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村史

第十一章 金光上人と阿弥陀川

第1節 金光上人の生いたち

 金光上人は筑後竹野郷(現今、福岡県浮羽郡水縄村字石垣)の出身である。父は竹野の領家、当道朝臣及び麿公、母は国守以長の女、橘方子といった。父及麿は儒学に秀れ仏法を信じ、仁心深かったので其の徳望は四方に輝き、国中の人々は皆竹野の長者と貴んだ。
 このように及麿家はなに不自由なく生活していたが、既に四十歳を過ぎたが嗣子がなかった。そこで夫婦は家門の断絶するのをおそれ宇地山の観音堂に祈願した。満願の久寿二年二月二十八日の黎明に授かったのが金光房、幼名現若であった。
 五歳の春から読書を教えたが、聡明叡敏、一を聞いて十を知るという。神童といわれ誦経礼拝という普通の子供等と変わっておった。
 現若七才のとき筑後の御井郡高良山の僧坊御井寺(天台宗)の精覚律師の門に入った。修学心に燃えた現若は仁安二年十三歳のとき、今日にいる叔父以長をたよって単身京へ上った。叔父は現若の決心のほどを聞き、感激して叡山恵光房円輔阿闍梨のもとに連れ弟子入を頼んだ。師も喜んで迎え、茲に三帰五戒を授けられ、以来台学を研究すること三年、嘉応元年拾五歳のとき入斎戒をうけ同二年十六歳の春剃染、円証の名を賜った。叡山にとどまること二十年、文治二年三十二歳の三月、僧都に補せられ、後座主全玄僧正の特命をうけて、筑後勅願所石垣山観音寺の別当として赴任した。
 金光房は荒廃した石垣観音寺の復興に努め五年間に旧観に復したが、或るとき別当所領について沙汰となり、太宰府の鎮西奉行に事の由を訴えたが、希望を達することができず意を決し、建久七年の春(四十二歳)鎌倉幕府に至り大将軍頼朝公に上訴された。鎌倉に留ること数カ月に及ぶも事はかどらず空しく時日を過ごした。
 そのころ浄土宗の開祖法然上人の弟子安楽房が鎌倉に下り教化につとめていた。金光房は安楽房を知るところとなってから、京都の法然上人を訪ねることになった。その智の深きは大海の如く、徳高きは山にも勝っていたので、自ら弟子金光房と書して、上人に呈し直ちに子弟の約を結ばれた。
 夫より三年を経た正治二年に、師命により念仏弘道のため、奥州へ下った。遠野の善明寺、土崎の阿弥陀堂を建て津軽に入ったときは承元四年(一二一〇)であった。

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第二節 金光上人と阿弥陀川

 金光上人の津軽における経路は、南部の遠野から秋田大館、能代、土崎を経て阿弥陀川に出で阿弥陀像を拾いあげ、これを背負われて、津軽における念仏弘道がはじまるのである。
 金光上人が阿弥陀川で阿弥陀像を拾いあげたことについて、西光寺文献を参照にして記すると、
 浄土宗の開祖法然上人の弟子金光上人は霊無のお告げにより「阿弥陀如来が汝津軽の外ヶ浜に至れば必ず逢わん」と三日、三晩続けて同様の夢を見たので上人が遠く尋ね来り、遂に承元四年津軽外ヶ浜蓬田村にたどりつき、一介の漁夫に問うて曰く、この辺で何か変ったことがないかと尋ねたるに漁夫曰く、この村の端れの川に夜になると毎晩川の中から光りを発すると云う。村人はこれを怖れ怪んで誰一人其所を通る人もないと云う。この話を聞くや上人はこれこそ夢のお告げの阿弥陀如来であろうと、村の人々と力を合せて川を掘り探させたところ、暫にして上人様の手にした鍬に手応えがあった。
 早速拾いあげてみると一つの立派な筥が現われ、筥を開いてみると阿弥陀如来像であった。
 この尊像は現今弘前市新寺町西光寺にあり、昭和三十一年五月十四日青森県文化財に指定された。また爾来この部落を阿弥陀川村と云い、川を阿弥陀川と称するにいたった。

阿弥陀川から拾いあげた阿弥陀如来像は、前記の如く弘前市新寺町西光寺に現存している。同寺の縁起は金光上人の一代記及び阿弥陀如来像について詳記されている。

  奥州津軽弘前西光寺本尊
  阿弥陀川村出現霊像略縁記
 当寺ニ安置シ奉る阿弥陀川出現瑞像ノ其由来ヲ尋ルニ、項ハ 人皇八十三代土御門天皇ノ御宇、正治建仁年中元祖円光大師御弟子ヲ分テ、国々一念仏弘道ニ遣ハレシ時、石垣ノ金光上人陸奥ノ教化ニゾ当レリ、何故ソ御弟子数多ノ中金光上人ニ命セラルゝト云フニ、智道兼備ニシテ大師ノ尊慮ニ叶ヘリ、
 倩金光上人ノ一代行状ヲ尋ルニ、生ヲ築後ノ国ニ受テ修学ヲ比叡山延歴寺ニ励シ、八宗ノ大綱ヲ暁メ生国鎮西ニ下リ、石垣山観音寺ニ務タリ。故ニ世ノ人呼テ石垣ノ金光坊ト云フ、然ルニ彼ノ別当所領ノ沙汰ニ就テ相州鎌倉ニ訴フ。意ナラス日数ヲ送ル時ニ浄土開祖法然上人師ノ門弟に安楽房ト云フ人アリ、鎌倉下向シテ念仏ヲ化導シ、貴賎群集シテ男女掌ヲ合スニ至レル哉、浄教ノ本願念仏他力難思ノ妙術弘道ノ熱スル時也。
 爰ニ又渋谷ノ七郎入道道弁ト云人有リ。安楽ヲ延テ石川ノ宅ニ請シ一向専修念仏ノ慈訓ヲ蒙ル。時ニ金光房ヲ招テ安心領解ノ筆記ヲ誂ヘ、而ルニ金光房宿善忽ニ開発シテ、永ク浄土門ニ入リ寺務ノ公事ヲ捨テ、速ニ吉水ノ禅室ニ詣テ、求法ノ志ヲ暢、法然大師金光上人ノ屡法器ヲ感シテ、為ニ宗議談ス。単ニ往生浄土ノ秘願ヲ承テ深ク奥儀ニ到ル又親盛入道各見仏ト云フ者大師ニ問テ曰ク、御往生ノ後浄土法門ニ於テ不審ノ事ヲハ誰人ニカ問申ヘキヤト、大師答テ曰我滅後ニ於テ浄土ノ法門不審ノヲ鎮西ノ聖光、石垣ノ金光ニ尋ネ、彼等ハ悉ク予カ所存ヲ知レリ、然モ彼等ノ遠国ノ能代ナリ、近クハ聖覚モ予カ所存ニ知レリト(決答疑問折上ニ審之)上件ノ仰言有テ善遵大師ノ骨体ヲ得タル者ハ唯聖光金光ナリト歟メ、西国ハ聖光、東奥ハ金光ト左右ニ命セラレ専修念仏ヲ弘ム。爰ヲ以テ建仁三亥年(比間十数字塗抹)奥州ヘ下向在ケル処、仙台栗原郡ニ変丑愚夫ヲ済度ノ為メ(数字塗抹)於南部遠野ノ善明寺御建立、受時戒念仏結縁済度ノ砌、異相ノ人来テ上人ニ受戒ヲ願フ、上人曰ク授クル時於必有各字汝ハ何レノ誰人ナルヤ、異人ノ曰ク我ハ是海中ニ住ム竜神善明ナリト、上人為メニ円頓戒ヲ授ク、因テ御礼トシテ竜宮ヨリ梵鐘一口ヲ献ス。径リ一尺五寸許長又是ニ同シ、幾シト今ノ製ニアラス、是ニ於テ道誉普ク有テ遠近徳ニ帰ス、爰ニ承元年中或夜ノ夢ニ金光上人ノ枕ノ元ニ阿弥陀如来ノ尊形忽然ト現ワレ、汝津軽ノ外ヶ浜ニ到レ必ス逢ワント、夢覚メテ希有ノ思ヒヲナス、我念仏弘道済度化益ノ身ナレハ、急キ彼地ニ到レ迚、外ヶ浜ニゾ下リ給フ、時ニ承元四年四月初メノ頃ヨリ、津軽合浦外ヶ浜青森ノ辺リ蓬田村ト云フ処ニ河アリ、其流東ニ去テ澄清ナリ、其項彼ノ川ノ中ヨリ夜々水面ヲ照スモノ有、近郷ノ民是ヲ怪ミ怖レテ、敢テ夜行セズ、時ニ金光上人其地ヲ通りかゝル忽チ一人ノ沙門現レ、上人ニ告テ曰ク、汝当ニ異光を探ル可シ、必ス利益アラン忽緒ニスル事ナカレ、ト言ヒ訖テ見ヘス、怪ミテ彼ノ処ニ往テ河ノ中ニ入テ是ヲ掘リ求ムルニ、一ツ宝匱ヲ得タリ、取挙ケテ是ヲ開キ拝胆シ給フニ阿弥陀ノ尊形ナリ。
 御長一尺五寸三分腹内□ニシテ内ニ丸物アリ大サ木薬子ノ如シ金玉ノ類ニアラス触ルゝニ柔弱ナリ 威容巍々トシテ、光明普ク遠近ヲ照ラス、其ノ鐫奇異ニシテ殆ンド凡エノ所作ニアラズ、見聞之諸人未タ曾テ是ノ如ク不思議ヲ見スト、大ニ歓喜ヲ生シ夫ヨリ彼河ヲ阿弥陀川ト云フ。今ニ其ノ名ヲ残セリ、又行岳ト云処ニ農夫アリ、重痾ヲ受テ久シ、霊像ヲ己カ室ニ入レ奉リ上人ニ赦ヲ請フ、上人病者為ニ専ラ念仏ヲ唱ヒ、水咒シテ之ヲ飲シムルニ病立ドコロニ癒ス。
 建仁二年夏大ニ旱ス、百姓皆憂ヒ、上人ヲ招テ雨ヲ請フ、即上人彼地ヘ尊像ヲ負ヒ、池ノ辺リ香数々焼テ唯一心ニ弥陀ヲ隘、香ノ煙リ空ニ昇テ玄雲トナリ大ニ雨ヲ降ラス、比稔豊作ス、又大光寺ト云処数々妖怪アリ、之ニ逢フテ死スルモノ多シ。村人憂テ禳テ上人ニ祈ル、上人即霊負彼地往テ専ラ弥陀ヲ念シ、遂ニ乃妖怪ヲ去ラシム、或ハ信土長六ト云者有、金光上人ノ頭上ヨリ光ヲ放ツ、見テ捨家ヲ入道ス、或ハ又上人ハ観音ノ化身ナリト夢見ル者アリ、是ノ如キ奇瑞甚多ク具ニアゲルニ遑アラズ。合村感喜ニ絶ザルノ余リ、行岳ト云フ処ニ草庵ヲ結ビ、瑞像ヲ安置シ、弥陀一教利者偏増ノ大益ヲ勧導シテ、普ク結縁済度在シケレハ、遠近ノ老若男女群集、結縁シテ上人ノ教ニ随ヒ、目出度往生ノ素懐ヲ遵侍ル者多カリケル、然ルニ上人日来ノ所労増気シテ、遂ニ建保五丑年三月二十五日庵ノ中異香薫シ、空中ニ天楽アリ頭北面西ニシテ、高声念仏ト共ニ眠カ如ク往生シ給フ。時ニ御年六十三也。遺命ニ依ッテ全身ヲ東ノ陵ニ葬ル、今伝テ金光塚ト云フ、定墳墓ノ地ナリ。
 其後行岳ノ五本松ト云フ処ハ、北畠大納言親房卿ノ嫡子権中納言顕家卿ハ、鎮守府ノ将軍南朝ノ臣タルノ後、奥州国司トナリソノ時彼ノ行岳公家所領トナリ、是地ニ殿宅ヲ構、人呼テ御所ト云フ、爰ニ金光上人入寂ノ後、彼大納言信敬拝受シ給ヒテ、別ニ敷地ヲ賜ハリ、即一宇ヲ創立シテ本尊ヲ安置シ、事ニ一寺トナシ、金光上人ノ開基トシ、行岳山西光寺ト名ヅケ、一向専修念仏ノ道場トハ成リ、又夫ヨリ星霜漸経テ北畠殿ノ後胤具永公天正六年七月二十日落城已後、当津軽ノ御先代、慶長十四年本尊霊夢ノ瑞ヲ感シテ、利益ヲ蒙ルカ故ニ、仏供田ヲ賜テ、永ク是ヲ尊重シテ、弥陀ノ餘光弥暉以来世ノ衆生ヲ引導ス、嗚呼本願仏智ノ善巧思義スベカラス、金光上人の事蹟ハ御伝翼賛遺事并上人ノ行状別伝ニ記カ如シ。蓋シ尊像ノ霊験古今甚多シ、一度瑞像ヲ参拝、志称タルノ輩ハ、現世ニ於テ広ク衆ノ苦艱ヲ済ヒ、命終ニハ本誓ノ重願不慮、公順次ノ往生疑無者也。 仰テ日課称名信心増進南無阿弥陀仏
                奥州津軽花輪郡弘前
行岳山金光院西光寺

    木?子(むくろじ)
  金光道場の四字をかしらに置く
行岳山金光道場にて読める
          権大僧都 宣常
  金剛の威を増したまふ伽藍神
    さの行寺の御法守りて
  光りさして顕れ給ふ流れをハ
    阿弥陀川と今もよふなり
  道ひらけ聖の徳を顕わるる
    むかしより今に六百のとし
揚きよし門の志るしの石ふみを
    とひ来る人の日に日にそ増

     短冊
  行岳山の主 契りあれは又も逢ひみん
                   ひ路さま誌
  旅立をよめる 阿弥陀の川の流れ説きせし
                   宣常
  良鼓和尚の 我身をは台となして弥陀仏と
  苦行をおもふ うつり日の旅そ尊き秋
宣常
     弘前太守の母君申給けるより
     行岳乃尊像によみて奉る
  濁りなき水よりいでし月ぞ今にし乃光の寺にこそすめ
                司直

       阿弥陀川         斉藤鶴汀
     左東津軽郡後潟村往昔金光上人飛錫至外浜得仏像於河中今祀弘前西光寺者是也寺葢上人所創始云
  間言霊像出請波遺蹟千年客過多荒草堙流流欲絶小河仍看喚弥

        後潟村トアルハ蓬田村ノ誤ナラン
                  (奥東風雅)

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第三節 地蔵川に就て(後世地蔵と呼ぶ)

 口碑の伝えるところによれば、後世年代不明、此の地に阿弥陀如来の代りに石地蔵を作り祭った。(蓬田と分れて阿弥陀川と名付けた頃か以後か約二百五、六十年以前のことならん)この小川をのち地蔵川と云った。現存の地蔵尊像は一見古色蒼然として顔も自然摩滅して目鼻が判然としていない。伝説によれば百数年前長科と阿弥陀川との境界争論の時、この地蔵尊像は境界線に建立されてあったので、双方奪い合いをなし或は長科に或は阿弥陀川に隠された。その時年号を彫っていた台石を海中に投じたという。今は無い。

  台石の彫刻文字
  頭字(不明)次の文字(部首不明)它心此(不明確)次の文字(不明)阿弥陀河頭字(不明)田甚十良同内(頭字不明)  平安清(頭字不明)西武右門同内流田村施主(之れは長科のことあらん)寺屋専九郎同内工藤儀右門三十郎同内とある

 右の家現存せるものは工藤儀右門三十郎(之れは小鹿三十郎なるべし)の二家なり他は全部不明なり。
 此の石地蔵は丈け一尺六寸三分、則ち河中から掘り上けた阿弥陀如来も同様丈一尺六寸三分である。此の点から考えても代りに作ったものには相違ない。当時石屋の技巧は優れたものはないから阿弥陀如来を作るつもりでも出来上って見れば地蔵様になっていたかも知れない。左堰の馬頭観音は地蔵様である。村の人は馬頭観音として作らせたものなので今も馬頭観音なりとして礼拝している。(現存)
 又阿弥陀如来の尊像を作って効外に建立することは畏れ多くもったいないから地蔵を代りに作って建立したものか。当時の人は信仰は篤く今日の人の推察は却って当らぬことだかも知れない。何れにしても阿弥陀如来の代りに建立したことに違いないと思う。その地蔵堂こそ大切に保存すべきであろう。
 北中野の西光寺の和尚の柏観導師は中沢に来り阿弥陀川に説教道場を建設せんと中沢、長科の重立有志を訪ね賛成を求めたるも、油川浄満寺、蟹田の専念寺阿弥陀川正法院の檀徒斗り多いので将来寺院でも出来ると各々の寺に影響するを顧慮して応ずるものがなかった。

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第四節 和田喜八郎発見の新資料による阿弥陀如来像

 昭和二十四年七月下旬、飯詰村の一農夫和田喜八郎氏が飯詰山中にて偶然仏具、古文書を発見し郷土の話題を呼んだ。同古文書は現在藤崎町、摂取院に保存されているというが、その真偽について郷土史界に論議されている。しかし真偽のほどはわからないが、金光上人が阿弥陀川で発見した阿弥陀如来像についての資料は興味をそそるものが多々あるので、参考のため佐藤堅瑞著「金光上人の研究」から引用掲載する。
 新資料、仁正坊の記
  建保元年三月三十日、金光坊は外ヶ浜大中山応身院に来た。金光坊は登山の途中深山から流れ来る冷水に咽喉をうるほさ んと谷に下ったが、上流から金光りの木像が流れて来たので、法衣のぬれるも知らず水を飲むのも忘れて其の仏像を拾ひ上 げて三礼九拝した。
とある。また第三の新資料により佐藤堅瑞師の解説によると。
  建保元年、春弥生の三月三十日、金光坊なる旅僧、外ヶ浜より大中山応心院に来る。金光坊登山の途中に深山より流れ来る冷水にのどをうるほさんと谷口降りければ、川上より金色の光り流れ来る木像あり、金光坊衣のぬれるを知らず呑水をも忘れ、その仏像を拾いあげ、三礼三拝して我一人に想うにこれは川上に仏場あるを知り大中山を登りぬ。日暮にしてようよう応身院にたどり一宿一飯の慈悲を住僧忍玄坊にこう。然るに忍玄坊は金光坊の背負える阿弥陀仏をみつめるや
  「貴僧の背負える仏像は、去日我れ捨てたる仏像なり、けがれたる仏像なれば早々に捨てるべし」
 時に金光坊大いに驚き
 「もったいなくも九品上生の阿弥陀仏を、なんたる無礼な云ひ事ぞ」
 「御不審あるはとうぜんなり。これなる仏は去年我が弟子照法坊に造作を頼みし仏なり。然るに照法坊寒きとて手の自由きかぬ故、下山致し地頭作衛門殿家に在居し、一刀三礼の心願に六根清浄し、力を入れることしばし。時に作衛門殿にみめうるはしき娘あり、茶を進め飯を給付致す内に、双方恋中となりて修験宗大要の仏像への心願をやぶり、十二月十一日、大師小角、回忌日に至りても仲々完成あたわず、我心に不審に想へて下山し、地頭宅におもむけば村人いづれも照法坊を軽笑せざる者一だになし、我心にいま照法坊を誅すべけんや否や、大師夢告によって定決せんと、其夜我れ大師を夢みる、時に大師夢に現して曰く
  汝、照法坊をにくむべからず、人間皆自由なり、照法坊を速に破門し、仏像の霊祈をせず、谷の清き流れに流し浄土国に送るべしと、我れ夢さめし朝、早々山を降りて照法坊に会い、大師の夢をそのまゝ告げて照法坊を破門し、仏像を背負い谷の流れに捨てたるものなり。時に金光坊大いに心痛して、たとへけがれた破門の者の作とは云いども、像は阿弥陀仏なり、我れこの地に浄土教を流布せんと永旅に身も心もつかれ、ようよう此山を越えんとするに禅光を感じ降りてこの仏を拾い、永旅のつかれも忘れる程うれしく何とぞこの仏を礼拝するを許し下さるべし

と忍玄坊に願ったが承知しなかった。両僧法論をたたかわしたが結局

 ひろはれ来るもまた仏のなんとやらで、此の山の下場衆人堂に祭るもよし亦行丘野荒吐堂に祭るもよし、此所に置かれるもよし、貴僧の意にまかせて今よい吉夢をたのしむなり。

と忍玄坊が言って、金光坊の願いをいれた、という新資料が発表された。真偽はともかく興味あるものである。

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第五節 阿弥陀川史蹟に関する諸説

 金光上人が凡そ1ヶ年以上阿弥陀川に滞在、布教に努め、のち如来を背負い梵珠山に登って不況に努め、さらに浪岡に出で五本松に庵を結んだ。金光上人の驚異的な努力により一応成果を得たるも、一部には土俗的な邪教を信ずる宗徒もあり、これらに対し熱心に念仏の有難さを説きまわって献身的な努力をかさね、ついに肉体に限度があらわれ血を吐く身となった。
 東奥念仏の始祖金光上人が津軽へ来て七カ年、布教のため努力し、病む身となってもめげず説法を続けたが、よる年波と薬石の効なく南無阿弥陀仏の声のうちに偉大な一生を終えた。説きに建保五年三月、年六十三歳であった。
 遺命によって其屍は東の陵に葬り、これを金光塚と称した。金光坊の住んだ草庵に阿弥陀川から出た仏像とその霊牌を安置し、塔守の庵となった。その後、五本松は北畠守親卿の所領となって殿宅を此処に造営することになったので、金光坊の遺跡を惜しみ、敷地を外に賜い、さらに一宇を創立して、寺領若干を寄附し金光上人と謚した。これすなわち行丘山西光寺である。正保三年津軽家の命により弘前、新寺町に移転したが、旧敷地に西光庵をおき名僧金光上人の遺跡を保存している。
 かくの如く金光上人の終焉の聖地は立派に保存せられているが、津軽における最初の足跡地である阿弥陀川には、何ものもない。地方民としては遺憾な点が多々あった。そこで坂本種一氏を中心に金光上人遺跡保存の集まりと、金光上人に関する遺跡及び資料を保存している浪岡の郷土史家故前田喜一郎及び浪岡町金光上人奉賛会長薬王院小田桐真昭氏等連絡、協議した結果

 一、阿弥陀寺道場の建立
 二、金光上人の墓の建立
 三、小鹿三十郎源成正碑の建立

以上の三問題が研究議題にのぼり、第1問題を除いて昭和三十四年四月十日平和日本の再建と世界平和を祈念してこれらの碑が建立されることになった。
 先ず第一番の阿弥陀寺道場の建設の件である。このことに関して阿弥陀川に阿弥陀川寺道場の建設を計画したのであるが、油川の浄満寺、蟹田の専念寺、蓬田の正法院の反対があって実現しなかった。
 第二の金光上人の墓及び小鹿三十郎源成正碑の建立については、地元と浪岡の金光上人奉賛会の人々の運動で昭和三十四年建碑の議は進められ左の碑が建った。

 金光上人
  北畠顕宣老師所伝古文書ニ曰ク後世長慶天皇上人ノ為ニ円覚大師の尊号勅賜セリト
                                  浪岡二十四世
                                    顕就北畠栄太郎
                                          撰
 金光上人建保五年三月二十五日寂浪岡史蹟顕彰会長故前田喜一郎翁所伝古文書ニ曰ク
 信者小鹿三十郎等ノ願ニ依リ此ノ地ヘ上人ノ分骨奉埋セリト
                              北中野西光院担頭
                                   平野あい
                                   高木正之進
                                        敬書
 右ノ金光上人の碑が建てられたが、長慶天皇が金光上人に果して円覚大師と尊号をおくったか疑問に思うものである。長慶天皇の在位説にも疑問がもたれていたのが八代博士の研究により昭和元年にようやく皇統譜に列せられた。また永く御陵墓も決定を見なかった。本県の紙漉沢、浪岡、長谷有末光塚等が御陵候補地にあげられ研究されたが、のち紀伊国に御決定あったお方で、本県に巡幸のことすら確実視されない天皇が、円覚大師の尊号をどこでおくったか疑問である。
 なお金光上人が本県にお出でになったときは、金光坊といっていた。北中野で死去してから浪岡の北畠家が金光上人の尊号を奉っている。その北畠家の後裔の北畠顕宣老所持の古文書によって記載したということが、明記されている。
 そこで撰者北畠栄太郎氏にたずねんとしたが、既に故人となられ、夫人に照会したが要領を得なかったので、浄土宗本山で大師号について、また和田発見の古文書についていかに取り扱っているか、弘前市新寺町貞昌寺に問合わせた。

 前略、さて過日の親書確かに拝受、早速返信致すべきところ遅くなって本当に申訳ありません。実はそのことにつき、二、三人の人々にきき又調査したため遅くなった次第で、何卒御許しの程御願い申し上げます。
 一、金光上人に大師号贈られた事実はありません。宗関係、宗史関係にも見たことがありません。おそらく本山、大学研究室に問合せても、無駄と思います。
   地方のあるものが、上人のお徳を讃えるのあまり、作りあげたものでないでせうか。
   浪岡西光院にある墓碑にも、かなり問題になるようなことが書かれてある由、過年死亡なさった北畠さんに聞いた時、北畠さんはそんなことないといって居られたそうです。
 二、分骨の件、前者同様、確証文書の何ものもなく、誰かが作りあげたものと、小生は思っております。
 三、和田氏発見古文書の件、最近諸所で問題になり、郷土史家の長尾角左エ門翁も、それを指てきし、その以前参議院議員笹森順造先生、弘前成田末五郎氏も問題にし、私等浄土宗門の人々も問題にしております。
   開米師、佐藤師のまとめた努力は解りますが、和田氏古文書の資料の研究がなされて居ないのが大変残念です。
   第一に古文書の真証性をはっきりさせ、その上での研究でなければ、何等価値のないものと思います。
   不肖小生、その古文書を見た時の感じでは、紙質、筆跡、墨色からしてそんなに古いものとは思いませんでした。率直な見方で間違いでせうが、小生としては
   最近耳にしたところでは、誰かが奈良か京都で書かせたものとか、
   もしそれが事実とせば、これは大変なことです。現段階では小生はこの古文書の真証性を疑っている一人です。
   郷土史家の厳正なる研究の結果におまかせ致します。
 以上一応返信申し上げます。
    昭和四十一年八月三十一日
                               貞昌寺住職
                                  赤平昌導
     肴倉先生

 以上の御返書を戴いたので、さらに確かめようと公民館長坂本豊道氏の名で、建碑の責任者で金光上人奉賛会会長である薬王院住職小田桐真昭師へ左の照会状を出した。

 前略、我が蓬田村史編さんを試みて四年を経過、資料も大方集り目下原稿執筆の段階にいたっております。ところが金光上人当地布教の史蹟は、先人の努力により明らかなところですが、故坂本種一翁が御貴殿の協力により、阿弥陀如来発見の地に碑を建立してから一躍衆目の的となっております。
 しかしその碑文の中に長慶天皇から贈号として円覚大師の尊号を授っておるようですが、現在まで金光上人について各種の著書をみてもそのような点が見当りません。既に種一翁は故人となっておりますので、その点お教えをうけるわけに参らず、御貴殿ならその内容を裏付けする資料等をお持ち合わせと存じ、突然ですが書中を以て照会致した次第です。何卒円覚大師の尊号について資料を御回答下さるようお願い申し上げます。
   昭和四十一年十月十一日
                                蓬田村公民館長
                                    坂本豊水
    小田桐真昭師

 これに対し小田桐真昭師から左の長文の回答書がよせられた。

 (前略)
  北畠顕義卿が金光坊に対し、金光上人の称号を奉り、墓及び御遺骨を現在の西光院境内に御移し申し上げたということであります。それまで御墓としておった土地に新館を営んだということであります。
  長慶天皇は円覚とおくり名せられたと伝わっております。長慶天皇の奥州御潜幸は謎として未だにハッキリ致しません。長慶天皇の御即位遊ばれこと迄も否定されてあった様であります。
  ただ浪岡の人達だけは北畠氏と結びつけて、昔から浪岡御潜幸を信じ、文書に残し、機会ある毎に文部省等に申請しておりました。或はそれを信ずる余り、自分の考え意見をまぜて書き残したこともあるかと思われます。
  二十数年程前に亡くなられた前田喜一郎翁の未発表の原稿には円覚のことが書かれてありました。私はこれを信じませんでした。何故ならば円覚大師は禅宗の初曾とする達磨(ダルマ)大師が確か円覚と支那の皇帝からからおくり名せられておったからであります。
  このことを北畠顕宣翁にお話し、円覚の事柄を後世に残すには、どの様な方法をとったらよいかと御相談申し上げたら
  「伝ニ曰く、長慶天皇は金光上人に対し円覚大師とおくり名せられ給う」
 でよいだろうとのことでありました。元大杉村長石村政義氏(四、五年前八十六才で亡くなられた)は前田喜一郎翁の苦心を語り、円覚を常に世に出したいと思うのか、請書歴史文の中には必ず書き入れるのだが、二、三日して右の項目に墨を塗って、とても駄目だと云って残念相にしておったと話しておりました。
  前田翁の遺稿の一部が私(小田桐)の手元にもありましたが、阿弥陀川に碑を建てた直後、浄土宗の一部有力な(県内)僧侶達にひどく叱られ「阿弥陀川のことは、殆ど偽りのことを書いて残し申し訳ない小田桐真昭」として別に碑を建てろと云われ、その様に致しますと私が約束致しました。浄土宗その他どこにもないことが多いと云うことでありました。
  円覚については、坂本翁にも前田翁の遺稿を御貸しし、見て戴きました。石にほることについて私も坂本翁も、凡そ二年程なやみつづけました。むしろ中止する考えの方が強かったのであります。命がけの仕事、それに永代の非難、批判がつづくものと思われたからであります。
  私は毎朝、毎晩阿弥陀川の方向にむかって、どの様にしたらよいか金光上人の真霊に御祈り致しました。
  石村政義氏は「終戦前であれば、一歩あやまれば打ち首になる。前田翁がやらなかったものは、やらない方が賢明だ」と云った。
  二年過ぎてから坂本翁に傘松観音が夢に現れて般若心経を三万三千三百三十三回唱えて願をかければ、必ず阿弥陀川は再興できる、一命を捨てろ、お前の尊敬する大唐国の玄奘三蔵法師の御霊もこれを助ける。兎ニ角一命を捨てゝ世間の悪口を死後もうける覚悟せよ」と云われた由。
 玄奘三蔵法師の骨粉は縁あって私の手元に祭られてあります。坂本翁は苦心の余り精神が疲れて、この様な夢を見られたのかも分りませんが、当時私もこの夢を信じました。
  坂本翁が死なれる二、三日前に私の処にお出でなされ、心経を幾らも唱えぬうちに阿弥陀川に碑が建ちました。碑が建ってから後も読経を止めませんでした。遺憾ながらあと三百二十辺程心経を唱え残しているから、貴僧が傘松観音へ唱え納めてくれとのことで、私が坂本翁の通夜の翌朝午前二時からあけがた迄かかって納経致しました。
  前田翁の遺稿、円覚は浄土宗の僧侶から故障が出たとき、このことで後世の人が苦境におちいることを恐れ焼却致しました。これは坂本翁や浄土宗の僧にも通知したと思っています。(中略)
  阿弥陀川碑の除幕式団体参詣には、西光院住職の大反対に合いましたが、幸い信者の結束で二百人程お参りすることができました。
  阿弥陀川に建立された碑は、坂本翁が一々古文書(故人の遺稿)に依って、一々確認しとても正確にやったつもりでおりますが、このことを知らない人達は非難し勝ちであります。
  あれから年代も余程になり、書類も焼却され、私も又その後、子弟の養育に専念し、免角病気勝となりましたので、殆んど記憶がうすれました。円覚に就いて、石から消す訳にも参らず(これは坂本翁が一命と取りかえいる程なやんだもの)、余り世間が騒ぐ様であれば、むしろ村史に載せない方が良いのではないかとも思われます。しかしながら実際に石に書かれているものを、載せない訳にも参らぬだろうし……御尊台様の御苦心は坂本翁にも勝るかと思われます。北畠顕義翁は
   世に知られた天皇の御幸 世に知られざる天皇の御潜幸
   世に知られた天皇の詔勅 世に知られざる天皇の密勅
  円覚の場合は密勅と思うと云われていました。(後略)
    昭和四十年十月十四日
                               小田桐真昭
     坂本豊水 様

 道の長文の手紙が公民館長坂本豊水氏宅に寄せられた。これを読んでみると、長慶天皇の浪岡御潜幸は歴史上認められていないが、浪岡の人々は北畠氏と結びつけ御潜幸を信じていた。しかし自分は信じていなかった。それはダルマ大師を支那の皇帝が円覚大師としておくり名せられたからである。然るに北畠顕宣翁と相談の結果「伝に曰く長慶天皇は金光上人に対し円覚大師とおくり名せられ給う」でよかろうという訳で碑に刻むことになったというのである。故に碑には「顕宣老所伝古文書に曰く」と責任を顕宣におわせたのである。
 ここに至るまで故前田喜一郎、下沢保躬氏等の論考があったであろうが、世の批判と浄土宗の僧侶の大反対があって、前田喜一郎氏は発表にいたらずに終っている。小田桐真昭師はその遺稿を持っていたが、前記の理由により後世の人を誤ることを恐れ古文書を焼却してしまったのであるという。
 建碑することについては坂本種一翁は苦心し、傘松観音の夢のお告げを信じて建碑を強行したが、その原動力というのが、小田桐真昭師であった。その真昭師が、蓬田村にとって却って不利であり、迷惑であると思いでしたら石の字を削除してもよいといっている。無責任も甚だしいことである。なお金光上人の碑の外に
   金光上人建保五年三月二十五日寂
    浪岡史蹟顕彰会故前田喜一郎翁所伝古文書に曰ク
     信者小鹿三十郎等ノ願ニ依リ此地ヘ上人の分骨奉埋セリト
      北中野西光院担頭
                               平野あい
                               高木正之進
                                   敬書

   小鹿三十郎源成正碑
    蓬田開拓東北最初念仏教帰依三十郎源成正具平親王裔崇徳帝臣久
     安四年蓬田開拓金光上人之為阿弥陀寺開創建保五年六月一日示幽
                               南北両朝天皇牌
                                謹作者 平賀笙舟書

 故前田喜一郎翁の所伝には、金光上人の分骨を小鹿三十郎が願い出で、許されてこの地に埋めたとある。然らばどこに埋めたか皆目わからぬ。ただ埋めたところに地蔵様を建てたのでなかろうかといっているが、前田老の記録が焼失された今日では立証するものがない。
 昭和三十四年建碑の際、西光院の住職が大反対したという。その間のことを物語るものである。
 また小鹿三十郎は崇徳天皇の臣で具平親王の後裔で源成といって久安四年蓬田を開拓し、阿弥陀寺開創したという。
 このことに関し、浪岡史蹟顕彰会長前田喜一郎遺稿で、女鹿沢薬王院、小田桐真昭が述べたのが、坂本種一翁編「蓬田村郷土史編纂資料」に左の如く書かれている。
  長慶天皇が浪岡御潜幸の折り、玉松台附近に船着きしたことも書いております。小鹿三十郎の事は、源成正となっており、何かしら虚構のようにも見えますが、
   金光上人の物語り中陸奥国に於ては、先人の遺した文書に依って構成されました夷狄を征服する手段として、当時の地頭領主は山伏を結合し、念仏教に大迫害を加えた由。
   小鹿家については、具平親王を祖年、崇徳天皇朝臣として、御所出仕、その後久安四年戊辰年、陸奥国下向、小鹿三十郎源成正となっております。

とあるが、現在小鹿家には右のことを立証する何ものもない。昔は記録が相当あったというが、人にせがまれてくれてやった。また六部や山伏などが宿ると見せてくれてやって今は一つもないという。ただ古くから伝えられる、昔坂上田村麿が鬼征伐したときの鬼の牙と称するものが神棚にある。坂本種一が下ろして調査したら牙でなく遺骨であった。それを包む包紙は「雲の天まぐ」と書かれてあった。長さ一寸三分位、幅八・9分位のもので、病気にかかると削って飲むと不思議に治るという。
 これは金光上人の遺骨の一部であろうといっている。小鹿三十郎は分骨を願い、一部を阿弥陀川岸に埋め、一部は自分の家においたのではないかという坂本氏の論考である。これらのことを通暁してみると、何れの資料も証拠不十分、立証するに足るものがない。総て伝説の域を出ないのは遺憾である。将来金光上人、小鹿三十郎に関しより以上研究を進め、阿弥陀川史蹟を益々顕彰しなければならないと思う。

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