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村史

第二章 蓬田村の古代

第一節 蓬田村の縄文式時代

 残存する石器時代の遺跡からみると、本村の地域では、瀬辺地部落の付近に、もっとも古く人々の生活がはじまったようである。瀬辺地部落で二ヶ所から縄文式時代の遺跡が発見されている。
 瀬辺地部落西背の台地を、土地では、ながれと呼ぶ。このながれに、縄文式時代の早期から中期にまたがる瀬辺地遺跡があり、さらに、本遺跡南方の玉松台には、縄文式時代晩期の玉松台遺跡がある。もっとも、遺跡以外のところでも、土器や石器のような、石器時代の遺物が採集されることもあるが、明らかに縄文式時代の遺址として確認できるのは、前記の二遺跡だけである。
 このほか、これは、時代が大分降って有史時代に入るが、チャシと称せられる初期鉄器時代の住居址が、広瀬と瀬辺地部落中間の台地に残っている。

 瀬辺地遺跡
 瀬辺地は、海浜に形成された帯状の沖積地にできた部落で、部落の西方は、鉄道をへだててすぐに、ゆるやかに起伏する舌状台地が海岸にせり出している。台地の標高は、せいぜい二〇メートル内外で、これが俗称ながれである。
 遺跡は、海に面したながれ台地の突端部ちかくに営まれている。
 おそらく、本遺跡が造営されたころの土地の景観は、現在とはいささか異なっていたにちがいない。というのは、当時の海岸線が、いまよりは、まだふかく陸地にのびていたことが想定されるからで、かりに、この想定のようだとすると、瀬辺地部落がある沖積地帯は、まだ海底にあってすがたをあらわさず、波頭がながれや玉松台のすそを洗っていたことだろう。
 このところ数十年の間に、ながれも開墾が大いに進み、それに伴って土地の様相がかわったようである。土地の様相が変わるにつれ、遺跡の破壊もまためっきりはかどっている。いまでは、撹乱をまぬかれた処女遺物包含層は、残り少なで、遺跡の大部分は、散布地になってしまったらしい。それだけに、一面、地表からの観察には、都合のよい点がないでもない。遺物が散布する地域を地表からみると、その面積が一ヘクタールを超える。そうはいっても、ところにより遺物の厚薄がちがうが、この種の遺跡としては、わりに規模の大きなものであることがうなずかれる。
 かつて試掘した結果についてみると、本遺跡を構成する地層は、大略三層の堆積から成っているようである。表土は、二十メートルから四十メートル厚前後の黒い腐食土で、腐食土についで、その下には、二十メートル厚前後の黄色砂質土層をはさみ、最下位の三層めは、粘土層の順序となる。しかし一部では、黄色砂質土を全く欠き、腐食土層が直ちに粘土層に続くところもある。
 原状を保有すると思われる人工遺物層は、主として腐食土の最下位から砂質土の全体にかけて包含される。このことは、遺跡が造営された時期が、時間的に、たまたま砂質土の形成期と平行していたことを示すものといえるだろう。
 本遺跡を構成する主体土器は、円筒土器で、そのほかに、微量だが、所属のはっきりしない円底の土器が混在する。
 円筒土器というのは、東北地方から北海道の南西部にかけて分布する形式のもので、器のかたちは、胴体が長く、屈曲の少ない円筒形をなしているので、この名があり、器面は、くまなく縄文や撚糸文で装飾してある。この種の土器は、新しいものを除くと、胎土に多量の炭化した植物繊維を含むのが顕著な特長で、繊維土器の別称がある。
 本遺跡の円筒土器は、大多数が下層式で、それに僅少の上層式が混じっている。下層式土器は、縄文式時代前期に、上層式土器は、同じく中期に比定される。ここで検出する下層式土器は、下層式の系列でも、とくに古式の類とされるA類と、これにつぐB類のみで、C類以下を含まないようである。これから推測すると、同じ円筒土器遺跡のうちでも、その造営が、比較的初頭の時期にはじまったことをしめすものといえるだろう。

 円筒土器下層式
 この遺跡から発見される下層式A類土器は、他遺跡のものと同じく、基本的な、変化に乏しい円筒のような器形をなしている。高さは、三十メートル内外あり、壁厚は、中位程度で、胎土には、多量の炭化繊維を含有しており、平底で、二様の器形が見られる。その一は、口縁部に多少の外反りを付したもので、ほかに、全く反りのないものがあ
り、量的には、大体両式が折半の状態にある。そして、施文もまた二様式あり、胴体に、口辺部まで剰すところなく斜向縄文を加えた類と、胴体に斜向縄文を付し、口縁部にだけ撚糸文帯をつけた類とである。どっちが古いのか、新古の序列はわからない。
 なお、本形式土器中、とくに注目すべきものとしては、量は少ないが、ハイガイやアカガイのような貝殻の腹背で、器面に圧痕をつけた、貝殻文の土器が混じっていることである。本遺跡発見の貝殻文土器は、器形が割合小形らしく、胎土に含有する炭化繊維は、中量である。底部には、ついに確認できないが、口縁部は、無反り、器表の縄文は、未熟で、疎らに斜向縄文が付されているのが目立つ。貝殻文の原体には、おそらくハイガイが使われたであろう。貝殻文は、殆ど内側の器面に印ぜられている。
 果して、この種の貝殻文土器まで、下層式A類の範疇に含めることがゆるされるか、どうか、その点で疑問がないではないが、一応この形類に入れておくことにする。
 ついで、下層式B類だが、これは、円筒土器の形態の移り変りからみると、A類にすぐ後続する系列の一つで、本遺跡の土器のうちでは、量的にもっとも多い。本類の器形は、A類に較べて大きな差異はみられない。器のかたちは、屈曲の少ない円筒形につくられ、平底で、器壁が幾分か厚めになるようだが、壁内には、多量の植物繊維を含有する。口縁部は、全く反りのないものがふえる。A類と大きくちがうのは、首の部分に、一重か二重に突帯を付したものが多くなることで、文様も大分粗雑化してくる。器の表面には、くまなく斜向縄文が加えられ、口辺部近くにだけ撚糸文帯がつけられている。

 円筒土器上層式
 下層式に続いて後出するのが、本形類の土器群である。この系列の土器は、下層式にきわめて顕著だった胎土の炭化繊維が漸次減少の傾向を示し、一般に、器壁が厚く、かたちがさらに深くなって、大形化したものが増えてくる。口縁部が外開き気味となり、口唇部に、四個の山形の飾りをもつものが多くなる。それに、口縁部には、あたかも荒縄をからめたような、粘土紐の紐帯文が加えられるのが特徴である。器体の文様は、下層式多い斜向縄文のほか、羽状縄文などがふえ、器の胴体は、これらの文様でおおわれ、さらに口縁部と紐帯には、撚糸痕を加えるのが通例である。とくに、本式には、底部にアンペラのような編みものによる圧痕を残す類も混じり、施文の幅が大分ひろがってくる。このことは、文様だけに限らない。器形もバライテーに富むものとなり、標式的な円筒形のほかに、高坏のような台付や鉢形の土器が加わることで、文様も器形も多彩になっている。
 本遺跡でも、このような上層式土器が発見されるが、数量は、下層式に較べるとぐっと劣勢である。
 上層式も、その形態の推移にしたがって、A類からB類、さらにそれ以外に細分されるが、ここから検出した土器の大多数がB類によって占められ、それ以外に、判別が困難な他類がごく僅か混じっている。このことからみると、B類が断然優位を占めることになるわけだが、そかしこれは、必ずしも当を得たものか、どうか、幾分の不安がないでもない。
 既述の土器は、すでに採集された、それも全部が地表採集のものを、検討の対象とせざるを得なかったので、こんな疑念も生じるわけだが、採集者が好みに合せて、その選択に際し、B類土器のもつ豪放な意匠に関心をふかくしたために、かりに他類を軽視し、故意に多くのものを採集から洩らすようなことがあるとすれば、当然、土器形制にみられる数の優劣も、訂正を要することになるからである。

 円底土器
 さもあれ、以上の円筒土器のほかに、逸しがたいのは、発見例がきわめて僅少だが、前にもふれたように、円底土器が混在することである。この円底土器については、未だに所属の形式を決定しがたいが、この種の円底をもつ土器の製作期は、円筒土器があらわれる以前と考えられ、縄文式時代早期に位置づけされている。
 概要を見てきた、土器形制の瞥見から考えると、瀬辺地遺跡に、石器時代人による生活の営みがはじめられたのは、その上限が、はやくも円底土器がつくられた、縄文式時代の早期にさかのぼるものとすることが許容されていいであろう。勿論、時間的にみるなら、その後、遺跡の造成が間断なく継続したものとはなしがたいとしても、一応本遺跡には、まず円底土器をもつ人たちの生活記録が印ぜられ、その後これについで、縄文式時代の前期から中期にわたり、円筒土器によって表示される人々による生活の展開があったことが想定される。

 石器
 本遺跡からは、すでに石斧・石鏃・石匕・石錘・石槍・石皿・石冠・鎌形石器(仮称)・打割具・装身具などのような石器が多く発見されている。
 これら石器のうち、石斧には、磨製品と打製品がある。
 磨製石斧は、精磨製と、ほかに、前進が精磨されないで、一部に敲打痕や打割痕をそのまま残した半磨製と二様式がある。かたちは、中形品が多く、蛤刃だが、刃部が少し斜めにつけられたものも混じっているし、器の側面には、原石から切断する際にできた擦截痕をそのまま残すものも少なからずある。
 このようなすり切り手法によってつくられる石斧を、原石から切りはなす用具としては、石冠の名称であげた石器を充てることができると考えている。
 通例、石冠といわれる石器は、背肉を厚くし、一側につくり出した刃部の方へだんだん薄くつくった、十メートル前後の冠状磨製品をさすが、一般に円筒土器遺跡から多量に発見される類は、これとは多少異なり、肉がうすく、ほぼ等厚の扁平につくられた成品で、精磨製品もあるが、概ね打製であり、比較的粗雑に成形されたものが多い。かたちは、ほぼ三日月形か櫛形をなし、器の一側には、いくらか入念な打割・打調を施すことによって整形した、少し弧状の刃部を有している。身長は、十五メートル前後のものが多い。この種の石器は、刃部に研磨痕をそのまま残すものが多いことから、すり切り石斧の擦截具と見なすことが妥当のように思われる。この石器が、想定のような用具だとしても、石斧を製作するのみに役立つだけではなく、もっと用途が広かったかもしれない。
 つぎに打製石斧だが、大体は、短冊形である。しかしほかに、とくに扁平につくられた楕円形のものもあって、この類には、二十五メートルに近い身長の大形製品が混じっている。なお、打製石斧に関連して考えられるのは、ここから多量に検出された打割具と仮称した一群の石器だが、この種の石器は、むしろ打製石斧に含めて考察することが妥当かもしれない。 打割具の名称を与えたものは、丁度旧石器時代の握斧によく似たかたちの、十五メートル前後の石器で、成品は肉が厚い粗製の打製品だが、このうちには、一端をいくらか尖らせたものがあり、尖端部に、使用によってできたと思われる摩滅痕をもつものが見られる。この種の石器は、本遺跡を特長づける遺物と思われる。いまのところ、他の円筒土器遺跡では、報告例をしらない。あるいは、成品が粗雑なつくりなので、他の遺跡では、採集を逸したものであろうか。
 石器のうち、数量に於いて特別優勢なのは石鏃で、これにつぐのが石匕である。石槍の類は少ない。
 石鏃は、無茎が断然多く、それに約二四■ほどの柳葉形と有茎鏃が混在する。
 石槍は、約六メートルから十メートルほどの中形品で、採集例は少ない。
 石鏃とともに、石匕もまた豊富で、かつて筆者が、ここから七十余点の遺物を採集したことがある。器のかたちは、大部分が縦形で占められ、これに僅少の横形が混じっている。
 それから、とくに石器中で見逃しがたいのは、鎌形石器と仮称した形類である。鎌形という名称は、器が持つ機能によるものではなく、かたちによる命名だが、この石器は、約十五メートル大の彎曲した鎌のようなかたちの打製品で、内彎の一側には、丹念な打調で刃部をつくり出している。おそらく特殊な刃器の一種かと思われるが、これは、円筒土器遺跡では、普遍的な石器で、他遺跡からも検出例が多い。

 玉松台遺跡
 瀬辺地部落南方の海浜に臨む台地に、玉松台と呼ぶ部落の公園がある。台地は、約二十メートル程度の標高をもち、前記の瀬辺地遺跡から、距離にして約五百メートルぐらい離れ、両遺跡は、一筋の細流をはさんで、南北に対峙する位置を占めている。 この公園のある台地が玉松台遺跡で、遺物散布地をなしている。おそらく、公園を造成する際に、整地に伴って、遊離した遺物が地表にうかび出したものだろう。しかし、現在では、人工遺物が散布する範囲は、限られていて局部的なので、これからだけ見れば、遺跡の規模は、大きなものとは思われないが、まだ発掘を経ないので詳かでない。
 玉松台遺跡の地用から採集される土器は、形式からいうと、殆ど大洞式に属し、そのほかに、微量の円筒土器上層式が混在する。

 円筒土器上層式
 すでに採集された円筒土器は、すべてが破砕して小残片化しているので、土器形制の識別は困難だが、見分けられる類は、大体円筒土器上層式のB類に属するようである。
 これは、瀬辺地遺跡でも円筒土器上層式では、B類が首位を占めることとも照応し、本遺跡が造成された上限を、円筒土器上層式B類のころに求めることができるだろう。
 大洞式土器
 前にふれたように、この遺跡を構成する主要土器は、大洞式土器群である。
 大洞式土器というのは、古くは、亀ヶ岡式土器の名で呼ばれた縄文式時代晩期の、それも、もっとも時代が下がる時期の形式の一つである。本形式土器は、器形・文様ともに精緻になり、かたちが多様で、壷形・甕形・鉢形・深鉢形・高坏形・盤形のようなものから、釣手形や香炉形のような特殊なもの、あるいは、環状や鬲形のような器形も含まれ、文様も複雑化し、化粧の塗料に漆をつかった漆彩土器や、これは数は少ないが、藍胎漆器も検出され、これまた多彩である。
 この種の大洞式土器は、関東地方から東北地方、それに北海道の南半にかけて分布し、ことにその分布は、東北地方に濃密である。本県でも亀ヶ岡をはじめ、多くの遺跡がしられている。
 玉松台遺跡から発見される大洞式土器は、これも小残片ばかりなので詳かにしがたいものもあるが、細別した形式に充てはめると、B.C式とC1が大部分を占めるらしい。器のかたちは、壷形・鉢形、それに台付鉢形があり、なかには、器面を酸化鉄で塗彩した類も含まれている。
 資料が少ないので、明言はできないが、概括的にいうと、本遺跡は、大洞土器最盛期の遺跡群中の一つと見倣していいだろう。そうすると、玉松台に遺跡の造営がはじまったのは、円筒土器上層式B類によって標示される縄文式時代の中期で、その後晩期になるまで人間の営みが中絶し、大洞式B.C・C1類土器のころになってから、再度遺跡が複合してつくられるようになったとすべきであろう。

 石器
 なお、土器残片とともに採集された小量の石器は、有茎石鏃と縦形石匕で、これに扁平な八メートル大の石の両端を欠いてつくった石錘がある。

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第二節 瀬辺地部落の遺跡

 瀬辺地近傍の地域は悠久な太古から人類の住居に適した条件を具備していたらしく爾今数千年前に古代人による生活の営みがあったことは部落の背後から海浜に舌状に迫り出した通商(ナガレ)と呼ばれる台地上に残存する石器遺跡から推測することが出来る。この(ナガレ)に遺存する遺跡は瀬辺地遺跡と命名されて学会に知られ実に曾つて長い年月にわたって日本全土を掩うた新石器時代の文化楷梯に属するところの縄文式時代前期の所産で当時の人々はまた金属の使用については全く知ることがなく農耕に関しては殆ど知識を有せず、専ら自然に自生する食糧に依存して生命を保持していた時期に当るもので、そのため生業は採集経済の段階にあって海に魚介を漁り山野に鳥獣を狩り更に片跛になり勝ちな食糧を海草や山菜・野生の果実等で補いつつさびしい風雪に耐えて生活を展開していたものと考えられるが、遺跡から豊富に発見される遺物のその一つ一つに当時の人々の血が通い環状がこもる貴重な記念物である。この遺跡から発見される遺物のうち土器は胎土に多量の植物繊維を含有する簡素な甕形や円筒形の形制を示し、石器は石斧・石槍・石鏃・石匙・石皿等のような用具の外に定形化以前の尖頭具や打割具あるいは石刃のような狩猟や漁撈に適応した形態の類を主体とするおそらくはこの遺跡の営まれた頃は海岸線が現在よりまだ奥地に伸びていて(ナガレ)台地下は浪脚に洗われ、一方陸上も原生林が繁茂して林間は野豕熊鹿などのような獣類から鳥類に好適な棲息地を提供し瀬辺地遺跡を営みつつあった人々の食糧供給源をなしていたものと思われる。
斯くして数千年前の太古縄文式文化前期に逸早くも人類の生活が開始されてから徐々に時は移り縄文式文化も漸次発展して前期から中期、中期から後期を経て晩期に到達しやがて初期の金属時代に移行するのであるが、些か奇異な感を抱かざるを得ないのは瀬辺地付近の地域には前期の後続する形態の遺跡を発見出来ないことであって、このことから考えるとおそらくは千を単位として数える長年月にわたって石器時代の中期から後期にかけては全く人類無住の地として経過したものと想像せざるを得ないのである。一畤住みついた古代人がどんな理由でこの地を捨てたかそのことに関しては今にして探ることは困難であるが、現在の所見からすると千年余の長い歳月にわたって瀬辺地付近は人煙を絶ち野獣が自由に歩行する所と化したようである。
 併しやがて縄文式文化も終局に近づく頃となって縄文式文化の区別で晩期と呼ばれる頃に再び何処からともなく集う人々によって玉松台及び天満宮一帯の周辺は人類の占有するところとなり人煙を見ることとなったがこれらの人々の遺した玉松台遺跡文化形制から亀ヶ岡式の範疇に属することが想定出来るようである。
 亀ヶ岡式文化というのはわが国の石器時代終末期に近い晩期に関東地方から東北地方更に北海道南半に及ぶ広い地帯に繁栄した文化で同じ新石器時代ではあるけれども前記の瀬辺地遺跡に比して文化内容は格段に向上し生活もそれに伴って発展を示し豊富になったことは遺物でうかがうことが困難でない。
 玉松台遺跡発見の土器や石器は整備した用具の他に硬玉製の装身具や漆器のような工芸品をつくっており同じ漆器でも「ハマニレェク」や竹で編んで胎をつくりその上で漆を装飾化粧したような高級な技術を要する藍胎漆器もあり土偶や岩板のような初期の宗教につながる遺物も多く石器文化で到達し得る高度の進歩を視るものでこの時期になると農業についても全く無知でなく初期農業を有したであろうことが考えられる資料を見る点からそれは遺物の立地条件などを勘案すると採集経営から一歩前進した農耕に最も接近した生業を想像することが可能かと思われる。 (小野忠明)

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第三節 蓬田村瀬辺地遺跡の細石刃様石片について

 津軽半島のほぼ中央を南北に縦走する中山山脈の東側、つまりむつ湾沿岸を東に臨む上磯海岸寄りの高台に、数多くの重要な遺跡が散財していることは、かなり古くから知られている。瀬辺地遺跡もその中の一つで、縄文時代の前期と中期の遺物を包含している。ところが、たまたま昭和四十七年八月、筆者と友人和田陽太郎、越田健君の三名は、本遺跡に多数の細石刃に似た石片が散財していることを知り、筆者がその一部の石片を、北海道大学大場利夫教授ならびに慶応大学江坂輝弥教授に実見していただいたところが、青森県では未発見の細石器らしいということが確認された。
 もし本石片が間違いなく細石刃で代表される細石器文化期の遺物ということになると、細石器文化は今から約一万二千年乃至一万五千年前の古代人の文化とされているので、瀬辺地にもこのように古い時代に人が住みついていたことになる。しかし、問題は、はたして本遺物が北海道や関東・東北地方の一部などで発見されている、細石刃と同種類のものであるかどうかを解きあかさなければ軽々しく断定を下すことは出来ない。
 ともかく、青森県内には、これまで縄文文化の遺跡から発見されたことのない細石刃様石片が、瀬辺地遺跡から多数表採されたことは、旧石器時代の存否を究明するための一つの問題提起として重要かと思う。
 しかもこの石片の分布は可成り広範囲にわたっており、蓬田村大字瀬辺地字山田二三の六番地木戸勝巳氏所有地並びに近くの越田喜三郎氏所有畑地から山手にかけての一帯に及んでいる。この高台は、”蟹田層”と呼ばれる新第三紀鮮新世の地層から成る標高約三〇乃至四〇メートルの程度の海岸段丘を形成している丘陵地帯で、その北方に瀬辺地川が西から東へ流れて湾内に注いでいる。この遺跡群は、国鉄津軽線瀬辺地駅から南西へ約五百メートルの地点に位置し、縄文前期と中期の遺跡も混在していて、眼下に”むつ湾”を臨み、その反対側に中山山脈の山々を臨む、きわめて見晴らしのよい台地である。台地の大部分は畑と化し、地表面には、いわゆる黒色腐食土や赤褐色土層が露出していて細砂礫は殆ど見られない。
 表採の細石刃様石片は、主として硬質頁岩を素材とし、石器の基部に衝撃を与えて剥離している。図示した標本は、その一部であるが、剥離面には打瘤裂痕、打瘤、貝殻状裂痕、放射状裂痕及び使用痕などが明瞭に認められるので明らかに人工的な遺物である。長さはまちまちであるが、ほぼ三十ミリ前後のものが多い。しかし稀には非常に小さいものもある。これらの遺物は、場所により、小量の円筒土器片や石鏃と共に混在している。従って、耕作によって土地が掘り返されたために、これらの遺物がまじり合ったものか、それとも、本県の遺跡において未だ例を見ない円筒土器に伴出する石片かは、今のところ不明である。
 近い将来、慎重な発掘によって、石片の出土層位、素材、製作技術、形態及び組成などの詳細が検討され、製作年代も決定されるものと思う。       (大高興)

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第四節 小館遺跡(古代アイヌの里)

 阿弥陀川村の青森北高校三年生倉谷弘孝君が、自宅付近のりんご畑造成地で、古代土器を発見した。これを青森市造道沢田で擦文土器の発掘をしていた早稲田大学考古学教授の桜井清彦氏にみせ、調査してもらったところ、アイヌ文化と平安文化の接触を示す遺跡であることが判り、陸奥湾一帯にアイヌ独自の文化圏の存在を物語るもので、教科書の古代史に書き加えなければならないほどのニュースだと、昭和四十六年八月東京毎日新聞が報導している。
 桜井教授の発掘は昭和四十六年八月の第一次発掘に引続き、第二次発掘は昭和四十七年八月に行われた。このことに関し朝野の新聞は報導した。東京朝日新聞は昭和四十七年八月十三日全国版に左の如く報導している。
 尚、桜井清彦教授は考古学ジャーナル十一月号に第一次発掘終了後「小館遺跡の調査」と題し第五節に左の論文を発表した。第二次発掘後も論文を発表する予定である。

      姿現す?本州のアイヌ文化
        ──────擦文文化解明へ和人文化と接触状況も──────
 約千年前、アイヌと和人の交渉があったことを証明しようとする大がかりな遺跡の発掘が、青森県東津軽郡蓬田村小館遺跡で進められている。
 アイヌ文化の源流、擦文(さつもん)文化の研究で知られている桜井清彦早大教授を団長格に慶大・札幌大・青森北高校の学生ら約三十人が参加、二十日までに約六百平方メートルの館跡(チャシ)を調べる。
 去年夏の試掘に引続くものだが、本州文化と北海道文化の関係を解く手がかりが得られるかもしれないと期待されている。
 小館地区にあるこの遺跡は陸奥湾にのぞむ丘陵上にあり周囲は水田、昨年四月、地元の高校生が整地作業中に多数の擦文土器が出土し、これを桜井教授に通報したのが遺跡発見のきっかけとなった。
 昨年八月、同教授らが一帯を試掘したところ、全体の四分の一ほどの発掘で、重なりあった竪(たて)穴住居跡五つ、深さ約五メートルの古井戸、野鍛冶あとなどが確認された。
 ナゾのベールに包まれた擦文文化のこん跡を色濃く残す遺跡が本州に、しかもほぼ完ぺきな形で姿をあらわしたため、小館は一躍研究者の注目を浴びるに至った。
 初めて北海道に鉄器文化を興したとされる擦文文化だが、肝心の北海道では本格的な鍛冶場跡などは発見されていない。この事実から石附喜三男札幌大助教授(三三)は北海道に「移入」された鉄製品の大半が本州、それも東北地方に多く算出する砂鉄を利用したものと推論する。
 擦文文化は当時の和人の文化が、北海道で独自な発達を遂げた地方文化の一つ、小館遺跡はそれが津軽海峡をこえて本州北端に逆移入されたことを示している。
 石附助教授は二通りの推理をする。
 一つは北海道内のアイヌが鉄を求めて東北に居を構えたとみる見方、他の一つはアイヌの鍛鉄技術に目をつけた和人が多数のアイヌ人を引連れて小館で鉄製品を生産していた、という見方だ。
 いずれにしても津軽半島の東岸にアイヌが住んでいたことは確かだという。
 同県内にはアイヌ語源の地名が数多く残っている。意味については諸説あるが、たとえば青函トンネルで脚光を浴びている「龍飛」(たっぴ)。エゾ語でタツはカバ、ピは石をさすのでカバなどの樹木があって生まれた地名、あるいは「むくむく水がわく」の意味からきた地名などの説がある。
 同県に限らず広く東北地方一帯に分布するアイヌ起源めいた地名との関係、エゾとアイヌは同一のものの異名か、またアイヌと和人の関係は──。学界で長年争われてきたナゾを解く手がかりがこの発掘でどれだけ得られるか、興味が持たれている。
 注 擦文文化=北海道と東北部に広まった土器文化。出土した土器に刷毛(はけ)でかいたような擦痕(さつこん)があることから、この名がつけられた。
八世紀後半に成立したが、終期については諸説がある。桜井清彦教授は室町時代まで、また石附喜三男札幌大助教授は、平安末期から鎌倉時代がせいぜいとみている。      (東京朝日新聞、昭和四十七年八月十三日)

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第五節  小館遺跡の調査

 北部東北地方において、私たちは擦文文化の遺跡を求めてきたが、地元研究者の努力によって約三十カ所の遺跡が確認された。しかしのその多くは土師器、須恵器に擦文土器が少量ともなうといった状態であった。
 したがって私たちは、擦文土器を主体にする遺跡の探査に集中したが、なかなかうまい遺跡に当らなかった。
 ところが今年(昭和四十六年)の四月、青森市の高校生から、青森県東津軽郡蓬田村小館において擦文土器がかなり濃密に分布しているから調査してはという通報があった。
 私たちは五月に青森市沢田で擦文土器をともなう竪穴を掘った機会に、現地に出かけた。小館は陸奥湾にのぞむ丘陵上にあって、周囲は水田で、あたかも航空母艦のように見えた。
 遺跡の北側は阿弥陀川という小さな川が流れ、台上は三段の平坦面をもち、中央に濠がある。この濠は近年、さらに深く削られて用水が流れている。台上の一番広い平坦面に擦文土器、焼土、焼石、土製支脚賀散乱していた。
 この小館遺跡はいわゆる館趾であるが、蓬田村にはもう一つ大館があって、これは南部一族の居城であったという伝承がのこっている。この方は青磁などが出土するらしい。
 小館遺跡を予備調査した結果、ここはかなりの数の住居趾が埋まっていることが予想され、しかも主体は擦文土器であろうと推定されたので、館の中の集落研究のため、この地域の全面発掘を企画し、この八月に約三週間にわたって発掘を実施したのである。
 地元高校生の応援と村当局、村の人びとの絶大なる援助によってかなりの成果を上げることができた。調査には、私たちの他に、札幌大学の石附、木村氏と学生諸君、地元研究者の北林、橘、水田氏ら、北上郷土博物館の本堂君、函館博物館の千代氏、岩手県教委の高橋君ら北方考古学に指向する人たちが参加した。
 発掘は二メートル方眼のグリッドによって実施したが、表土がブルドーザーによって削られていたため、十メートルほど掘るともう擦文土器をはじめ土製支脚などが露出した。
 層位はかなり複雑で、最下層に縄文後期の包含層がみられ、それを切って擦文土器をともなう遺構があった。しかしそれも二重三重に複合するものが多く、発掘は困難であった。全体の四分の一ほどの面積を発掘したが、重なりあった竪穴住居趾を五軒ほど見出した。いずれも粘土で築いたカマドをもつ。カマドの袖にあたる部分は、土器をシンにして、それに粘土をかぶせているものが多く見受けられた。
 またカマドの中央に土製支脚が立ったまま発見され、土製支脚の使用法を確認することができた。またカマドの付近に鉄滓、フイゴの口、鉄片などが出土し、野鍛冶のあとと判断されて、擦文土器と鉄器製作という問題があらたに提起された。
 竪穴の大きさは一辺五メートル前後であるが、前述したように、ほとんどが複合している。館の中という限界で竪穴を営まなければならなかったであろうか。
 この館の南東隅に井戸が発見された。上部は直径四メートルほどで、深さは約四・五メートル、底部は方形である。湧水や排土の関係でその半分を掘り、全掘は次回に延ばしたが、底部より木製品が見出された。農具の一種であろう。この井戸がこの住居趾にともなうものかどうかは判定し難いところであるが、その埋没状態からして、かなり古い井戸と思われる。
 青森県北津軽郡市浦村福島城内の井戸とも類似しているところに注目すべきであろう。なお発掘中、かなりの量の炭化材が発見されたが、その多くは、ヒバ材である。

 小館遺跡全景写真
 擦文土器出土状況
 1号カマド(支脚の出土が多い)
 1号趾炭化材出土状況
 井戸出土木器

 竪穴の壁面に平行な状態で出土するものもあり、住居の用材と思われる。
 また、後期の遺構として、土壙墓や配石趾が検出され石器や土鈴などが採集された。
 この小館遺跡でやっと私たちは、擦文土器を主体にする遺跡を見つけたわけだが、本州文化の接点として多くの問題をはらんだ貴重な遺跡と思う。擦文文化とアイヌ文化は何らかの関係をもつものと思われるが、津軽藩政時代までこの地方にアイヌが居住したのではなかろうか。いずれにしても、明年の第二次調査に期待をかけるのである。                 (桜井清彦)

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