地に天満宮、大字広瀬に八幡宮、字高根に八幡宮があり、都合八社ある。そのうち蓬田、高根の八幡宮を除いては全部農耕の神である稲荷神社である。
 右の各神社の縁起については判然としていない。延宝九年の当国諸神社一統開記によると、左のごとく書かれている。

  当国諸神社一統開記
      延宝九年十月十日
               沢田家十四代 沢田俊作
  外ヶ浜ノ内蓬田八幡宮ハ従古来雖有之由緒不明
神主 勝宮太夫
  同村 館神宮ハ自古来雖有之由緒不明
神主 勝宮太夫
外ヶ浜ノ内大瀬辺地村八幡宮寛文八年村ノ者建之
別当 密蔵院
  外ヶ浜ノ内蓬田村聖観音堂ハ延宝二年村中ノ社建之
神主 勝宮太夫
  外ヶ浜ノ内山派村熊野宮延宝二年所ノ者共建之
神主 勝宮太夫

とある。元禄十五年の弘前大行院の書上によると、広瀬村八幡宮は宝永五年、瀬辺地村の観音堂は寛永十二年、中沢村の稲荷宮は寛永元年に創建されたことが書かれている。延宝九年の大行院、山伏行人覚書によると中沢稲荷の別当は正覚院であった。

  配下 宮帖 払
     元禄書上     大行院
 一、浜松村稲荷宮
   寛永元年開基 村氏神
 一、広瀬八幡宮
   寛永五年草創 同村氏神
 一、小橋村稲荷宮
 一、瀬辺地村観音堂
 右二ヶ所寛永十二年草創
 一、六枚橋熊野権現堂
 一、中沢村稲荷宮
 右二ヶ所寛永元年草創 村中氏神
 当初最勝院蒙惣司有其聞雖然載之部修験務別当職故於当院縁起者也
              大行院大先達法師
                   長慶
  元禄十五壬午暦林鐘日

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一、中沢村稲荷神社

         大字中沢字池田(明治四十年五月調)
                 村社 稲荷神社
  一、祭神 宇迦廼御魂命 猿田彦命 大宮能女命
  一、例祭 七月十五日
  一、境内 六十三番地 一反二畝五歩 官有地第一種
  一、氏子 八十三戸
  一、建物 本殿拝殿
  社殿ハ村ノ中央ニアリ境内松杉ノ古木鬱蒼トシテ自ラ神威ヲ保ツ明治六年三月後潟村後潟神社へ合祭同八年二月復社、同  九年十二月村社ニ列セラレ明治四十一年、皇太子殿下(大正天皇)本県ニ行啓セラルゝヤ是ヲ永遠ニ記念センガ為メ本殿  ヲ社殿ヨリ分離シ一部ノ模様替ヲナセリ
     配下
       宮帳(写)      大行院
       元禄書上
  中沢村稲荷宮
  右寛永元年草創村氏神
  堂社最勝院蒙惣司有其聞 雖然載之部修験務別当職故於当院縁起者也
大行院大先達法師
長慶
   元禄十五壬午暦林鐘日

  当国神社一統開記写   延宝九年十月十日調
            山伏行人覚書
             襟頭三十石 大行院
  中沢稲荷   別当 正覚院
  大字中沢字池田三四二番  坂本嶋右エ門ヨリ買受ケ
  原野反別七反六畝二六歩 大正二年五月八日第八号ヲ以テ登録
  大正三年六月十六日 本殿 流造檜欅材屋根亜鉛板向拝附
                四十一年十月模様替切石積据付
  第一〇〇号ヲ以テ登録 拝殿 向造檜材屋根亜鉛葺向拝附
                十五年九月新築
  第一〇一号      幣殿 拝殿同様
十五年九月新築
  第一〇二号      本殿瑞垣 檜材三寸角五寸明
高六尺延長五間四十一年十月建築
  第一〇三号      鳥居一号 □指石材
高八尺明間八尺 大正二年建築
  第一〇五号      鳥居二号 島木檜材
高六尺明間五尺建立年月日不詳
  第一〇六号      石灯篭一号 住吉形略造 一対高八尺
                明治三十五年九月十日氏子中建設
  同一〇七       石灯篭二号 同上一対 高五尺
文政四年八月坂本平助外二名寄付
同一〇八       高麗犬石造一対 高六尺
明治三十五年九月氏子中建設
  同一〇九       標石 神社名奉納趣旨並年月日書付人名
                彫刻 一尺五寸角高八尺二重台
                 大正二年中沢青年団寄付

  中沢村稲荷神社歴代総代
   吉田喜平エ  若佐又七   坂本孫次郎
          藤田留作   坂本嶋右エ門
三上貞八郎  坂本周太郎
吉田喜兵エ 吉田勘太郎
坂本万太郎  坂本甚吾
三上初太郎  坂本高綱
坂本金之助  坂本米三郎
工藤留太郎  坂本秀松
坂本平八郎  三上由松
坂本兵衛   山口岩城
「昭和四十五年まで」

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二、長科稲荷神社

大字長科字川瀬
村社 稲荷神社
  一、祭神 宇迦廼御魂命 猿田彦命 大宮能女命
  一、例祭 七月十六日
  一、境内 四十三番ノ一号 一反九畝八歩 官有地第一種
  一、氏子 五十七戸
  一、建物 本殿拝殿 明治四十一年十月改築
  社殿ハ村ノ中央ニアリ境内閑静ニシテ草創年月日詳ナラス明治六年三月後潟村後潟神社合祀同八年二月復社同九年十二月  村社ニ列サレル明治四十一年皇太子殿下(大正天皇)本県ニ行啓セラルゝヤ記念センガ為メ社殿改築ナス明治四十二年八  月二十七日神饌幣帛料ヲ供進スヘキ神社ニ指定セラル
  天保四年七月
    神社数書上帳(写)
  長科稲荷宮         社司有馬兵部
  大正三年十月三日 第三二三号登録 本殿 流造檜材屋根亜鉛板向拝附
           明治四一年氏子中ニテ模様替切石積上据附
  第三二四号 拝殿 向造檜材屋根葺向拝廻縁附
           明治四一年十月氏子中ニテ新築
  第三二五号 幣殿拝殿同様 同   同
  第三二六号 本殿瑞垣 檜材三寸角五寸明高六尺延長五間
           明治四一年十月氏子中ニテ新築
  第三二七号 鳥居一号 島木檜材高九尺明間九尺
           氏子中ニテ建立年月日不詳
  第三二八号 鳥居二号 □指檜材高六尺明六尺
           明治三十八年九月十日坂本甚三郎外三名寄付
  長科稲荷神社氏子総代
坂本兼次郎   張間四五右エ門   坂本孫九郎
   藤本石蔵    坂本市郎      小鹿留吉
   坂本倉松    藤本繁次郎     坂本米作
   坂本孫九郎   藤本宇之吉     藤本清太郎
   坂本倉五郎   坂本茂雄      張間亀男

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三、阿弥陀川稲荷神社

大字阿弥陀川字汐干
村社 稲荷神社
  一、祭神 宇迦廼御魂命 猿田彦命 大宮能女命
  一、例祭 七月十七日
  一、境内 卅二番地 反別五畝廿六歩 官有地第一種
  一、建物 本殿拝殿 明治二十三年八月改築
  社殿ハ阿弥陀川ノ北端ニアリ創立年月日詳ナラス撰前川北側ヲ流レ境内老松林立森厳自ラ神威ヲ仰カシム明治六年後潟村  後潟神社ニ合祀同八年二月復社同九年十二月村社ニ列セラレ同二十三年八月社殿腐朽ニ及ビタルヲ以改築セリ明治四十二  年八月二十七日神饌幣帛料ヲ供進スヘキ神社ニ指定セラル
大正三年六月十六日 第九六号登録 本殿 流造檜材屋根柿葺
明治四十二年五月十日氏子中新築
  第九七号      拝殿 向造檜材屋根萱葺向拝柿葺廻縁付
            明治二十一年十一月氏子中新築
  第九八号      幣殿 拝殿同棟 同   同
  第九九号      鳥居 □指檜材高八尺明間八尺
            建立年月日不詳
  四十三年三月二十三日 地方二号ヲ以テ登録 字汐干ノ三十二ノ二号 畑一畝十七歩
            明治四十二年一月二十六日鎌田重吉ヨリ氏子中ニテ買入
  同 三号      字汐干ノ三十二ノ三号 宅三畝十二歩

阿弥陀川稲荷神社歴代氏子総代
森藤八     青木久作
   八戸平助    八戸多太郎
   八戸清八    森孫太郎
   八戸才一郎   八戸兼次郎
野籐竹蔵    倉谷平八郎
   八戸源助    森清繁
   八戸九郎一   森源一郎
   森仁五     八戸倉助
   八戸官蔵    川内多兵エ

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四、蓬田八幡宮

         大字蓬田字汐越
村社 八幡宮
  一、祭神 誉田別命
  一、例祭 五月十日
  一、境内 三十六番 弐畝拾八歩
  一、氏子 七十戸
  一、建物 本殿拝殿 明治四十年五月改築
  本殿 ヒバ材亜鉛葺向拝付流造 建置石垣台 本殿 一坪七合五勺 向拝七合五勺
  同玉垣 ヒバ及杉材石混黒塗 高七尺五寸 長四間一尺
  拝殿 ヒバ及杉材 柿葺 吾妻クズシ造向拝付 拝殿十八坪向拝一坪一合四勺明治三十七年改築
  鳥居 ヒバ材四ツ足形朱塗 高横明各壱丈
  石灯篭 石材台付 春日異形一対 高五尺五寸
           (大正十一年八月武井門次郎外六十二名献)
  手水石 人工石 高二尺四寸 巾一尺七寸 長二尺八寸
  狛犬 石材建置石二重台一対(大正十一年小松浅右エ門外十六名献)
   蓬田村八幡宮の創立は不詳、当大館城の館神に祭られたともいわれているが判然としない。その後、元文七年に脇宮太  夫が再建してからは蓬田村の氏神として祭られていた。同神社の末社に弁天宮と稲荷宮があった。(安政二年神社微細、  社司由緒調書上帳)
   相馬小次郎弟平次郎が、宗像大明神は我等祖先が九州にいたとき、崇敬した氏神で、この地へ下っても尚信仰を続けて  いたのであるといって、慶応三年宗像大明神の献額をしている。(参照第二章八節)宗像神社の祭神である厳杵嶋姫命を  弁財天といっている。故に相馬平次郎のいう宗像大明神は弁天社のことであろう。相馬氏が蓬田に居城したのは文明年間  といわれているので八幡宮より弁天社の方が古いのである。
   現在の社地の裏側に弁天社地がある。弁天社はいつころ廃社になったか不明であるが、安政二年神社微細、社司由緒調  書上帳には八幡宮の末社として明記されている。一体八幡宮の草創は、明治四年の藩内神社調には元文七年四月勧請とあ  る。また神社微細帳には初発建立年月日不詳とあるが、徳川時代の中期であると思われる。
 参考のため安政二年の神社微細、社司由緒調書上帳、明治初年の社寺明細帳の資料を本項末に掲載す。
   なお当神社は初め宮本大館城址に建立せられていたが、本村から遠く離れ、一般の参拝者がなく神社の維持・管理に支  障があったので、明治二十三年十一月十七日、知事の認可をうけ、同二十七年字汐越三十六番地に移築した。然るに四十  年を経過した大正十三年十一月には、人口、人家が急増し神域を侵されるようになり、不敬となることがあったので、上
  地林にあった現在地を払下げ昭和九年八月再び大館城址に新築、遷宮したのである。

     大館城址之碑建立
   蓬田村が明治百年、村制施行八十周年記念の一つとして大館城址の碑建設運動が清水專造氏らによって計画され、このほど同城址の碑が完成したので、昭和四十三年九月二十五日除幕式が盛大に八幡宮境内に於いて挙行された。大館城址の築城年代は明らかでないが、築城学の専門の学者の研究によりますと、地形から内外の濠の状態から見て、南北朝時代とも、戦国時代の築城ともいわれている。わが蓬田村いや本県に於ても貴重な文化遺産であり、これが保存には村の長老である清水專造氏をはじめ、故人となられた坂本種一氏、佐藤琢法氏らによって進められてきたが、容易にその実現をみることができなかった。
 然るに昭和四十三年は明治百年、村制施行八十周年に相当している。この記念ある機を逸しては建設の機を失するので、清水專造氏は率先、部落有志に計り、その賛同を得て、さらに部落民へはかり協賛会を組織するにいたった。
 かくて部落民の寄付金の外に村内外の協賛を得て、目出度建立の運びとなったのである。題字は元外務大臣佐藤尚武先生、碑文は清水專造氏の苦心の作、書は大館城主の末裔相馬利忠氏である。
 除幕式は田川八幡宮宮司の司祭の下に午前十時から行われた。引続き祝賀会に清水協賛会長は別紙のごとき挨拶をなし、工事報告、感謝状贈呈あってから、来賓の祝辞があった。
 なお大館城址之碑建立役員は左の如くである。
   協賛会長  清水專造
   同副会長  津島源之助
   副協賛会長 山本兼光   
正会計   細谷与三郎
   副会計   田中利三郎
   氏子代表  木村糟蔵
         宮田与三郎
村上弥五郎
         細谷忠蔵
吉崎嘉一郎

     大館城址之碑
                 佐藤尚武書
 山を負い、海を臨み、清流あり美田万畝の条件を備えるこの蓬田の地は早くから先住民族の居ったことや又金光上人行脚の地として七、八百年の昔から文化の香ただようた所であります。蓬田城は何時の頃誰によって築かれたかは不明でありますが南北朝時代安東氏一族潮潟四郎道貞の居城であったともいわれておりますが大光寺田舎館等と共に明応年間築かれたともいう一説もあります。
 徳治二年頃相馬佐伝四郎則一安東氏の一雄として居り後、北畠支配下として行動し更に南部所領となってから奥瀬建助が居城し、文明の頃相馬氏蓬田越前則政是に替り数代を経て天正十三年三月二十七日津軽為信公に領せられるまで凡そ百有余年この辺一帯を支配したわけであります。後津軽氏これを廃城としたので荒廃し濠や輪郭によって僅かに昔を偲ぶばかりになりましたが其の造りの大きいことからも相当のものであったことが判ります。されば昔の武将が築城の場所として何故大館を選んだかと云えば古来築城の条件である戦術的政治的将又文化的産業振興の適地であるからです。
 吾が村は立派な文化産業を持ち得る条件を備えていることを歴史が証明し祖先が訓えている事実を覚えなければなりません。同時に吾々は、今、城こそなけれ鎮守八幡宮を中心にして研究を積み努力を重ね、此の条件を最大級に発揚して昔の城下町だった発昌振りに再び返すべき責任を感ずるものであります。
 我々部落民の意欲は社殿の新築境内の拡張神域には桜花を日と共に盛りあげて参りました。
 緑一色に蔽われた梵珠の山脈を背景として数百年の齢を重ねた老松古杉の間に絢爛として咲き誇る桜花の如く此の地の発展が開き匂うよう昔を偲び今をかへりみ子々孫々への訓として刻むものであります。
 維持正に明治百年祭の記念すべき年に当る。
   昭和四十三年八月吉日
                          協賛会

   
    大館城址碑建設工事報告
     収入の部
  一、金五十八万弐千参百円
     内訳
  一、金拾万円        蓬田部落出資金
  一、金参拾弐万七千参百円  部落各氏寄付金一般九十六名
                発起人三十四名 合計百三十名
  一、金拾五万五千円     壱万二千円三名
特別協賛者
                鈴木繁太郎氏外九名様分

     支出の部
  一、金五拾八万弐千参百円
     内訳
  一、金参拾万円也      大館城址記念碑大
  一、金壱万円也       碑除幕式一切
  一、金壱万九千七百円    記念品感謝状手拭一五〇本
  一、金五万七千八百円    工事諸費用バラス外五件
  一、金拾九万四千八百円   除幕祝賀会費

   蓬田八幡宮歴代氏子総代人
    明治二十二年以降
    山本佐治兵エ  山本嘉吉   中村清吉
    津島永之助   吉崎由太郎  宮田卯之助
    田中福松    中村清太   木村由太郎
    武井文吉    細谷万次郎
    大正年間
    武井巳之助   木村由太郎  武井永蔵
    清水專太郎   小松寅次郎  細谷喜八
    中村清吉    武井千太郎  武井門次郎
    細谷仁三郎   宮田与作
    昭和二年以降現在まで
    武井永蔵    小松善五郎  武井千太郎
    小松守衛    村上弥五郎  宮田与作
    中村源治    武井喜三郎  清水專造
    木村糟蔵    宮田与三郎  木村糟蔵
    工藤永助    細谷石太郎  工藤清
    武井石太郎   津島文作   木村粕太郎

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五、郷沢村稲荷神社

               大字郷沢字浜田
村社 稲荷神社
  一、祭神 倉稲魂命 猿田彦命 宮売神
  一、例祭 四月十日
  一、境内 字浜田七拾五番地 反別参畝拾七歩 官有地第一種
  一、氏子 二十七戸
  一、建物 本殿拝殿 明治四十二年焼失、同年十月改築
  郷沢八幡宮氏子総代
   加藤金蔵  高田兼次郎  織田広太郎

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六、瀬辺地村天満宮

               大字瀬辺地字田浦 
村社 天満宮
  一、祭神 菅原道真霊
  一、例祭 四月二十五日
  一、境内 二百十七番反別一反六歩 官有地第一種
  一、氏子 七十戸
  一、建物 本殿、拝殿 明治三十一年改築
   瀬辺地村の天満宮の勧請年月は不詳である。明治初期の社寺明細帳によると、当村の産神で菅浦倶衛が兼務していた。
   本殿は三尺四面の板葺、拝殿は二間半に四間の萱葺、社地は五間四方で県庁まで十五里十五丁と書かれている。同境内  地に昭和三十六年三月十七日に部落から一キロ離れた田地の中にあった馬頭観音堂参詣に不便であるという理由で天満宮  境内に移した。これを記念として奉遷記念碑を建て左の碑文をきざんだ。

観音堂奉遷記念碑碑文
   瀬辺地の部落は神代の昔所謂縄文式時代前期(今から五千年位前)に天満宮境内に続く小高い台地(通称ナガレ)に人間が居住していたが考古学者の観察によるとその後縄文式時代の中期から後期にかけては人類無住の地として経過し即ち亀ヶ岡式時代の晩期(一千三百年位)前にこの地及び玉松台附近の台地に再び人間が相集り村落を形成した。所伝によると体力の逞しい「セヘ」と呼ばれた人が首長としてこの地を統帥し農業もこの頃から始められたという。延暦二十年(一千六百年)位前坂上田村麿が蝦夷征伐の際「セヘ」が滅びこの時から「セヘ」の住む地として瀬辺地と名づけられたという。この頃から本村には木造の観音菩薩像が安置されてその背に金属製の観音像を負わせて田浦二の六番地に祀り氏神として崇拝して来たが元禄年間に盗難に遭い行方不明となり現在下北郡に移祀されているという。その後宝永二年八月石造の馬頭観音像を祀り部落の平和と国家の安泰を祈り氏神として田浦二一七番地に移転して永い間部落民が崇拝し参詣して来たが明治六年神仏合祀が許されずこの地に天満宮を建立するに至り本尊像もまた昭和三十年頃から天満宮境内に移転の声が高まり、浩宮徳仁親王殿下の御誕生を卜して昭和三十五年八月堂宇が完成し奉遷祭を執行したこの縁起を永く伝えるために奉遷記念碑建立の議が起りこの由来調査を青森市小野忠明氏に頼み蓬田村坂本種一氏弘前市村上正氏及び部落民一同の協力を得て茲に実現するに至った。
  昭和三十六年三月十七日
瀬辺地八幡宮氏子総代
       田中勘助   飯田文作   山舘嘉之助
       越田源治   久慈健次郎  山内寅五郎
昭和五年 飯田元吉   田中与五郎  田中佐五エ門
 同一一年  木村多吉   田中粕太郎  越田由吉
 同一七年  木戸要作   飯田武次郎  田中万助
 同二五年  木戸要作   久慈健次郎  田中宇之松
 同三〇年  田中仁太郎  田中宇之松  飯田松太郎
 同三八年  田中宇之松  木村達雄
 同四〇年  木村達雄   秋田三蔵
 同四二年  木村達雄   田中栄蔵

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七、広瀬八幡宮

一、祭神 誉田別命
一、例祭 四月十五日
一、境内 百二十八番壱号一反弐畝歩 官有地第一種
一、氏子 七十戸
一、建物 本殿拝殿 明治三十五年八月改築
 広瀬村の八幡宮の勧請年月日は不詳である。神主は瀬辺地村の天満宮の神主である菅浦倶衛が兼務してあった。明治初期の藩内神社調によると、本殿は二尺四面の板葺、拝殿は二間半に四間の柾葺であった。社地は五間四面、境内地は二十三間に二十六間で、藩庁まで十六里である。境内に鳥居と頌徳碑がある。
一、鳥居 明治三十九年 田中福松寄進
       石工 尾道市新地
寄井弥七

越田、久慈、田中三氏の頌徳碑建立
 越田治右エ門、久慈重次郎、田中岩松の三氏の頌徳碑が昭和十七年六月、大東亜戦争の最中、翼賛壮年団広瀬支部が主となって、戦勝祈願・部落発展のため、村社八幡宮境内に建立された。
 三氏の履歴をあげると左の如くである。
一、越田治右エ門
  氏は文化十年、越前の国生まれ、天保八年、二十八才のとき故あって浪人となり、旅に出て現在の東津軽郡蟹田町大字中師に落ちつき、村内の児童を集め寺小屋を開いた。その後広瀬部落に移り住み明治三年十二月五日、六十一才で亡くなるまで川崎藤右エ門の土地に寺小屋を開いて専ら児童の教育に当たった。
一、久慈重次郎
  氏は天正十年、陸中の国久慈村に生まれた。代々南部藩に仕えていたが、慶長十五年、二十九才のとき、故あって主家を浪人、国を出て陸奥国外ヶ浜の現在の東津軽郡蓬田村大字広瀬部落に落ちつき農業に従事した。
  伝うるところによると、広瀬部落の祖先とも、又本部落開拓の祖先ともいわれている。
一、田中岩松
  氏は明治三十二年本部落に生まれた近代の人である。三十八才で亡くなられた。極めて短命であったが、食糧事情の苦しかった時に、耕地拡張事業、潅漑事業に尽瘁し、ために今日の広瀬部落の耕地が開拓されるにいたった。

広瀬八幡宮氏子総代
 明治四十二年 田中長左エ門  田中吉兵エ  柿崎甚吾
        越田長三郎   越田長五郎
 大正三年   越田申松    久慈仁三郎  田中吉兵衛
 昭和三年   田中吉太郎   越田申松   田中作太郎
 昭和二十二年 田中吉兵衛   久慈豊太郎  越田貞造
 昭和三十五年 田中作太郎   天内岩次郎  久慈倉雄
 昭和四十年  久慈倉雄    天内岩次郎  久慈兼松

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八、高根村八幡宮

大字広瀬字高根
村社 八幡宮
一、祭神 誉田別命
一、例祭 四月十五日
一、境内 弐百廿六番ノ一号一反廿七歩 官有地第一種
一、氏子 十六戸
一、建物 本殿拝殿

高根八幡宮氏子総代
 稲葉才次郎  稲葉藤太郎  柿崎仁助

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九、神社資料(一)

安政二乙卯年神社微細、社司由緒調書上帖
    覚
 吉田表御達
 後潟組蓬田村  蓬田村
社司
          有馬六郎
一、八幡宮  一宇
  右初発建立年月不詳、当村領大館と申館村中館神ニ奉祭候由、其後元文七年先祖脇宮太夫再建立仕、其後元禄元年同村中 ニ而産神ニ奉祭候
一、御供米 弐俵 年々当村ニ而寄附
一、祠堂田地無御座候
一、堂社板造建坪 三尺四面
一、雨覆板葺建坪 東西弐間半南北弐間
  右堂社并覆共破損等之節ハ村中ニ而再建仕来候
一、御棟札 無御座候
一、神事 定例年々四月十五日蓬田村ニ而執行仕候
一、社地 三間四面
一、境内林 東西四拾間南北五拾間 御除地 脇宮太夫抱
  右者貞享年中御調之御本帖ニ四拾間ニ廿間ト御座候而落合不申旨御不審ヒ仰付候得共、此度間数相改候処相違無御座候、  猶又古来村方ニ而茂除置候間有坪有之侭申上候御本帖江御引入直ヒ仰付度奉願上候
右境内田畑無御座候
 右一社本家新城村有馬若宮太夫元和年中譲受蓬田村江別宅社司ニ相成初代脇宮太夫代々所持仕来候

末社
一、弁天宮   一宇
  右者初発建立年月不詳候得共、願主同村中ニ而漁師為繁昌相祭候由申伝ニ御座候
 一、御供米并祠堂田地無御座候
 一、堂社板造建坪壱尺五寸四面
 一、雨覆萱葺建坪 東西弐間半南北四間
   右堂社并覆共破損等之節ハ古来同村中ニ而再建仕来候
 一、御棟札 無御座候
 一、神事年々三月蓬田村ニ而執行仕候
   右者文政年中御調之節書上落ニ相成奉恐入候比度微細帖御調ニ付書上申候間御本帖江御引入ヒ仰付度奉願上候右者社本   家有馬若宮太夫元和年中譲受初代脇宮太夫代々所持仕来候

末社
一、稲荷宮   一宇
  右初発建立年月不詳候得共村中ニ而火難消除之為建立仕候由申伝ニ御座候
 一、御供米并祠堂田地無御座候
 一、堂社 板造 弐尺四面
 一、雨覆萱葺建坪 東西弐間南北三間半
   右堂社并覆共破損等之節ハ古来同村中ニ而再建仕来候
 一、御棟札 無御座候
 一、神事 四月十日 定例執行仕候
   右一社本家若宮太夫元和年中譲受初代脇宮太夫代々所持仕候

同組郷沢村
一、稲荷宮   一宇
  右社初発建立年月不詳候得共火難消除之為村中ニ而産神ニ奉祭候由申伝ニ御座候
 一、御供米 年々弐斗ツゝ同村中ニ而寄附
 一、祠堂田地無御座候
 一、堂社 板葺 建坪 弐間四面
 一、雨覆 萱葺 建坪 東西弐間半南北三間半
   右堂社并覆共破損等之節ハ古来村中ニ而再建仕候
 一、御棟札 無御座候
 一、神事 年々二月 初午之日祝祠執行仕候
 一、社地 四間四面
 一、境内 東西五間南北拾八間  御除地 脇宮太夫抱
   右者貞享御調表ニ無御座候旨ニ而御不審ヒ仰付候得共、如何様之間違ニ而お調落ニ相成候哉、古来村方ニ而茂除置来   候間御除地ニ相違無御座候、御本帖江御引入被仰付度奉願候
右境内ニ田畑無御座候
 一、社司屋敷無御座候
   右壱社元和中有馬若宮太夫譲請初代脇宮太夫代々所持仕来候

同組長科村
一、稲荷宮  一宇
  右者初発建立不詳候得共同村中ニ而火難為消除村中安全之産神ニ奉祭候由申伝ニ御座候
 一、御供米 年々 壱俵宛同村中ニ而寄附
 一、祠堂田地無御座候
 一、堂社 板造立坪三尺四面
 一、雨覆 萱葺立坪 東西弐間半南北四間半
   右堂社并覆共破損等之節ハ古来村中ニ而再建仕来候
 一、御棟札 無御座候
 一、神事 年々四月十日 長科村ニ而執行仕候
 一、社地 四間四面
 一、境内 東西廿間南北拾八間   御除地 脇宮太夫抱
   右者貞享御元帖表ニ無御座旨ニ而御不審ヒ仰付候得共、如何様之間違ニ而御調落ニ相成候哉、古来村方ニ而茂除置来   候間御本帖江御引入ヒ仰付度奉願候
但 右壱社本家有馬若太夫元和年中譲受初代脇宮太夫代々所持仕来候

同組阿弥陀川村
一、観音堂  一宇
  右初発延宝三年同村中ニ而産神ニ奉建立候、尤其節組合願主同村対馬市太夫、同角助、天内庄右衛門、木村庄左衛門、鍛  冶之清三ニ御座候
一、御供米 年々三斗宛同村中ニ而寄附
 一、祠堂田地無御座候
 一、堂社 板造建坪 弐尺四面
 一、雨覆萱葺建坪 東西弐間半南北四間
   右堂社并覆共破損等之節ハ古来村中願主ニ而再建仕来候
 一、御棟札 無御座候
 一、社地 五間四面
 一、境内 東西拾四間南北拾間  御除地 脇宮太夫抱
 一、境内田畑無御座候
 右一社本家有馬若太夫天和年中譲受初代脇宮太夫代々所持仕来候
   〆
    六社
     内
    本社 四社
    末社 弐社
 右之通当時私社務仕候分相違無御座候  以上

社司由緒書
一、初代       有馬脇宮太夫
  右脇宮太夫儀ハ油川組新城村社司有馬若宮太夫之弟ニ而願立之上元和中蓬田村八幡宮、阿弥陀川村観音堂、郷沢村稲荷宮、  長科村稲荷宮、末社弁天宮、稲荷宮
  右霞所共譲受別家ニ相成社務仕罷在候、尤正保三年病死仕候
一、二代       同 和太夫
  右者正保三年脇宮太夫家督被仰付、宝永弐年五月病死仕候
一、三代       同 左近
  右者宝永弐年八月和太夫家督被仰付、明和七庚寅年十月病死仕候、其後元禄年中之大凶作ニ而跡式絶転仕、蟹田町社司北  山筑前方ニ而仮社司取扱被仰付候同年油川村沢田周防方隼太ト申者貰受願出之上家督相続被仰付候処、右隼太儀則年松  前表江参リ帰宅不仕候而北山筑前方ニ而宮霞共見継仮社司仕候
一、四代    当勤 同 兵部
  右者私儀実家油川組新城村社司有馬能登弟ニ而文政五壬午年同村社司跡式奉願候処願之通被仰付難有社務仕罷在候
   右之通由緒書上表相違無御座候 以上
    安政二卯年八月
                  社司 
有馬兵部

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十、神社資料(二)県庁所蔵の社寺明細帳

一中沢村の稲荷神社
青森県管下陸奥国東津軽郡中沢村字池田
   明治四十二年八月二十七日  村社 稲荷神社
   神饌幣帛料供進指定
     七月十五日
一、祭神 宇迦廼御魂命 猿田比古神 大宮能女神
一、由緒 草創年月不詳、貞享年中建立ノ由、明治六年三月後潟村後潟神社ヘ合祭、同八年二月復社、同九年十二月村社ニ列     セラル
一、本社 縦六間横三間
一、境内 三百六十五坪二合、官有地第一種四十二番一反二畝五歩
一、氏子 六十四人
一、青森県庁迄距離 四里十五町
    以上
字池田三百四十二番原野反別七反六畝二十六歩 同上ノ土地買入ノ儀明治四十四年三月十六日指令第五三九号許可
一、本殿四尺四方 一、幣殿三間四方 一、拝殿三間四方
 右営繕ノ義明治四十一年八月十一日許可、十月三十一日落成届出

二、長科村の稲荷神社
青森県管下陸奥国東津軽郡長科村字川瀬
   明治四十二年八月二十七日  村社 稲荷神社
   神饌幣帛料供進指定
     七月十六日
一、祭神 宇迦廼御魂命 猿田彦神 大宮能女神
一、由緒 草創年月不詳、貞享年中建立ノ由、明治六年三月後潟村後潟神社ヘ合祭、同八年二月復社、同九年十二月村社ニ列     セラル
一、本社 縦三間横五間
一、境内 三百十九坪七合、官有地第一種四十三番ノ二号一反二畝十歩
一、氏子 四十二戸
一、青森県庁迄距離 四里二十四町四十八間
    以上
上地林四十二番ノ一号、実測面積八畝十八歩、右境内編入ノ儀明治三十七年四月十六日許可
一、本殿四尺四方 一、幣殿縦壱間横二間 一、拝殿縦三間横四間
 右営繕ノ義明治四十一年八月十三日許可、十月二十日落成届出

三、阿弥陀川村の稲荷神社
青森県管下陸奥国東津軽郡阿弥陀川村字汐干
   明治四十二年八月二十七日  村社 稲荷神社
   神饌幣帛料供進指定
     七月十七日
一、祭神 倉稲魂命 猿田彦大神 大宮能女神
一、由緒 草創年月不詳、貞享年中建立ノ由、明治六年三月後潟村後潟神社ヘ合祭、同八年二月復社、同九年十二月村社ニ列     セラル
一、本殿 縦壱間横壱間 一、拝殿 縦五間横三間
一、境内 百七十五坪八合、官有地第一種三十二番五畝二十六歩
一、氏子 三十五戸
一、青森県庁迄距離 四里三十四町
    以上
四、蓬田村の八幡宮
青森県管下陸奥国東津軽郡蓬田村字汐越
   明治四十二年八月二十七日  村社 八幡宮
   神饌幣帛料供進指定
     七月十六日
一、祭神 誉田別尊
一、由緒 元文七年四月勧請、明治六年三月郷沢村稲荷神社ヘ合祭、同八年二月復社、同九年十二月村社ニ列セラル
一、本社 縦二尺横二尺 一、拝殿 縦三間横二間
一、境内 百三十五坪内三十六番弐畝十八歩三十七番一畝二十七歩民有地第二種
一、氏子 四十六戸
一、青森県庁迄距離 五里十町
    以上

 新開試作地反別弐畝十八歩ノ地ヘ移転ノ儀明治二十三年十二月十七日許可
 右跡地ノ処分ノ儀ハ明治二十四年二月五日地理掛ヘ報告セリ、境内地増加ノ儀明治四十年七月五日許可
五、郷沢村の稲荷神社
青森県管下陸奥国東津軽郡郷沢村字浜田
                村社 稲荷神社
一、祭神 倉稲魂命 猿田彦大神 大宮能売神
一、由緒 勧請年月不詳、明治六年三月村社ニ列セラル
一、本社  一、拝殿
一、境内 百六十五坪八合 官有地第一種七十五番三畝二十七歩
一、氏子 十一戸
一、青森県庁迄距離 五里二十町
    以上
明治四十二年二月二十日失火、社殿全部焼失
一、本殿縦四尺七寸横四尺七寸 一、幣殿縦二間横三間 一、拝殿縦二間横三間
右再建ノ儀明治四十二年九月八日許可、同年十月二十六日届出
六、瀬辺地村の天満宮
青森県管下陸奥国東津軽郡瀬辺地村字田浦
   明治四十年四月十九日  村社 天満宮
   神饌幣帛料供進指定
一、祭神 菅原道真公霊
一、由緒 勧請年月不詳、明治六年三月郷沢村稲荷神社ヘ合祭、同八年二月復社、同九年十二月村社ニ列セラル
一、本社 間口五尺奥行八尺 一、拝殿 間口三間奥行五間
一、境内 三百六坪四合 官有地第一種二百十七番一反六歩
一、氏子 八十七戸
一、青森県庁迄距離 六里五町
    以上
一、境内三百一坪八十四番二号 六百四十一坪三百四番六号
七、広瀬村の八幡宮
青森県管下陸奥国東津軽郡広瀬村字坂元
   明治四十一年四月十九日  村社 八幡宮
   神饌幣帛料供進指定
一、祭神 誉田別尊
一、由緒 勧請年月不詳、明治六年三月郷沢村稲荷神社ヘ合祭、同八年二月復社、同九年十二月村社ニ列セラル
一、本社 縦二尺横二尺 一、拝殿 縦六間横三間
一、境内 三百七十坪四合官有地第一種百二十八番ノ二号一反二畝十歩
一、氏子 五十四戸
一、青森県庁迄距離 六里弐拾町
    以上
一、上地林壱畝十八歩 百二十八番ノ一号
右明治三十七年四月十六日境内編入許可
八、高根村の八幡宮
青森県管下陸奥国東津軽郡広瀬村字高根
                村社 八幡宮
一、祭神 誉田別尊
一、由緒 勧請年月不詳、明治六年三月郷沢村稲荷神社ヘ合祭、同八年二月復社、同九年十二月村社ニ列セラル
一、本社 縦二尺横二尺 一、拝殿 縦五間三尺横二間
一、境内 三百二十六坪六合 官有地第一種二百二十番ノ一号一反二十七歩
一、氏子 拾戸
一、青森県庁迄距離 七里五町
    以上

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