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村史

第二節 仏閣

一、竜沢山正法院

 阿弥陀川村の竜沢山正法院は弘前長勝寺の末寺で曹洞宗通幻派に属している。当院は慶長十八年奥内村大字田沢村に創立をみたのである。ところが信徒の大部分は蓬田村にあったので寛文二壬寅年三月現在の阿弥陀川村に移転したのである。開山和尚は長勝寺十四世聖眼和尚である。同和尚は寛文七年示寂した。
一、本尊   釈迦如来
一、開山堂  明治十二年三月六日建築
一、内観音堂 同
一、内地蔵堂 同
一、竜王堂  明治二十七年八月十五日建築
一、鎮守堂  明治十五年六月十八日建築
一、表地蔵堂 同
一、庫裡   同
一、鐘撞堂  同
 本堂、庫裡は建築されてから八十年余を経過し、土台など相当に腐食しているので檀徒の寄付により本堂は昭和三十一年十一月三十日庫裡は昭和四十年六月十二日に再建された。一説には当寺の田沢にありし時代は油川城主奥瀬善九郎の崇敬厚き寺院なりしも、天正十三年為信公のために攻略せらし時、敵手に帰するを遺憾として、自ら火を放ち本尊釈迦如来を背おって遁れ去り、現在本堂に安置されている本尊はそれであるといわれている。(続青森寺院誌)
 本境内にある竜王堂は龍神を祀っている。松前藩主が津軽海峡の海上安全のため祈願した場所で、同寺に松前公が残したハサミ箱があったのが本堂改築のとき紛失したという。同寺の縁起については、同寺の先住琢法師が編さんした「当山歴住年代考」を左に掲載する。なお歴代の住職名は左の如くである。

 歴代住職 
開山 聖眼雲祝和尚 四世 興国宜宗和尚 七世 覚応太隠和尚  十世 再中興仏戒琢宗和尚
 二世 中興光天覚明和尚 五世 全光法船和尚 八世 霊苗秀随和尚 十一世 燈吹琢玄和尚
 三世 宗獄智源和尚  六世 翫流東岳和尚 九世 無学天光和尚 十二世 重興不昧琢法和尚
県所蔵社寺明細帳によれば左の如くである。

  青森県管下陸奥国東津軽郡阿弥陀川村字汐干
          本寺 長勝寺末
      曹洞宗通幻派  正法院
一、本尊 釈迦如来
  一、由緒 創立寛文七丁未年二月長勝寺十四世
       聖眼和尚分派開山
  一、本堂 縦八間横八間  庫裡 縦十間横六間  鐘撞堂 縦一間四尺横一間四尺
  一、境内 千二百十六坪 民有地第一種
  一、境内 仏堂 一宇
       地蔵堂 縦一間二尺横一間一尺
       本尊 地蔵菩薩
       由緒 不詳
  一、檀徒 千二百八十人
  一、青森県庁迄 四里十三町

一、正法院の仁王尊像
 山門にある二体の仁王尊像は、東郡後潟村の工藤源蔵氏が七十才の高齢であるに拘らず四ヶ年の精進を以てついに完成したものである。昭和五年七月十九日、仁王尊像の迎拝式並び開眼式が正法院で盛大に行われた。同日は午前八時から同氏宅に檀徒外青森市の団体をはじめ、遠くは北海道、南部、津軽方面から群集し、約二千五百人の善男善女の引綱により運ばれ、同院で荘厳な開眼式が行われた。
 東奥日報紙は仁王尊像にまつわる信仰美譚を左の如く報じている。
 後潟郵便局長工藤猪三郎氏の肝入りで同村工藤源蔵氏が四年前に一生の念願に自作の仁王尊像を正法院へ寄進せんと発心し、爾来ここに四星霜の苦心を積んで漸く此の程出来したのである。
 像の総丈け一丈一尺余、奈良市雑司町東大寺の仁王尊像の型にならったもので、鉄の棒を持っている顔の具合から、手構え等、力充ちており氏の熱誠こもるものである。
 氏は社会的には名もない高齢の一船大工で、氏の父は俗称鍋大工で通っている有名な船大工で、昔津軽藩の御用大工としてで御用船の造作をしたといい伝えられている。氏は十六才のときから父に船大工を学び、今日にいたったのである。
 氏は父の血を承けて腕も優れ、若い時から絵を能くし子供の凧絵などを描いて、村の人々を、あっと云わしたものだった。彫刻をはじめたのも絵に対する熱心から移ったもので、氏に奈良の東大寺の仁王尊像に做った理由を聞けば、氏の次男唯夫(現在筒井小学校の訓導)君は矢張り父の血を承けて絵が上手で、夏休みに父の大望を遂げしむるため、遠く奈良を訪ねて下絵を取ったものだといふ。子が親を助けて大業を遂ぐるといふ話は洵に美しい。親子の一心を打ちこめた作品を菩提寺に寄進するのは、九族天に生ずるの信仰美談である。そしてこの仁王尊像は永く同院に伝えられて、生きた信仰の教訓となることであろう。氏は今年七十才の高齢、彫刻の技能は天才的で、一度鑿を手にとれば人も世もない三昧境に浸る芸術家肌の人である。
一、県文化財指定
  円空作 木彫 観世音菩薩座像
   指定 昭和四十一年一月十二日
       総高 四九・〇cm
像高 三四・五cm
       蓮台高 六・〇cm
台座 八・五cm
       最大幅 二六・〇cm
   円空 生没不詳、江戸時代初期、臨済宗の僧、美濃国竹が鼻(岐阜県羽島市)の農家に生まれ、幼時出家し、二十三才の時から富士山や白山にこもり、岩屋の中に住んだので窟上人とよばれた。美濃池尻(大垣市)の弥勒寺を再興し、のち関東、東北、北海道の各地を遊行説法し、晩年池尻に返り、弥勒寺に住し、元禄八年岐阜県関市で死んだ。円空は観相もよくし、技巧に長じ、一生仏像一万体の像立を発願したと伝えられ、現在発見されているだけで二千体以上である。(日本百科大事典による) (昭和八年)

龍沢山正法院歴住年代考
   当山歴住年代考序
当山ハ創立三百有余年其間住持タル者開山以来其数ヲ知ラズ、之レ当山ハ当国諸僧出世ノ寺ナレバナリ、
故ニ其ノ歴住諸僧ノ年代事蹟ノ調査に当ッテ完成ヲ期スルハ元ヨリ不可能ノ事ナレ共、今徒ラニ放任シ去ランニハ現存ノ事蹟モ磨滅スルニ到リ尚以ッテ事実ニ遠ザカルニ到ラン事ヲ恐ルノ余リ非才ヲ省ミズ聊カノ調査ヲ基礎トシ一冊ヲ編シテ歴住年代考トス、幸ニシテ後代ノ識者該調査ノ一助トナサバ編者ノ本望遂グルニ似タリ矣、
   当山創立ニ関スル記録
明治三十一年旧五月二十一日先住琢玄和尚本寺ニ到リ写シ来レルモノト云フノニ
   竜沢山正法院 長勝寺末寺
 蓬田村正法院者慶長十八年所創立也、其元田沢村而檀家者都有蓬田村焉、其路程遥隔離往還矣、因議得蓬田中不毛地於公而茲移之也、維時寛文二年三月也、然今分蓬田為村、則阿弥陀川村材于比地也。
昭和八年旧閏五月一日拙僧本寺ニ於イテ書写シタル記録左ノ如シ
   長勝寺末寺蓬田村竜沢山正法院
当寺者慶長十八年初開ノ寺也、近年長勝寺十四代聖眼和尚之開山所ニ相定直末寺ニ仕候
  但シ初開之年ヨリ延宝八年迄六十八年也、
 開山聖眼和尚  二代呑益 生国不詳
 三代当住 尊益 生国不詳
   延宝八年三月七日
   竜沢山正法院 長勝寺末寺
蓬田村正法院者慶長十八年所創也、其境曾在田沢村而檀家者都有蓬田村焉、其門道程遥隔難往還也、因議得蓬田村ノ中不毛ノ地於大守而移之也、于時寛文二年春三月也
 開山聖眼雲祝和尚(勧請也)、二代呑益(生国不詳)、三代尊益(羽州人也)、四代竜泉(南部ノ人也)
  元禄十五年七月
    長勝寺十六世船叟徒泊謹書
   当山歴住年代考
抑当院ハ慶長十八年田沢村ニ創立サレタルモノニシテ、其ノ創立ノ因縁其ノ他一切当時ノ状況ハ記録皆無ノ為メ知ル事ヲ得ザルモ、創立当初ノ当院ハ一ノ草庵ノ如キモノタリシハ窺フニ足ル、而シテ之ニ住持タルモノモ諸山ノ閑居或ハ他国僧ノ流レ来レル者等ノ如キモ、檀徒ハ広ク上磯一帯深沢地方ニサヘ渡リテアリシハ現存諸記録ニ依リテ大略知ルヲ得、
寛文二年三月即チ創立後四十九年ニシテ寺ヲ現在ノ地ニ移転ス、之レ檀徒ノ大多数ハ蓬田村方面ニアリテ往来不便ナリシ為メナリ、
当時ハ未ダ蓬田村ニシテ、阿弥陀川村ト改称スルニ至リシハ尚五十年後ノ事ナルベシ、伝フル所ニ依レバ奥内村誓願寺門前ノ地蔵尊二躰ハ移転ノ際、誓願寺ノ前ニ到リテ曵車動カズナリ、止ムヲ得ズシテ其ノマヽ誓願寺ニ納メタルモノナリト、元当院ノ地蔵尊タル事ハ何人モ伝ヘテ許ス所ナリ、
開山聖眼雲祝和尚ハ長勝寺十四世ニシテ寛文七年示寂ス、
二代呑益和尚ハ英断ヲ以ッテ蓬田村ニ移転シ、増築相当ノ寺宇トナシ、長勝十四世ヲ勧請シテ開山トシ、寺ハ長勝寺ノ直末寺トナリ、自ラハ二代トナリタルモノト思ハル、
前記記録ニ依レバ延宝八年ニテ三代当住尊益生国羽州トアルヲ以ッテ、概ネ延宝八年ヲ中心トシテ其ノ前後ヲ渡リ尊益和尚ガ三代トシテ住シタル事ヲ知ル、然レドモ当山歴代諸住ノ中ニ利山尊益トアルハ尊益ノ名ト類似シ居リテ、マギラワシケレ共恐ラクハ別人ナラン、
四代竜泉和尚ハ元禄年間ニ住持タル人ニシテ、長期ニ渡リテ所住セル如クナレ共事蹟全クナシ、
超エテ寛永、正徳、享保、元文、寛保ヲ経テ、延享年間ニ至ル約四十幾年間ハ直峯慧山、無参瑞峯、久円頓長、皮毛泰州、仁光頓能、源登不白、利山尊益等ノ名ヲ数フルヲ得、
而シテ、比レ等ノ僧ノ事ナルカ鑑住七僧ノ墓石アリ、
因ニ如上ノ諸僧ハ当山ニ住持タレ共、開山以後二世或ハ三世ト称セズシテ、単ニ二代、三代或ハ鑑住、前住ノ名ヲ冠シテ呼称シ居リタルハ、当山ノ其ノ上ハ未タ何世ヲ以テ称スル事ヲ許サレザルガ為ナルベシ、
明確ナラザルモ概ネ延享四年ヨリ寛延、宝暦ヲ超エ明和四年ニ到ル二十一年間ハ、越後出生ノ披毛泰州首座住シ、明和四年九月二十五日入寂ス、
比ノ後ニ住セシハ二世中興光天覚明和尚ニシテ、明和四年ヨリ安永五年迄十年間ト推測セラル、
比ノ和尚ニ到ッテ当山ノ興隆一新シ、本堂庫裡ノ再建、檀徒ノ帰信等内外ノ復興大イニ之レ努ム、此処ニ於イテカ本寺ノ認ムル所トナリ、寺格ヲ昇高セシメテ法地トナシ、覚名和尚ニハ二世中興ノ称号ヲ許可セラル、
二世和尚ノ代ノ物ニシテ現存シ居レルハ小橋村工藤嘉右エ門ニテ、安永四年三月七日ノ仏ノ為メ寄進セシ打敷一枚(二世光天覚明代トアリ)ト粗末ナル茶箪笥一置ノミナリ、
比ノ後、安永五年ヨリ安永八年迄ノ四年間、安永八年ヨリ天明二年迄ノ四年間ハ過去帖に依リテ明カニ住持二代ヲ経タルヲ見ルヲ得レ共、其名号、出生、経暦共ニ不明ナルヲ遺憾トス、
天明二年ヨリ天明六年迄前後五ヶ年間ハ、孤岸竜峯和尚ノ住スル所トナリ、自筆ノ新添校割帖一巻アリ、巻表ニ四世孤岸トアルハ自称ナリ、現存校割帖ニ記録セラレ居ルモノニテ実物現存モノモ全ク無シ、
古老ノ言ニ依レバ和尚馬ヲ飼ヒ、田七人役ヲ作リタル由、其ノ弟子ハ耕春院ニ住シ六十才位ニシテ、当村八戸專九郎家ヘ来遊シタル様子ナリ、其ノ田地トハ校割帖ノ二口、八人役ノ寄進田ノ事ナルベシ、
明確ナラザルモ、概ネ天明七年ヨリ入寂ノ年即チ文政二年迄ノ三十三年間ノ長期ニワタッテ、高徳十一世南郡黒石町保福寺閑居、青森市安方町出生、当院前住霊道達禅和尚ノ代トス、
当山暦住諸大徳ノ中ニ於イテ、学徳兼備ノ名僧ニシテ、其ノ功績顕著ナルヲ尋ナルニ及ビテハ、先ヅ指ヲ比ノ人ニ屈セザルベカラズ、
文化十四年三月調製ノ新添校割帖ヲ見ルニ於イテ歴然タリ、
古老ノ言ニ依レバ、当時中沢村三上菊左エ門家ニ某アリ、一日当山ニ来リテ言、偶々法華経ニ及ブヤ論争尽クルヲ知ラズ、宿ル事七日、某遂ニ論敗ス、依リテ当時ノ慣習ニ依リ、某ハ土地ニ止ルヲ得ズシテ夜間密ニ逃レテ松山福山ニ到リ、後同地法華宗寺院ニ住職シタリト、当時ノ人ニシテ比ノ事アルハ正ニ非凡ノ学識ヲ有シタル事ヲ知ルヲ得ベシ、
因ニ大鐘ノ銘ハ此ノ和尚ノ作ナラン、比ノ人学徳ヲ語ル物ハ現存ノ諸仏体、諸仏具、大鐘銘、及ビ寄進ノ際用ヒシ木版ノ一片、開山歴住ノ墓石等ナリ、文政二年三月十八日、当山ニテ示寂、
文政二年ヨリ文政六年迄五年間ハ三世宗嶽智源和尚ノ住持期間ナリト見ル、比ノ和尚ハ当村青木家ニ生レタリト伝聞ス、前住霊道和尚ノ弟子トナリ、諸方ニ行脚シテ帰山シ、霊道和尚ニ長老トシ師侍セル様子ニテ和尚入寂ノ後ヲ受ケ直チニ後住トナリ、五年ニシテ退ク、記録全ク無シ、因ニ泉光二十一世、万蔵二十三世トシテ弘前ニ住シタル跡ヲ見ル、
次イテ文政十三年即チ天保元年迄ノ八年間ハ、四世興国宜宗和尚ノ代ナリ、当国出生トノミアリ自筆ノ新添校割帖一巻アリ、
文政七年庫裡再建ス、現存ノモノニ文政十三年ノ銭箱一箇アリ(羅漢堂)文政十三年八月十六日示寂、三十九才、続イテ天保元年ヨリ天保十一年迄ノ十一年間ハ、五世全光法船和尚ノ代ニシテ、天保十一年二月調製ノ新添校割帖一巻アリ、天保八年法船和尚代ニ当院宜宗(四世)大和尚外二名ヲ施主トシタル打敷一枚アレ共、恐ラクハ書キアヤマリナルヤ或ハ何等カノ理由ニ依リタリモノナラン、
明治四年四月二十八日、七十一才ニシテ示寂、之ヲ以ッテ是ヲ見ルニ五世和尚ハ当院ニ住持タリシハ三十才ニシテ、十一年四十才ニシテ転住セルナリ、寿昌十八世藤先三十世ノ跡ヲ見ル、三世宗嶽和尚ハ其後ヲ受ケ再住ス、即チ天保十一年ヨリ同十三年迄ノ三年間ナリ、故ニ比ノ年数ヲ歴算シテ想像スルニ生年ハ寛政六年ニテ、前住達禅和尚ノ後薫るトシテ当院ニ初住シタルハ二十六才ノ時ニシテ、三十才ニシテ転住シ、其レヨリ十八年ヲ経シ、即チ和尚四十七才ニシテ再任シタルナリ、而シテ僅カ三年ニシテ復々転住ス、泉光二十一世、万蔵二十三世等ヲ経テ万延元年閏三月二十五日六十七才ニシテ入寂、
天保十三年ヨリ弘化二年迄四年間ハ六世翫東岳和尚住ス、住職期間短キ為メ残存ノ記録乏シク其ノ行状ヲ知ルニ由ナシ、弘化二年ノ新添校割帖一巻アリ、万蔵二十二世、天津十三世及ビ新城見導寺等ヲ歴任ス、
弘化二年ヨリ嘉永四年迄ノ七年間ハ七世覚応太穏和尚ノ代ナリ、事蹟明確ナラザルモ伝フル所ニ依レバ、晩年長科村儀右エ門在住小国生ノ「オソノ女」ト同行シ、北郡ニ逃レ一日水泳シタルニ女ノ為メ溺死セシメラルト、当時在住ノ節ハ、当村治郎兵衛長男某、和尚ノ行跡ヲ心好シトセズ、紙面ニ悪口ヲ連ネテ山門ニ張リ以ッテ衆人ニ知ラシムト、和尚ノ最後痛マシクモ果ナシ、
後住八世和尚之ガ為メニ位牌ヲ立ツ、次イデ嘉永四年ヨリ安政五年迄ノ八年間ハ霊明秀随和尚ノ代ナリ、位牌ニハ嶺苗、銭箱ニハ嶺明トアリテ、其ノ実ヲ知リ難シ、記録皆無ニシテ出生事蹟、年令等知ル由ナキモ、古老ノ言ニ依レバ晩年健康ヲ害シ温湯温泉ニ湯治中急病発シ客死セリト、弟子ニ千峯ト云フ者アリト、
安政五年ヨリ万延、文久、元治、慶応ヲ超エテ明治六年迄十六年間ハ九世無学天光和尚ノ代トス、西郡出野里出生、通称ハ「カジ和尚」明治六年八月調製ノ新添校割帖一巻アリ、明治六年後住ト交代シテ弘前月峰院(三十世)ニ住ス、明治十七年旧七月二十四日午後三時、同院ニ於イテ入寂ス、
明治六年ヨリ明治四十年迄ノ三十五年間ハ、十世再中興仏戒啄宗和尚住ス、天保九年弘前市百石町中嶋寅吉弟ニ生レ、七才ニシテ保福二十五世仏国策道和尚ニツイテ出家シ、諸山ヲ歴遊スル事十一年、其ノ間万延元年三月三日、江戸桜田門外ニ於イテ伊井大老ノ変事ヲ目撃シタル事、拙僧幼時話サレシハ今ニ記憶新ナル所ナリ、当山ニ住職タリシハ三十六才ノ時ニシテ、威儀ノ厳格、法式ノ確正常ニ道俗ヲシテ讃歎セシメタル所ナリ、弟子亦多ク琢玄、琢庵、琢道、琢昇、琢瑶等共ニ道誉ヲ以ッテ称セラル、
因ニ当山寺宇ハ明和年間、中興二世和尚再建シテヨリ既ニ一百年ヲ超エ、荒廃其ノ極ニ達シ、加フルニ年ヲ逐フテ増加スル檀徒数ニ伽藍ノ狭隘ヲ感ジツゝアリタル所ヨリ、一念発起シテ伽藍再建ヲ計画ス、
此処ニ於イテ檀徒総代ト計リ、専ラ比ノ大業ニ尽瘁ス、即チ檀徒倉谷三四郎氏ヲ伴ヒ、遠ク松前ニ渡リ普ク基金ヲ勧募シ或ハ山中熊難ニ遇ヒ、辛ウジテ毒牙ヲ逃ルゝ事ヲ得、或ル時ハ船中暴風ニ会ヒ観音力ヲ念ジテ僅ニ命ヲ全ウスル等具ニ辛酸ヲ嘗メ、漸クニシテ帰山シ明治十二年、先ヅ本堂ヲ建立シ、続イテ明治十六年庫裡ノ造営ヲ終了セリ、
大本山貫主畔上媒仙禅師其ノ功ヲ賞シ、再中興ノ称号ヲ下シ給ヘリ、明治四十年七十才ニシテ閑居シ、当山閑居室ニ起居シ、専ラ風月ヲ友トシ、信仰弥々深ク諸人ノ尊崇帰依厚キ中ヨリ、大正七年秋九月八日八十一才ニシテ忽然トシテ示寂ス、
明治四十年ヨリ大正十五ヶ年ヲ越エテ、昭和七年ニ至ル二十六年間ハ、琢宗和尚ノ上足十一世燈吹琢玄和尚ノ代トス、琢玄和尚ハ文久三年弘前市南川端町ニ於イテ工藤粂五郎二男ニ生レ、十才ニシテ琢宗和尚ニツイテ出家シ、厳格ナル家風ニ具ニ世ノ辛酸ヲ味フ、十八才ニシテ雲水行脚ニ新城村見道五世梵雄和尚ト同参シ、諸山ヲ歴遊シテ錫ヲ尾州名古屋市白鳥山法持寺ニ止メ、専ラ弁道ニ勉ム、修行七年ニシテ帰山ス、
衆望ヲ一身ニ担ヒ明治四十年、四十五才ニシテ先住ノ後ヲ承ケ住職トナル、資性温和ニシテ宗風綿密、為メニ事ヲ計リテ成ラザルト云フ事ナク在職二十六年間、当山ニ積功スル事一々事ヲ揚ゲテ数フベカラズ、前大平山山口彰真老師一日当山ニ光臨シ、法要ノ席上行持綿密家風広大内外共ニ備ハリ、当山ニ於イテ中興ノ号ヲ以ッテ真ニ称シ得ベキハ当ニ足下ナルベシト感嘆セシメタリ、
後年ハ専ラ子弟ノ教養ニ専念シ、琢法、琢勇、琢明等其レゾレ大学、中学、小学ノ学業ヲ修セシメ、昭和七年旧八月二十八日(新九月二十八日)年七十才ヲ以ッテ眠ルガ如ク大往生ヲ遂グ、
昭和七年先住ノ後ヲ承ケ登録ノ弟子琢法之ヲ嗣グ
                     「完」
附記
 古物碑文、銘、木版文

一、大鐘銘
鐘者耳根得道大器也六途聞声而苦具為之頓息八難聞声而髑髏為之頓活故上至朝廷而護国家下乃衆生出火宅其妙用也周偏法界矣誠哉自他唱名堪謝仏恩焉
于茲天信之在禅尼出国後潟村百姓六良兵衛娘少而帰依三宝而親為菩提発大願国中不寄多少一金一鉄一粒集之回向法界焉
維時寛政七乙卯夏普使衆生令悟之以方便聊華鐘創造而雲納堂進之為次序可謂源尼説化直指仏法之鐘口乎
 銘曰
鑑鐘声昂一 法界無有漏
響告寂戚楽 永転業因生
在己已切徳 顕我々円鏡
頓翻世憎悪 悉求仏果報
  東海浜竜沢山正法院鑑住
    雲道達禅書

二、大鐘鋳造時ニ於ケル寄付勧募文ノ木版ノ一
天明三戌年正月廿八日之夜御群-中-当-之大変而大-小之万民、焼潰死普如恒沙、何況於人間者矣 其活死思不感也、我其合-同死-後之思感而予亦同変而吾父-母并眷属十-二-人逢右変難而死、依之焉我為両親青森菩-提-所於常-光禅舎而剃髪出-家成禅衣身而入仏道参学永為父母四恩報是発誓願而思父母在時者心-厚孝養不能尽、依而死-後自感唯願為父母菩提之
二者万民為有無先亡之大鐘建立之心掛思立依之而若大小万民之蒙助力当国并何国共徘徊而一紙
(霊道和尚ノ昨乎)

三、霊道和尚ト論争セル三上某ノ師匠墓石ノ碑文
 前
  一乗院紀偶居士

 紀偶当国之出生也父者弘城溝江氏景武母者青森中村氏女也尓後於中沢阿弥陀川両村事道為師範焉其性慈仁恵人重教故門人無有註誤仍欲報謝師恩競而造立石碑為末々令童入文字所謂也
  文化二年乙丑五月建立
          六枚橋ヨリ瀬辺地マデ 八ヶ村
門人敬白
  師匠
   中村弥次右エ門塔
四、廻国供艱塔
 前 天平和承
  奉納大乗妙典日本廻国供養塔
   日月清明
右 安永六丁酉年十一月五日 立之
左 白岩蓮池大姉
    願主蓬田村
       武井(不鮮明)
昭和八年旧八月二十八日
  正法十二世 琢法編並書

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二、西仰山楽宝寺

広瀬村字坂本にある西仰山楽宝寺は、寛文年間蟹田町専念寺住職一蓮社良向上人が隠居寺として、初めて庵を建てた。昭和三十一年十二月一日寺号許可され楽宝寺となった。
 一、本尊 阿弥陀如来(藤原光重作)
 一、境内 五十番 反別五畝十八歩
 一、法然上人像(安田勇善作)
 一、善導大師(安田勇善作)
 歴代住職を記すると、初代は向誉上人であるが、後系は判明しない。庵寺であったため他国から流れてきた僧侶もあって判明しない。記録に残る住職は、文政年間の良好貞安老が庵主としていた。貞安の碑は同寺の墓地にある。
 円寂●蓮社良好貞安長老
   文政十子年四月十五日建立
             貞安
 その後の住職は明治二十二年安田勇善師の住職になるまで不詳である。安田勇善師の後任は高根村の八幡勇信師である。勇信師死亡後長男の亮信師後をついだが、大東亜戦争で戦死し、のち弟の八幡孝信師が住職となった。昭和三十五年十月同師は西郡深浦町字関の浄安寺に転任した。後任は北海道利尻郡仙法志専称寺住職工藤淳亮師が住職となり現在にいたっている。
 同寺境内に天明の飢饉で餓死した供養費がある。天明八年上磯を通り北海道へ渡った旅行家であり家人であった菅江真澄が、郷沢を通ったとき飢饉の惨状を左の如く記してある。

 さらに行くと郷沢(蓬田村)という村のあとがある。卯辰の飢饉に、漁をしても魚さえなく、戌を料理したり馬を殺して食ったころ、住む人も死にたえ、家々も焼けてしまったのだという。瀬辺地をへて広瀬(蓬田村)というところの細い流れにのぞんで「ひろせ川袖つくはかりあさきをやこころふかめてわかおもへらん」(万葉集巻七、読人知らず)と、大和とおなじ地名があるので、ここで口ずさんでみて、蟹田の宿駅を越えると川があった。綱舟をたぐってわたしている。

 天明八年菅江真澄がこの地を通ったとき、郷沢の村民が飢饉で全部死亡していたのである。餓死した人々の供養のため、文政十一年良好貞安庵主が左の供養碑を建てた。

 一切檀越結縁衆生
 三界万霊有無良縁等
   卯辰両年死亡精
  文政十一年子年四月十五日
            貞安
        世話人 伊八

 なお明治二十二年ころの住職安田勇善師は彫刻の心得があり、法然上人、善導大師の二体の像を彫刻し、現在保存されている。県所蔵社寺明細帳によると左の如くである。

 青森県陸奥国東津軽郡広瀬字坂元
     本寺 専念寺末寺
   浄土宗名越派 楽宝寺
 一、本尊 阿弥陀如来
 一、由緒 寛文年中月日不詳創立
 一、本堂 縦三間 横五間
 一、庫裡 縦三間三尺 横三間三尺
 一、境内 八十六坪
 一、信徒 百十人
 一、青森県庁迄 六里十町  以上

   庵室移転ニ付進願
 東津軽郡蓬田村大字広瀬字坂元六百二十二番
 一宅地反別弐畝二十六歩 旧庵室建設地
 同五十番
 一、墓地反別五畝十八歩  久慈重次郎外四十八名打
 旧庵室ハ人家ニ接近シ且ツハ狭隘ニシテ管理方不都合不尠ニ不明治二十二年七月二十七日信徒一同協議ノ上該庵室ヲ朱書ノ 地所ヘ移転仕候処今回其ノ筋ノ御調査ニ依リ未ダ移転ノ手続不仕居ルヲ発見仕候次第ニ付特別ノ御詮議ヲ以テ移転ノ儀御許 可相成度別紙絵図面相添連署ニテ比段奉願候
  明治四十三年一月二十七日
           東津軽郡広瀬字坂元 楽宝庵信徒総代人
                  柿崎重吉 稲葉才次郎
飯田文作
住職 安田勇善
    知事武田千代三郎殿

   イ、三十三観世音菩薩五十五周年記念行事
 大正四年卯月、広瀬部落の楽宝寺住職が部落の平和と繁栄のため、観音堂を陸奥湾眼下にながめ、広瀬部落を一望にする風光明媚の瀬辺地との境界に建て、三十三観世音菩薩を本堂に安置した。
 然るに安田勇善師が三十三観世音菩薩を安置してから、昭和四十五年は五十五周年に相当しているので、外ヶ浜奉賛会主催で記念大法要を営み、広瀬、瀬辺地出身の殉国戦病死者の供養を昭和四十五年八月十八日観音堂に於いて営んだ。記念式典後懇談会を広瀬公民館で催した。当日は広瀬、瀬辺地部落から多数の有志参列、盛況裡に終了した。

   ロ、三部落の合同慰霊祭
 太平洋戦争は日本の敗北で終戦となった。戦争前及び戦時中は軍人及び軍属の勢力が強かった。然るに昭和二十年の終戦後は、戦死者及び海外からの引揚者に対し、国民は冷たんであった。これを遺憾として久慈留太郎氏が中心となり、昭和二十二年、広瀬部落、瀬辺地部落、高根部落の三部落の支那事変からの戦死者軍人と軍属の七十二柱、外に二十柱の慰霊祭を広瀬の楽宝寺で行なった。慰霊祭は阿弥陀川正法院住職佐藤琢法、蟹田町専念寺住職三浦義信、広瀬楽宝寺の八幡考亮の三師によって読経があげられた。
 さらに復員代表として陸軍憲兵少尉田中勇太郎、蓬田在郷軍人会長越田由太郎、瀬辺地部落区長越田長太郎、広瀬青年団長川崎正敏、副団長佐井義雄等の慰霊のことばを献上した。

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三、傘松仏苑観音

 傘松仏苑観音は蓬田村大字中沢字浪返にある。境内の水蓮の池と呼ばれる情楚な池があり、堂前に幹は周囲二・二〇メートル、高さ五・四〇メートル、枝は大地に垂下した数百年を経た老松がある。枝ぶりよく、あたかも傘を拡げたる観があり、村人称して傘松という。
 境内に傘松観音堂がある。本尊は聖観音で嘉永二年中沢村有志が発起人となり、無病息災、部落民安泰を祈願し建立、安置したものである。石工は青森三浦福治郎である。
 初め聖観音堂は部落北端字界、旧中沢尋常高等小学校敷地付近にあった。明治四十三年御神託により現在地に移転した。古老の話によると、昔から善男善女が毎年旧正元日、十六日、二月一日には未明から参詣するを例としているという。
 昭和十一年、本堂の新築にあたり俗称馬捨場にあった馬頭観音堂を移築、同時に●染神の石碑(文政九年建立)も移転した。
 さらに境内に三十三番観音巡拝道路を設け、庚申塚、恩師の碑、友愛の碑等が配置され、境内は一段と整備され、傘松仏苑と称せられるるに至った。今や傘松仏苑は児童遊園地としてまた村民の信仰の場として活用されている。
 傘松観音は霊験あらたかなるを以て有名である。信仰者は神霊により、長寿を全うし、しかも立派な大往生を遂げるという。特に変事に際しては御神体はみるみるうちに黒色に変じ、ついに漆黒となり露をもらすという。今回の大東亜戦争に際しては奇蹟的な事象が多く別名軍護観音と称せられ、出征軍人家族の信仰が厚かった。
 仏苑開かれて三十年、毎年八月十七、八日の祭日は盛大な式典が営まれ、参詣者は近郷近在から多数参列する。

  傘松観音和讃
          禅山居士作
 一、春は桜に鳥の声
       夏は松風蝉の音も
   秋冬変る天地の説法
度生の法の声
南無大悲観世音
 二、密妙の相の傘松も
       観音大師の御相ぞ
   大悲の池の蓮の花
       観音菩薩の水鏡
         南無大悲観世音
 三、奇蹟といわん観世音
       滴り落ちる慈悲の露
   我が子を思う親心
       衆生をあわれん観世音
         南無大悲観世音
 四、生れままなる法身を
       けがさぬために日常の
   つとめ大事と人々よ
       御名を唱えん観世音
         南無大悲観世音
             傘松仏苑観音堂守
三禅居士拝作詞

    友愛の碑文
 傘松の操は桃園の義にも似たり
 桜花の薫り管鮑の心にも比すべし
 ああ美なるかな仏苑の景
 尊きかな友愛の精神
 愛は万物を融かす
 感謝と喜びの声なり
 豈黄鳥のみならんや
 万鳥来れ共に平和を謳わん

  浩宮徳仁親王殿下御誕生の年
   昭和三十五年七月十日
         竹馬童友会 建立

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