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村史

第三章 津軽氏の統一以前

第一節 外ヶ浜の地名

 東津軽郡の一帯を外ヶ浜と称したのは何時頃からであるか。また外ヶ浜と称する領域はどこまでを云うかまだ定説がない。青森市沿革史著者葛西音弥氏は同書に外ヶ浜について考証して曰く外ヶ浜とは地名に非ざるなり、陸奥湾の総称である。
 津軽藩にては貞享以前、南部境狩場沢から龍飛岬まで外ヶ浜郷といって、代官所を横内、浦町、油川、後方に置いて支配せしめていた。しかして津軽合浦外ヶ浜とは津軽合浦郡の外ヶ浜ということである。即ち津軽合浦は広漠たる陸奥の最極端である郡で、その遠きことはかり知るべからざる土地で、その二郡の外にある海湾を外ヶ浜というのであるといっている。
 然るに東津軽郡誌の著者西田源蔵氏は同書に、最初外ヶ浜と唱えた時の範囲は今日より遥に広く、単に陸奥湾内の全部のみではなく、西海岸、今の西津軽郡すらも 併せて外ヶ浜と唱えた時代があった。といい、葛西氏のいう外ヶ浜の領域より、より以上広範囲であるといっている。ところが善知鳥考の著者西沢敬秀氏は同書に葛西、西田両氏のいうより、さらに範囲を拡め龍飛岬より南部の尻矢岬までいうのであると左の如く記してある。
 さてこの曾止の浜よ、今時は青森界准(ワタリ)より龍飛辺まで僅か許りをいうめれど、往古はここよりはるか西、龍飛の岬辺より東は今時の南部北郡なり尻矢という岬辺までを、遥々かけての皇国の最後たる北向の浜を残らず、しか いへりしとみえて、ものにこれ九十三里ありなどみえたり。
そのうへこの浜は、西は平舘という処の崎より、東は南部の九艘泊というまでの間は、南方へ五十里許りも撓み廻 れる大入江にて、まこと天下無雙の広大浜にぞありける。故何くれにも名高うはいうにこそありけれ、といって、西田氏が西海岸を入れたるに反し、南部北郡の尻矢までと唱えた。
 さらに西沢敬秀は外ヶ浜の意義を考証して、外ノ浜(率土の浜)は九十三里あって、東北の隅の隅を全部云い、名義は背面浜(ソトモノハマ)であるを、ちぢめて率土浜となったのである。よって背戸、背止とも書く。
 背面(ソトモ)は背都面(ソツオモ)のつづまれるもので、背都面というのは背平などの背と同じく、後(ウシロ)ということである。
 しかして、背(ウシロ)の方の浜というのは、大皇国は西南から東北へかけて長き国形であるから、西南にあたる筑紫を前面とし、東北にあたる陸奥の果を背面として外ヶ浜と呼んだのであるといっている。
 かくの如く、古い時代の外ノ浜は広範囲なものであったが、東艦の文治六年の条に「外ヶ浜と糠之部の間有多宇未井の梯に於て件の山を以て城郭となし、兼任引篭の由風聞す」とあってから、段々外ノ浜の区域が縮小され、北条時代には西海岸の方は西浜と唱え、陸奥湾も糠之部と外ノ浜とを浅虫烏頭前を以て、劃然と区別されるようになった。
 津軽為信が津軽を統一したときも、外ヶ浜は津軽六郡(平賀、鼻和、田舎、興法、宇麻、江流末)の外の別郡としておかれ、慶長年間、六郡を廃して平賀、鼻和、田舎の三郡に分けたが、なお外ヶ浜はその域外にあった。
 寛文四年五月、津軽信政が郡を改めて庄となし、田舎ノ庄は、一ノ庄、二ノ庄に分け、外ヶ浜は田舎一ノ庄に属した。しかし依然として旧称外ヶ浜と唱えてきたのである。
 また浅虫以東を下磯、以西を上磯、以南を深沢と唱えた。明治六年、青森県管内を1大区、七十二小区に分かつや、外ヶ浜は第一大区四小区に編入され、明治十一年七月、郡区町村編成法が制定されるに及んで大小区の名称が廃され東津軽郡と改められ、本村はこれに属した。

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第二節 蓬田の位置と名称

 蓬田村は前述のように中沢、長科、阿弥陀川、蓬田、郷沢、瀬辺地、広瀬、高根の八部落からなっており、梵珠山系大倉嶽、袴腰岳、赤倉岳の麓に位し、その西方には広大なる豊沃な美田を擁し、またこれれらの山々は官有地でいずれもヒバ美林に覆われ、薪炭材に不自由なく、経済的に恵まれている。海岸地帯の漁家も沿岸漁業の衰退に見切をつけ、農業に転じ若しくは半農半漁で一般的に裕福な部落である。
 蓬田部落で最も古い文献に村名の現れたのは、中沢である。それは、後醍醐天皇が北条氏を亡ぼし初めて王政復活なり、奥羽地方に対しても王朝時代の陸奥国府が再興された。元弘三年八月北畠顕家が陸奥の国司に任ぜられ、鎮守府将軍義良親王を奉じて宮城郡多賀国府に到着した。このとき糠部、津軽の北条の残党討滅のため国司の目代として南部又次郎師行が派遣され、平定することができた。
 この勲功によって工藤右衛門尉貞行は津軽鼻和郡目谷郷、外ヶ浜野尻郷が与えられた。南部師行には内真部を中心とする上磯の諸村が与えられた。建武二年三月十日の古文書に中沢の村名がある。どう古文書に泉田、湖方、真板の村名がある。この村名に対し東津軽郡誌の著者西田源蔵氏は泉田は蓬田旧名と思われるが確証はない。同名の地は今南津軽郡にあるが、果たして該当するか、文意からいいば外ヶ浜の地名である。湖方は潮方の誤記で今の後潟である。真板は前田村で、次に佐比内は中津軽郡、中目は南津軽郡の村名であると述べている。どう古文書の全文をあげると左の如くである。
  外浜内摩部郷、竝未給村々、泉田、湖方、中沢、真板、佐比内、中目等村、被宛行南部又次郎師行、同一族等候。
  可御沙汰之由、被仰政処畢、然而同莅彼所、無事之煩、可令沙汰者、依仰執達如件
    建武二年三月十日
                                           大蔵権少輔清高奉
      尾張弾正正左エ衛門 殿
とある。さらに西田氏は尾張弾正とは鹿角郡の豪族成田頼時の官命か。当時成田は南部師行、多田貞綱とならんで津軽の奉行人であった。
同莅彼所云々は成田をして南部と此の地方の事を協弁せしむるの意である。ここにいう内摩部郷は前記の旧簡に見えるように、外ヶ浜横領の野心ある事を陸奥国府から看破され結局其の所領は没収され南部師行に与えられたものらしいと西田源蔵氏が説明している。
 西田氏のいうように泉田が蓬田であるとは明らかにし得ないが、湖方は潮方の誤記で、中沢は現在の中沢村であることは明瞭であるところから考えると、蓬田部落は六百三十年前からの古村であることが知れる。
 それから下って、文禄元年、東奥巡検使として前田利家卿、同慶次利大、同孫四郎利政、片桐且元、小野木縫殿の五人が雑兵一万人にて下着して、津軽領内を約三カ月にわたって隅々迄手を伸ばして村落を実地踏査した結果、封内百三十三ヵ村、高四万五千石と確定したとき、わが蓬田村は高四百六十七石一斗と検地された。
 藩祖為信が津軽統一後、新田開発に努力したが、二代信牧はより一層努力し、奨励方法として五カ年間は無税の特典を与えると同時に、御家中や在町人はされおき、何処者でも開発希望者には、米穀を給与し土地を与えた。正保二年十二月二十八日幕府へ提出した津軽知行之高による田舎郡新田のうち蓬田部内は
  五十五石八斗八升      大瀬辺地村
がある。次いで寛文四年閏五月七日に提出した知行高辻目録に新田開発は
  五百十五石七斗       中沢村
  二百十五石         瀬辺地村
がある。寛文四年までに中沢村は殆ど開拓されたのではないかと思われる。その間津軽藩は鋭意開拓を奨励し、八年経過した寛文十二年には領内百三十七ヵ村の新派立が成立した。特にこの期間には外ヶ浜の新田開発が進んだものと見え、長科村の千二百十三石六斗が記録されている。如何なる理由でこのように大規模の開発が行われたか明らかでない。このころに中沢村と長科村との分離問題があったので、新派長科村の開田が大きくとりあげられたのではあるまいか。長科村に次いで郷沢村、阿弥陀川村、広瀬村の新田高は左の如くである。
  千二百十三石六斗      長科村
  二百二十石三斗       郷沢村
  三百七十五石        阿弥陀川村
  四百二十七石二斗      広瀬村
 津軽四代信政は、従来再三検地を行ったが、其後の開田があって、正確な数字を見ることができないので、領内全域にわたって田畑、屋敷地、山林、無税など全般にわたって貞享四年いっせいに検地を行うことになった。その準備工作として、各村落に調査事項を示し、村役人から一村部落毎に略図及び書上帳を徴することになった。これが有名な「天和之書上帳」である。これを基いにして貞享元年から同四年まで検地が行われた。
 検地役人は惣奉行大道寺隼人、間宮求馬、元〆櫛引孫次郎、佐藤新五左エ門、田口十兵衛、御目付都谷森甚之丞、検地人金治兵衛、太田茂左エ門、御竿奉行四十八人、付添下役竿取共が一手八人宛で着手し、三カ年の日数を費やし完了したのが貞享之御竿御元帳といって、一部は藩に控は各部落に保存されているのである。
 貞享の新検地が行われたとき、村名を改めたところが多い。後潟組では、
  湊新田を前田   鉄清水村天馬新田を赤川
  下長科を浜松   小瀬辺地を瀬辺地
  大瀬辺地を広瀬 中師漁師新田を中師
  東風留を石浜   小館真綿新田を今津
  石崎新田を石崎  根子こかい新田を根岸
  黒崎を浜名    上長科を長科
                        (福士貞蔵著「津軽平野開拓史」)
以降明治まで津軽藩の田制は多少の増減があったにせよ、信政が行った水帖を基本として年貢を取り立てていたのである。
 地名のことであるが、東奥日報掲載の地名豆辞典に蓬田村のことを左のように書いている。

 蓬田村
 八幡宮境内は南北朝時代、安東氏の一族潮田四郎の居城といわれ、その後蓬田越前則政が移り、天正十三年津軽為信に敗れるまでここにいた。
蓬田越前則政の姓をそのまま地名にしたもの。城跡には樹齢三百五十年以上を数える老松がはえ、昔の夢を残し感無量名ものを覚えさせる。
とかいてある。大館城主蓬田氏の名前をとった村名としたことはうなずけるが、潮田四郎の居城であったかどうか疑問に思うものである。また蓬田氏が初めて外ヶ浜蓬田城主になったのは、太三郎か則一か則政かの研究の余地があり、何れ後述したい。広瀬村のことについて、地名豆辞典に

 広瀬村
蟹田川、増川とともに上磯地方の三大河川の一つ広瀬川の流域にできた集落の意味から川の名にちなみ広瀬の二字を とった地名、同部落は久慈の姓が多く、ここの人たちの先祖は岩手県久慈市から移住してきて開拓したといわれ、郷里 久慈の地名をそのまま使ったものと伝わっている。
とある。前述の貞享検地のとき、地名を改めた村の多いことを述べたが、広瀬はもと大瀬辺地といっていたのを広瀬と改名したことが書かれている。故に瀬辺地村の村名を研究する必要がある。瀬辺地について、地名豆辞典に

 瀬辺地村
 アイヌ語の広い川を意味する。セベチをもじって生まれた地名らしい。同部落を横切って流れている瀬辺地川は、昔かなり広い川であったらしい。
瀬辺地はアイヌ語であるので、アイヌ語の地名研究者である山田秀三氏が津軽半島を旅行したとき瀬辺地について左のように考証している。
 瀬辺地は、アイヌ語の川の名であったことは間違いないようだが、今の形から、昔、何川と呼ばれていたか確認できない。此の「瀬」をアイヌ語に復元することが難しいのである。
 此の付近は、山が海際迄迫っているのが、その中に相当広い平坦な谷地があって、その中を瀬辺地川が曲流している。
 セプ・ペッ(広い・川)と読みたい処だ。併し北隣の川の方が若干大きいようだ。その名は皮肉にも広瀬川である。もう少し検討したい処である。
 セッ・ペッ(巣・川)と読めないこともない。瀬戸子とそう遠くないので、鷲の巣でも川筋にあったろうか。但し北海道地名では此んな場合には大体ウシ(多くある。ある)をつけてセトゥシ……となるのが通例である。セッ・ペツでも地名の形にはなる。
 少し音が変るが、北国では「ン」と「セ」が訛るのでシ・ペッ(大川・本流)と読めないこともない。併し之等は、こうも読めると云うだけであって、残念ながら現在までの資料では意見として書くことは出来ない。
 瀬辺地が川の名であるらしいことは云える。此の辺には、瀬辺地、野辺地(青森県上北郡)、茂辺地(北海道上磯郡)の類型地名がある。北日本地帯では、清音濁音相通じ「ち」も「つ」もごちゃごちゃで時々閉口させられる。その音で地名に漢字を当てたのであったろうが、標準語が智識人に普及し、他国人が役所や鉄道に赴任して来ると、その漢字を自由に読む。「辺地」はその産物らしい。気付を書くと、
 野辺地 元々は、どっちにも聞こえる地方音だったろうが、之を姓として居られる名士方の名は「のべち」さんである。
 日本語音である。役人が読み変えられる地名の音より、姓の方が古形を伝える場合が多い。
 茂辺地 之は北海道だけにはっきりしている。(字名)モ・ペッ(静かな・川)が原名であって、村名としては今でも茂別である。
 瀬辺地も、之と同じようなアイヌ語の川であたことは想像に難くない。肴倉弥八さん処でそんな話をしていたら、後潟出身の肴倉夫人が「せへじなんか云うのはこの頃の事で、土地ではせべちと呼んでいたのですよ」と教えて下さった。瀬辺地はアイヌ語のペッの名だろう。とアイヌ語研究家の山田秀三先生は、このように書いてある。貞享四年の検地のとき前述のように小瀬辺地は瀬辺地となり、大瀬辺地は広瀬川の流域にあるところから広瀬と村名が変わったのである。
 阿弥陀川村の地名は地名豆辞典にもある通り金光上人が阿弥陀川から仏像を発見した伝説から名づけた村である。

  阿弥陀川村
むかし金光上人が諸国修行の途中、この辺へきて、地方民から「川のほとりに化け物が出る」という話を聞いた。
 上人が一人で化け物の出る土地を掘ったら、金色のあみだ様の仏像が発見されたという伝説から生れた地名。この仏像はいま弘前市西光寺にある。

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第三節 安東氏の乱と外ヶ浜

 往古津軽を領有していたのは津軽安東氏である。津軽安東氏は元来阿倍姓である。
 陸奥六郡の司、奥羽二州の押領使と称し威を振るうていた。夷酋安東太郎源頼時が次男厨川次郎阿倍貞任が、康平五年九月十七日戦死し清原氏が奥羽の押領となっても、阿倍氏が陸奥出羽にきずいた数百年の根拠は容易に覆されなかった。 即ち陸奥国府の威令の及ばない津軽外ヶ浜は依然として阿倍氏の勢力下にあって、衣川、厨川で敗れた阿倍氏の一族は安住の地である津軽外ヶ浜に逃げてきた。
 下国系図によると、当時三歳になった貞任の二子高星丸が乳母にいだかれて津軽藤崎に逃れ来た。長じるに藤崎城主となり津軽六郡と外ヶ浜、下北郡一帯を支配した。それから九十年、平泉藤原氏が源頼に亡ぼされて、ここに陸奥の豪族藤原氏が終末をつげ、奥羽の各地が頼朝の功臣に分かち与えられた。
 ついにこの時、津軽安東氏の所領であった外三郡、内三郡の内で収税力が十分である。鼻和、平賀、田舎の三郡を、北陸道軍の将として戦功のあった鎌倉のご家人宇佐美実政に与え、地頭に任じた。
 然るに、その年の十二月大河兼任が主家のため弔合戦を羽州・仙北に挙げた。大河氏は出羽に於て田河軍の田河、由利郡の由利、秋田城の秋田、比内郡の河田、男鹿半島の橘次の諸氏と共に平泉藤原氏に従属した豪族であった。
 兼任は先ず豪勇由利維平を破り、津軽の戦いでは当時鎌倉の御家人中でも有力なる宇佐美実政を殺し、意気衝天の勢いで鎌倉軍と一戦を交えようとした。是に対し鎌倉から足利上総前司、小山五郎、同七郎、葛西三郎、関四郎、小野寺太郎、中条義勝法橋、同子息藤次、千葉新介など雲霞の如き大軍が反徒大河兼任を討たんと奥州を下降し、栗原一ノ迫にて対戦した。
 ところが数においてまさっていた鎌倉軍のため兼任が敗れ、僅か五百騎の兵をつれ平泉衣河で支えようとしたが敗れた。最後に有多宇末井(烏頭前)で防いだが支えることができず敗れ去った。
 そこで宇佐美実政のあとをついで地頭代職に任ぜられたのは曽我氏である。かくて安東氏は僅かに外三郡(興法、宇摩、江流末)を所領することとなり、爾来外ヶ浜と下北地方の開拓に力を注がなければならなかった。
 元享正中の頃から嘉暦年中に至る十数年間、同族間で相争い、遂に鎌倉幕府が自ら軍兵を動かし漸く鎮定した。これがため北条市没落の原因となった。即ち安東五郎季久と同又太郎委長の嫡庶、領界問題で相争い、その決裁を北条氏に乞うたが、執権職北条高時は驕奢を極め、政道を家臣に任せ顧みなかった。家宰長崎高資は強欲にして両者から賄賂を貪り、ために理否の裁判をなすことができなかったので、両者は国に帰り兵を以て争うことになった。
 驚いた幕府は金沢称名寺、鶴岡八幡宮に蝦夷の鎮定を祈願せしも効果なく、ここにおいて幕府は蝦夷乱は又太郎季長の罪なりと断じて、征討軍を送ることになった。又太郎季長は、徒に討たるるより運を天に任せ戦わんとし、鎌倉に恨みある同志を募り、要塞を厳にし、兵糧を集め、先ず安東五郎季久(尭勢)を討ち鎌倉勢を迎えた。
 鎌倉軍と戦った戦場について種々議論がある。諏訪大明神絵詞に云う外浜内末部郡折曾関にて洪河を隔て戦った記事を引用し、内末部郡は東津軽郡内末部であると西田源蔵氏が主唱し、陸奥評林著者は小泊領折渡をさし、中村良之進氏は西津軽郡大戸瀬村とし、小友叔雄氏は東津軽郡小館村にある小館城と大別内村の赤平城をもって戦場とし、諸説紛々たるものであるが、この戦争は元享正中から嘉暦年間にいたる十数年を要し、諏訪明神の神徳により一夜にして洪河凍結、城中に攻め入り勝利を得たとある。
 この戦は前九年、後三年に劣らぬ程長びいた戦乱であって、これが北条執権の鼎の軽重を問われ、没落の端緒となった。

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第四節 南北朝時代の外ヶ浜

 北条氏が安東乱平定に腐心しているうちに、宮廷における北条氏征討の議は進み、嘉暦三年から元弘元年に錦の御旗が高く南風に翻り、その後諸国の官軍競い立ち、ついに元弘三年に北条氏を亡ぼし、翌四年に改元して建武と称し、王政はじめて旧に復した。
 元弘三年八月、北畠顕家っは陸奥の国司に任ぜられ、十月鎮守府将軍義良親王を奉じて宮城郡多賀国府に到着した。顕家は師行をして糠部、津軽の北条の残党討伐のため、国司の目代として派遣した。
 当時、南朝吉野を宮方と称し、北朝京都をば武家方と称した。津軽、糠部の諸豪はの去就は、八戸には南朝の忠臣南部師行、津軽には持寄城に北条氏の残党名越時如、安達高景、岩楯には曽我光(高貞光)、外ヶ浜には安藤家季、七戸には南部政長、藤崎には安藤尭勢の子貞季、田舎館には工藤氏が割拠していた。
 はじめ勤王党が優勢であった。安東五郎二郎家季が内真部の城によって反いたが、南部師行のために破られてから、建武二年、上磯の諸村は南部師行に与えられ(南部文書、北畠顕家花押)、また師行に協力した工藤右衛門尉貞行に津軽畠和郡目谷郷、外ヶ浜野尻をその勲功の賞として与えられた。
 延元元年、足利尊氏北上、湊川において楠正成、新田義貞を破って京都に入ってから、南朝とみに振るわず、北畠顕家に従って上洛した南部師行は高師直と和泉堺及び石津で戦って戦死した。師行嗣子なく弟政長あとを嗣ぎ、曽我氏を大光寺に攻めた。
 また興国三年、曽我師助尊氏の命により南部氏を攻めたとき防戦、これをしりぞけるなど南朝に忠勤をはげんだ。正平五年八月、政長は領地八戸地方を嫡孫信光に譲ったが、信政(政長の子)父に先んじて卒去したので、七戸地方は信政の後家工藤貞行の女加伊寿に譲り、信光の弟政光成長の後は其の半分を与うることを約した。
 信光は正平十年、大炊助に任じられ、同十一年十一月薩摩守に昇進、同十五年六月、津軽の内黒石、目谷の安堵状をうけ、雅楽助も冬井、日野間、野尻等の安堵状をうけた。
 かくて建武、延元年間後は、さしも外ヶ浜に勢力を占めていた安東氏は八戸南部のため一掃された。

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第五節 南部氏時代の外ヶ浜

 陸奥の国司北畠顕家から南部師行が外ヶ浜を賜ってから、外ヶ浜は八戸南部の所領となった。然るに宗家たる三戸南部の守行は、津軽、下北に勢力を占めていた安東氏と戦って勝ち、その領地を奪い一族を進領地に配した。この時、南部氏の支持をうけていた奥州の国司北畠顕家の子孫で、船越に居をかまえていた北畠氏を浪岡に移し、八戸南部の所領であった外ヶ浜をも支配せしめた。また北畠顕家の女を母とする安東盛季は、十三に居城して勢威盛んなりしも、南部守行の子義政の奸謀により軍敗れて、小泊から蝦夷が住む渡島松前に渡った。しかし津軽の故地回復に安東政季が海を渡って秋田の男鹿半島に上陸し、湊安東氏の援助を得て、檜山地方を根拠として津軽回復戦をいどんで藤崎まで進んだ。然るに文明の末年から長享年間に、南部信時という英傑が出で、下国氏の家臣長木大和守を誘惑して、長享二年八月下国政季を暗殺せしめた。
 そこで南部信時は延徳三年、久慈光信を種里に封じ下国氏を防がしめ、自らは野辺地から堤浦に入り付近を占領、明応元年四男光康を置き、さらに藤崎から下国氏の残党を追い、文亀二年、大光寺城に三男行実をおき津軽を支配せしめた。かくして花輪郡に大浦氏を、平賀郡に大光寺氏を田舎郡、外ヶ浜に北畠氏と堤氏をおき津軽全部を完全にその手中に収めた。
 その間、文明三年に南部雅楽頭の臣三代利右衛門の乱あり、またその子主水が大永四年に乱を起こした。
 また南部安信の弟高信が天文二年、津軽出陣のとき土岐大和之助則基は従軍した。
 その功により土岐大和之助は高田、荒川両所を知行八百石を給せられ高田村の城主となった。天正六年浪岡落城のとき討死し、二男善助は三戸南部に仕え、子孫は今七戸町に住居しているという。
 明応七年、南部信時は外ヶ浜の支えとして、四男光康を横内におき鏡城を築いた。堤家は堤弾正、二代弾正、孫六、弾正左衛門と四代続いた。四代弾正左衛門は津軽為信が外ヶ浜を攻撃したとき、親類であるにも拘わらず、為信が秋田や九戸と同盟して津軽を横領したのは気にくわぬと協力せず、却て為信を鉄砲で狙撃した勇士である。のち捕えられ高陣馬で福士弥三郎、同小三郎に殺された。

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第六節 北畠氏と蓬田城主

 応永から永享、嘉吉、文安年間に津軽における下国安東氏は南部に打ち負け、対岸の蝦夷地に落ち延びて津軽の全部は南部氏の手に帰した。しかし三百年間津軽に勢力を占めていた安東氏は、旧地挽回に下国政季が再び海を渡って秋田の男鹿半島に上陸し、湊安東氏の援助を得て出羽の葛西氏を攻撃し、檜山地方に根拠を得て津軽の回復戦が華々しく展開され、藤崎地方までその勢いが伸びた。
 然るに長享年間に南部信時が出で下国氏の家臣長木大和守を誘惑して下国政季を暗殺せしめて以後、下国氏の津軽回復は永久に不可能となった。かくして南部氏は津軽の治安維持に花輪郡に大浦氏を、平賀郡に大光寺氏を、田舎郡、外ヶ浜に北畠氏を置いた。
 北畠氏が浪岡に下った事情は、鎮守府将軍陸奥守北畠顕家は延元三年撮州阿倍野で北条氏と戦って敗れて以後、南朝の勢いとみて衰いた。当時、津軽では安東支族の家季、曽我貞光らが、すでに北朝に転向していた。南部でも三戸南部氏が北朝に走った。
 これに対し終始一貫、南朝方として活躍したのは、安東宗家をはじめ、小栗山城主倉光孫三郎、唐牛城主多田貞綱、船水城主小笠原四郎長信などで、南部では八戸南部氏であった。
 一方、北畠顕家の死後、仙台の多賀城にいた弟の顕信及び顕家の子顕成が霊山城(福島県)に立てこもって北朝に抵抗したが、力およばず霊山城を放棄して宇津峰城に後退した。ここでも破れ顕信、顕成がわかれわかれになって津軽へ落ちのびてきたのである。
北畠顕成は、その子顕元とともに船越、稗貫(岩手県)から浪岡にきた。その時期が分からないが安東氏を頼って、安東氏の支城である浪岡へ入ったといわれている(参照青森県の歴史)が、一説には顕成霊山の城を保ち難く貞和元年さけて南部にのがれた。南部氏は旧主の好みであるを以て之を憐み閉伊郡船越におく、男顕元夭死し、二男顕邦嗣ぐ、国司の裔なるを以て南部氏之を敬い、女を上りて姻族となり益々優待して稗貫二万石の地に移した。
 然るに当時津軽に藤崎に安東氏、十三に十三氏、新城に橘治氏らの豪族あって、意の如くできなかったので、南部彦次郎信政を浪岡の城代として支配せしめたが、よく諸豪を統一することができなかった。そこで康安年中信政を稗貫に招還し、さらに北畠顕邦を浪岡城に移し津軽の総司となしたところ国司のあとである名家であるため諸豪帰服したと浪岡名所旧跡考に書かれてある。
 初め安東氏を頼って下ったであろうが、南部氏の後援なくしては北畠氏は自立し得なかったのは事実であろう。
 浪岡へ移った北畠氏は九代続いて、最後の顕村にいたって為信に亡ぼされた。その系図は(菩提寺京徳寺過去帳による)左の通りである。
  初代 顕成  従二位権大納言  応永九年八月薨
  二代 顕元  従三位大納言     応永二年八月十日薨
  三代 顕邦  従三位大納言     文安五年二月十七日薨
  四代 顕義  従三位左中将     明応二年二月八日薨
  五代 顕具  次郎左衛門尉  大永二年五月三日薨
  六代 顕永  又具永従三位左中将  永禄五年四月薨
  七代 具統  弾正小弼       弘治元年五月四日薨
  八代 具運  従四位上左兵衛督   永禄五年正月三日薨
  九代 顕村  三郎兵衛尉      天正六年七月二十日自尽
 北畠氏の領地は田舎郡二千八百町歩、奥法郡二千余町歩、沼州保内一千貫其他率都浜を領していた。また浪岡の城下は三郡六郡の他東外ヶ浜から西深浦迄領していた。
 別書には津軽六郡の内北畠具永の領地は田舎郡二千八百町歩、奥法郡二千余町歩、馬の郡三百町歩、穂瑠麻郡三百町歩及び外ヶ浜を領したとある。又北畠具運のときは一万千二百余町歩を領したというが、南朝の衰運とともに北畠領地は自然的に減少していった。
 北畠氏の家臣団は如何にと見るに
  赤松隼人   八幡宮神主兼務、五本松に居住、その子孫有馬氏現存す。
  沼山備中
  和田五郎左衛門
  源常館
  源常顕忠 波岡吉六ともいう
  軽井沢    軽井源左衛門 北畠の四天王
  小和清水    強清水恵林
  大釈迦館   奥井万助
  原子館   原子平内兵衛
  杉銀館   吉町弥右エ門 北畠股肱の臣
  本宮館(今の本郷) 本宮源内
    其外外様の館主
溝城館   水木某
  久井名館   佐々木某
  兼平館   兼平美作主顕紹
  乳井館   乳井伊豆
  今渕館   平杢之助俊忠
  蓬田館   蓬田太三郎
  藤崎館   藤崎玄蕃
  金木館   金木弾正忠
  高田館   土岐大和之介則基
  水木在家   水木兵部尉
 以上列記した北畠家臣団のうち外ヶ浜の外様館主に高田の土岐大和之介則基、今渕(今別)の平杢之助、蓬田館の蓬田太三郎がある。蓬田太三郎について項を改めて考察してみよう。

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第七節 蓬田城と相馬氏

 浪岡、北畠の領地は外ヶ浜に及んで、その外様館主は今別の平杢之助と蓬田館主の蓬田太三郎とがある。平杢之助の娘は北畠具運の室となって婚家となり、それが機縁となり今別八幡宮が造営された。浪岡氏の勢い盛んなる時代には、浪岡城は津軽の牙城で当時の繁昌ぶりを浪岡名所旧跡考に左の如く書かれている。
  家老には赤松隼人、沼山備中、和田五郎左衛門又源常の館には源常顕忠、東方軽井沢には軽井源左衛門椽、小和清水には強清水恵 林、北方大釈迦の館には奥井万助、西北原子館には原子平内兵衛、西方杉銀の館には吉町弥左衛門、南方本宮館には本宮源内等の股 肱屈指の武士を置いて四方を堅め非常を戒む。
  又幕僚の館主豪族は溝城の館には水木某、久井名館には佐々木某、兼平館には兼平美作守、高杉館には高杉七郎左衛門吉村、乳井 館に乳井伊豆、今渕館に平杢之助俊忠、蓬田館に蓬田太三郎、藤崎館に藤崎源蕃、金木の館に金木弾正忠、高田の館に土岐大和之介 則基、水木在家に水木兵部尉あり又城の四隅には祇園、八幡、加茂、春日の四社ありて恰も山 城の平安城を擬したり。
とある。実に蓬田太三郎は外ヶ浜の備えで北畠氏の有力な武将であった。
 然らば蓬田城主がいつごろから蓬田大館城に居住したか不明であるが、相馬家の後胤で現在弘前市田町に住んでいる相馬利忠氏が所持している相馬家の系図によると、子孫の利忠と同名の相馬利忠の三男佐伝四郎則一が外ヶ浜に住居せりと書かれてある。同系図に年号を付していないのでいつごろから移り住むようになったか明らかでない。また同系図に佐伝四郎則一の孫相馬越前則政が文明四年に津軽外ヶ浜に住居し、是から相馬両家に分るとある。両家が別れた理由は十余年前の康正二年に一族の利満といかなることが原因であるか不明であるが、論争し、のち和談し利満の弟利重に女が嫁している。この論争が原因して越前則政が津軽へ来て則一のあとをうけ居住したもののようである。いずれにしても五百年以前から相馬越前が蓬田大館に住むようになったのである。
 然らば相馬家が蓬田へ移り住む前にどこに居住したか同系図によって調べると、相馬家の祖先は平親王将門から八代の後胤相馬備中守利陳は筑前国舟原郡に居城、平治二年三月死去している。相馬家は武勇をもって名があった家と見えて、平治の乱に相馬備中守利陳と子の利里、利則両人が討死している。弟の利勝は手柄があって三千町の御加増になった。兄利陳が死亡したので弟の利勝が家を嗣いだ。時あたかも源平合戦の酣であったので、利勝の子の利行が寿永三年一ノ谷合戦で討死したが、嫡男利春、次男利吉が矢嶋、壇之浦で軍功があった。しかし元暦二年三月十六日平氏滅亡とともに相馬家は中央に活躍する機会を失った。しかし利春の子利信は建保元年の和田義盛の合戦に加わり千町の加増あって、のち討死した。
 相馬市之進利信の三男である利久が如何なる事情あったか、正嘉二年筑前国舟原郡から南部常慎寺駒ヶ峯に移住した。 父相馬市之進利信が和田義盛の乱に加わり討死したことを儚んで陸奥国南部常慎寺駒ヶ峯(福岡)に移住したものか、また平氏の荘園が浄法寺地方にあったと中道等氏が云っておられるから、南部に平氏の一族が多数住んでいたので、同族を頼って移ってきたのか判明しない。
 利久の孫、相馬民部之亮利盛は駒ヶ峯を領知しているところから考えると、利久が浄法寺へ移ったとき駒ヶ峯の領地をすでに占めていたのであろう。このことについて故森林助氏は東奥日報紙上(昭和五年八月十三日)に「外ヶ浜の史蹟蓬田城主相馬家に就て」という論文を発表された。
  利陳は筑前国舟原郡を知行した居城がある。平治二年三月八日死去、男子二人、利里、利則何れも討死した。されば利陳の弟利勝 が継ぎ、同じ備中守と称す。平治合戦に手柄があったため三千町を加増されたとあるから平家方であったろう。前記二人討死とある のも平治の乱に戦死したと思われる。
  利勝の子筑前守利行それから子利春、利信を経て利方に至る。以上この利方が書いたもので萃押がある。この系図が一巻、別にこ の系図を写し更に利方の弟利久から書きつづけたものが一巻ある。利久は利信の三男で正嘉二年(北条時頼執権時代)奥州に下り南 部浄慎寺駒ヶ峯に居住した。南部津軽地方の相馬氏の先祖となる訳だ。利久の嫡男利忠は父と不快の事があり、三子利盛父の後を相 続し、駒ヶ峯を占領した。
とある。森氏も如何なる理由で九州から奥州まで下ったか書いていない。系図には勿論ない。利久の嫡男相馬筑前利高の同系図によると、この佐伝四郎則一が外ヶ浜蓬田に初めて住居したことが書かれてある。ところが系図に駒ヶ峯を領していた相馬民部之亮利盛の嫡男利雄と利忠の嫡男利高と争いごとがあって遂に利雄が死んだ。これらの同族争いが原因して三男佐伝四郎則一が蓬田に居を移したのではあるまいか。
 蓬田に移った佐伝四郎則一の三孫に相馬筑前則実、その子に越前則政、則之、則清があり、則実の嫡男が則政が文明四年則一の家領を継いで、これから相馬家は浄法寺駒ヶ峯と蓬田と両家に分かれたのである。これまでの系図は南部に住んでいた平盛重が認め、小五郎に渡したものである。しかして同系図には則一以後、天正十三年蓬田を退散した蓬田越前までのことが記されていない。この間の事情を森林助氏は左の如くかいている。
  佐伝四郎則一の弟則喜の子を筑前守則実という。その子に越前則政、則之、則清の三人がある。則政「文明四年(足利義政時代) 津軽外ヶ浜ニ居住ナリ」と系図に書いてある。
 文明四年はかの応仁の乱が起こってから六年目で、その翌五年には山名宗全と細川勝之両将が何れも病死した(同九年乱は終わる)。
  かように乱世の時である。当時この外ヶ浜地方は下国安東氏の領地であった。これより先き十余年前康正二年則政は一族利満と論 争したが、後和談し利満の弟利重にその女を嫁すと系図利満の条にある。これ等一族闘争の結果則政は外ヶ浜に移住したものか、恐らくは則一の家領を承けたものであろう。(系図に則一の弟則喜の子則実を則一の三孫と書いてある)
とある。しかしてこの系図は南部に住んでいた盛重が認めて小五郎に与えたものだから、文明四年津軽に住した則政の子孫のことを書いていないと森林助氏が書き、さらに天正十三年蓬田から退散した越前と則政との数代は不明である。記されぬのは当然であるが、津軽にとりては遺憾この上もないと書いてある。
系図(相馬氏)

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第八節 蓬田・大館城

 蓬田越前が居城であったといわれている蓬田・大館城址は県道を西に去る六、七丁の所にある。俗に大館という、周囲約十五丁余で、今は大部分民有地になっている。地は平地より僅かに高く、中央に道路が通じ古松数株、雑木の間に聳えて城址の俤を留めている。東、北、西の三方は水田を以て繞らされ、東南数百歩の処には蓬田川(塩木河)が流れている。西方には溜池あり、昔は一帯に城池であったと見える。城内に社地あり、小濠の跡がある。宗像神社であるが、明治の初年、鎮守八幡宮に合祀されるに至った。小溝の跡は弁才天を祀る池の跡か、社地の付近には武器を貯蔵した跡と伝えられるものがある。概しい城内の面積が広いが平城にして要害に乏しい。
と昭和五年七月二十八日の東奥日報紙上に青海山人すなわち西田源蔵氏が森林助氏と同道で内真部城址、後潟の蝦夷館を調査したとき、蓬田城址をも踏査し、外ヶ浜の史蹟として発表した一節である。
 今日の地形も西田、森両氏が踏査したときと大差ない。
 蓬田城址については、蓬田村沿革に記されているが、何時ころ誰によって築城されたか不明であるが、南北朝時代に強大な郷士があって此城を築いたものでないかといっている。さらに天文年間(一五三二年)に南部氏に帰属していることが確実で、当時奥瀬建助が当城付近一帯に覇を唱えていたのが後蓬田越前が之に代わったとある。
 また小友叔雄著「津軽封内城址考」によると、蓬田城址について南北朝時代安東五郎二郎高季が、此所によって官軍に対抗した地でないか、のち十三湊城主安東盛季の弟潮潟四郎通貞もこの地を居城としたのでないか。その孫政季が南部に捕われて田名部を知行したというが、その後奥瀬氏が居城し、同氏が去った跡に蓬田越前が来たものと思われると書いてある。

     蓬田村沿革  蓬田村大館城址
  何時の頃から大館城といわれるようになったか其名称の出た所が不明であるが、蓋し大館、小館、蝦夷館という俗称から転訛して来たものかと思われる。古い記録によれば蓬田城と書かれているが、何時頃誰の手にて築城されたかという事は明らかにされていない。
 唯現在でも壕の深さは一丈以上あり幅十四、五間もある所から推せば、相当大きな城であったという事は頷かれる。伝える所によれば南北朝時代に非常に勢力の強大な郷士があって、此城を築いたものだという事である。又一説に大光寺、浅瀬石、田舎館、和徳 などの城と同じく明応年間に築かれたものであるという事であるが、何れが真か判然としていない。
天文年間南部氏に帰属していた事だけは確実で、当時奥瀬建助が当城に構えて此界隈一帯に覇を唱えていたものであったが、後蓬田越前が之に代った。然るに為信公津軽を統一するに際し、越前は天正十三年三月油川城が落城して風雲愈々急なるを眺め、密に南部の方へ遁れ去れりという。
 文政頃までは西側に広大なる門構えは残り居りしと云う。また蟹田以外の人当地方を呼んでアラドと称し、其意味を解せる古老の伝うる処によれば蓬田越前守を荒人守と呼んで南中沢から龍飛に至る領主であったともいわれている。
  城の南に小館野があり、ここには越前守の妾宅のあった所という。一説に蓬田越前の近辺の者過半為信に降参し、却て越前を討たんとはかりたれば、それに堪え兼ね密に南部に落ち行けるという。

 蓬田城について前述引用の諸書にある通り、築城は誰か不明である。また蓬田越前居城前に十三城主の弟潮潟四郎道貞、或は奥瀬建助等が一時居城の伝えもあるが、何れも確たる資料がない。しかし蓬田氏すなわち相馬家の系図にあるとおり相馬筑前利高の三男佐伝四郎則一が蓬田に移り、さらに文明四年(一四七二年)に相馬筑前則実の嫡子相馬越前則政が移り住んだことが明らかである。
 相馬家が蓬田村に移ってきたので、地名を姓として蓬田と改め称えたものであろう。
 文明四年移り住んだ城主は相馬越前則政であったから、以後蓬田越前と呼んだものと思われる。則政が移った文明四年から天正十三年南部へ落ちのびた蓬田越前まで百十三年を経過している。その間四、五代の城主が代わったと思われるが、残念ながら相馬氏の系図は南部の相馬家のもので津軽の相馬家のことが記されていないので判明しない。
 故に浪岡名所旧跡考にある外ヶ浜の城主として書かれている前述の蓬田太三郎も津軽蓬田に移ってからの城主であるから残念ながら判然としないのである。
 系図に代々相馬氏名と家の字が左の如く書かれてある。
   家の名 小三郎 小五郎
       小太郎 小四郎
       小次郎 小十郎
   家の字 光治 利則 則家
 これに太三郎の名が現われていない。しかし三郎という名があるから太三郎も何代目かの蓬田城主であったろう。蓬田城址の中に八幡宮がある。これは相馬氏が代々崇敬したお宮であるか不明であるが、同拝殿内に北海道スツツに居住していた相馬平次郎という方が、兄の名代として慶応三年三月参詣した時奉献した宗像大明神の額がある。
 その額は
   蓬田越前則政苗裔
   願主相馬小三郎平利武
    宗像大明神
      薩摩守従五位藤原朝臣仲聴謹書
とあり長利仲聴の書で、裏面に
宗像の神社は我祖先蓬田越前の氏神である。今弟平次郎が松前から蓬田村に来り氏神宗像の社に捧げ子孫繁昌を祈るとある。
      慶応三丁卯年三月
       十代目

         相馬小三郎利武
       弟 同氏平次郎利方
と署名している。相馬家の氏神は宗像神社であって、八幡宮でないのである。相馬氏の祖先は筑前舟平郡にあったとき、九州宗像郡に本社を有する宗像神社を崇敬したものであろう。蓬田へ移ってからも崇敬していたのであろう。然るに天正十三年南部へ落ちのびてから祭主もなく淋れていった。明治の初年鎮守八幡宮に合祀され今日にいたった。今も城内に社地があり小溝の跡は弁財天があった池の跡ともいっている。同八幡宮は城内にあったが、明治二十三年人家も遠く参拝する人が不便だという理由で同村汐越に移したが、人口増加したのでさらに大正十三年現在に移したという。同社地に左の略歴の碑が桜花記念誌と共にある。
       八幡宮近世略歴
  当八幡宮は元来字宮本大館城址にありましたが、余り人家が遠く取締りは勿論祭事にも平常の参拝にも支障がありましたので、明 治二十三年十一月十七日知事の認可をうけ、同二十七年字汐越三十六番地へ移転新築しました。
  爾来四十年を同所に過しましたが、人口が増えてくるに随って人家が神域に近くなりましたので、大正十三年十一月当時上地林に あった現在地を払下げ、昭和九年八月再び大館城地に新築お遷宮したのであります。
    昭和二十五年五月
                                             蓬田氏子惣代人
                                                  敬 白
       八幡宮境内桜花記念誌
  当大館は昔の蓬田城の跡で何時の頃誰によって築城されたかは不明でありますが、南北朝時代安東氏の一族潮潟四郎通貞の居城であったとも云われていますが、一説には大光寺田舎館などと一緒に明応年間(約四百七十年前)に築かれたとも云われ、はっきりしませんが、南部氏の所領となってからは奥瀬建助が居城し、此界隈一帯に覇を唱えて居ったのですが、従前から蓬田に居住していた相馬氏蓬田越前則政が是れに替わり、天正十三年(三百五十九年前)三月津軽為信公に領せられる迄支配したわけであります。
  津軽領となってからは廃城となって、何時となしに荒れ果て今は濠や輪郭に依って僅かに昔を偲ぶばかりになりました。濠の作り方などから見まして相当大きな城だった事が想像されます。
  されば昔の武将が築城の場所として何故大館を撰んだかと云えば古来の築城条件である戦術的、経済的、将又文化産業振興の適地であるからであります。
  わが村は立派な文化産業を持ち得る地理的好条件が具えている事を歴史が証明し祖先が訓えている事実を覚えなければなりません。同時に吾々は今城こそなけれ鎮守八幡宮を中心にして研究を積み努力を重ね、この好条件を最大級に発揚して昔の城下町であった繁昌振りに再び返すべき責任を感ずるのであります。
  吾々村民の意欲は社殿新築境内拡張、神域桜花と日と共に盛り上がってきました。
   江碧ニシテ鳥愈々白ク 一山青クシテ花燃エント欲ス
 緑一色に覆われた梵珠山脈を背景として数百年の令を重ね老松古杉の間に絢爛として咲きほころび桜花の美は此の杜甫の詩を思い起 しましょう。

大館城址略図解説
 蓬田城址顕勝協賛会会長故清水專造氏が大館城址の詳細なる地図製作を思いたち、成田末五郎氏に昭和四十五年依頼したところ、三カ年間の調査を了いて、この程完成、これを城中にある八幡宮に奉納した。 (口絵参照)その解説によると、
 一、蓬田城は標高8~15米の地帯に東西約一粁、南北約八百米に亘る小丘陵地に作られた大館と東西七百米、南北四百米の所に作られた小館と二つの拠点をもっている。大館は規模が大きく時代的に新しく、小館は小さく古い。大館は南北朝から室町期で、小館 は鎌倉期のものか。
 二、この館周辺は現在の標高5~8米辺まで入江で、其後隆起して海水が減退したものと見られる。
 三、大館はA、B、Cの三部に区切られ、その間に水壕、或は空壕を設けたと見えD、E、F、G、H、Lの出丸が想定される。
四、元の館神弁財天宮址はA郭にある。
  今の神社八幡宮は明治初め、元の港口近くにあった(今の公民館の所)。明治の初め諸社を合併して現地の八幡宮に移した。A 郭内からは古銭、神器等が出土したという。
 五、現在空壕の址はB郭の北東部、A郭の西部、出丸D、E、Gの基部に深く残っている。その外、埋め残された浅い堀址も郭の間に想定される。
 六、Eの出丸は鐘撞堂の所と伝えられ、独立した郭である。これに対応するように東北に小規模の出丸がある。
 七、東南の大きな出丸は船着場とも考えられる。
 八、Kの出丸は長兵衛といって、下層に縄文後期、上層に土師器、鉄滓を包含している。
 九、Lの出丸は馬捨場という、これは後世馬の死骸を捨てた所からついた名らしく、昔は出入の船の荷揚場か。
 十、Hの出丸は16.6米の最高地で見張台か燈火台があった所か。
 十一、Dの出丸は西方の水を護る出丸である。蓬田川の上流2粁位の所から、ここに人工的に水路を作り、ここに古溜池へ注いで、これを北廻りと南廻りして東へ流した人工的防衛の施設と見ることができよう。この間股松まで約1.5粁人工的な疏水路である。途中に溜池の跡が三つ想定される。
  股松はその目標として保護されたものであろう。三叉であったが一本は近年の台風で倒れた。根本の周4.82米(東の方2.96米、南の方2.93米)明治末期台風で倒れたのは6柵あったという巨松(黒松)であった。
 十二、鳥屋の松、この付近蓬田川の緑の崖の上に巨松がある「とやの松」という絶壁によりかかってその北東に細長い低い土地がある。ここが鳥待場が設けられた鷹狩の好適の地である。
 十三、小館は6~7米の丘陵地で所々に溜池がある。
   昭和36年早稲田大学の調査班が発掘調査に着手、未完成であるが下層に縄文後期、擦文土器、上層に土師器、鉄滓等が包含されている。今後の研究を待たなければならぬ。   第九節 年貢米の納入

 年貢米の納入は百姓にとって最も重要なことであった。先ず一村の納入すべき額が示される。年貢は村全体の責任であって、定められた期日に必ず納めなければならない。津軽藩では御収納米、高懸銀、貸下夫喰米は十一月二十九日限り、諸上納は十二月十日限りと定められている。

 もし期限内に納めなければ、御収納高を十分に割り、一分滞ったときは戸〆二十日、一分毎に一等ずつ増した。収納米については百姓ばかりでなく村役人も責任を負わされた。年貢米は最も精選したものでなければならない。従って自作の精米を上納すべきで、給米や小作米又は貸付米を以て年貢米とすることは禁ぜられていた。
 年貢米をこのように精選されたのは、廻米の上、大阪で売却し換金していたので、品質が粗悪であれば直ちに売価に影響するからである。
 特に藩主の御膳米は一粒よりに吟味したもので、一升の米は早朝から日暮れまで五、六人がかりで選別した。津軽藩の収納米調整については早稲の小粒で籾や稗は勿論のこと赤玉、青米、砕米を除いた精選したものを上納すべきことを命ぜられた。 年貢の上納を促進する意味をもって、秋の収穫時から年貢皆済まで農民の行動に制限を加え年貢米を完納させようとした。即ち米の異動が禁止され、他村に出すことは勿論個人間の貸借返済も許されない状態であった。
 一方農民は米俵拵えに懸命に努力した。特に御倉米包装には規定があって、もし不十分であれば返された。津軽藩では二重俵で身俵の編方が藁九本ずつにて編み、縄の太さ廻りが六分のものをしようせしめた。上俵は長さ五尺三寸、編方は藁六本ずつの規定である。網の掛け様は上俵十七おくりにて三廻り半、目数は十五位に掛けることになっている。身俵の縦、横、口縄も太さ一寸五分のものを使用し、四等から十六尋の縄を用いた。納米の責任を明らかにするため、元禄十一年十月に一俵毎に差札一枚ずつ入れ、この差札へ米主何組何村誰と認め、御倉奉行並升取の名と何斗入と書くことを命ぜられた。御倉米包装御定は左の如くである。
 一重一俵 四斗入 被貫目十五〆五百目
 縦縄   四尋  太サ廻り 一寸五分 一尋ハ五尺三寸ノ定メ
 横縄  十一尋  太サ廻り 一寸九分 同
 口縄  十六尋  太サ廻り 八分   同
 身俵  長四尺五寸 網間六寸ヅツ 両ヒゲ六寸ヅツ
 上俵  長五尺三寸 網ヒゲ身俵同様編方藁六本ヅツ
 網ノ掛ケ様 上俵十七スクリニテ三廻り半、目数は十五位に掛ケル事
 御倉立合 御倉奉行ニテ米拵俵精々吟味之上、不宜分ハ相返シ仕直可申付事

 年貢米の包装が完備すると御倉へ納めるのである。後潟組の御倉は蟹田町にあった。蟹田御倉へ左の後潟組の村々が納入した。
  蟹田御倉 掛合二人 頭一人 巻ノ者二人以下皆同ジ
一、浜松村   一、大橋村   一、後方村   一、四戸橋村  一、中沢村   一、長科村
一、蓬田村   一、郷沢村   一、阿弥陀川村 一、板木沢村  一、瀬辺地村  一、蟹田村
 一、中師村   一、今沢村   一、野田村   一、根岸村   一、平館村   一、石崎村
 一、川崎村   一、小国村   一、南沢村   一、山本村   一、広瀬村   一、石浜村
   都合二十七ヵ村
 御倉へ運ばれると倉立会、庄屋、組頭の立合の下に升取量るのである。普通運ばれた俵数のうち二、三俵を抜取り量るのであるが、もし升目が不足であれば全体に追加しなければならぬので、升取の責任は重大で、非常な細心と熟練を要した。
 少しの地ひびきがあっても桝目に影響するので、その場に近づくことを許さなかった。しかして升取の手加減で納入米の増減があった。この間種々な不正が行われた。
 升は新大升を使用させた。但し諸扶持人に遣わすときは京升を用いた。(青森県史第一巻)

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第九節 津軽藩に仕えた相馬氏

 津軽一統誌によると、天正十三年三月二十六日油川城主奥瀬善九郎が為信と戦わずして南部に遁れた。次いで高田、荒川、横内辺の者ども悉く降参した。その外に蓬田越前は近辺同志の者ども過半降参し、却て越前を討たんと計る状態であったので堪えかね南部の方へ落ちていったとある。
 南部へ落ちていった城主は蓬田越前で名は何んというか相馬家の系図に遺憾ながら書いていない。しかしながら越前の弟小三郎が田舎館の内新館に移住した。戦後為信が蓬田越前の所縁の者いたら罷り出るように達しがあったので、罷出で委細を申出たところ、高野、荒川にて知行高五十石賜わり召出された。以後小三郎の子孫は代々津軽藩に仕え明治維新に至った。

    由緒書
 一、先祖   相馬小三郎
         実名伝不承候
   小三郎外ヶ浜蓬田領主蓬田越前二男ニ御座候処南部ト御取合之砌右越前南部に引退キ小三郎儀蓬田ニ止リ罷有候処瑞祥院様蓬田  領主所縁之者有之候ハバ可罷出被仰付右小三郎罷出越前退散之訳委細申上候処其節高野荒川ニ而知行高五拾石被下置候
   右被召出候年号月日伝不承候則荒川ニ被差置南部口物見役被仰付罷有候処高野荒川ニ而五拾石之開発成兼ニ付替地申立候処山形  村ニ而五拾石被下置則開発仕相勤罷有候処病死年号月日其伝不承候
 一、二代   相馬宗左衛門
         実名伝不承候
   初小三郎并右宗左衛門儀関ヶ原御陣エ御供仕候由代々伝承リ申候得共書留無御座候尤由緒并病死年号月日伝不承候

 以上の由緒書にあるとおり相馬小三郎は為信に召出されてから高野、荒川で高五十石下され、荒川におかれて南部口物見役仰せつけられた。すなわち野内の関所を通過する者ばかりでなく、山王峠や八甲田超えの間道を利用するものの物見役を仰せつけられたのである。知行高五十石は荒川、高野の田地開発により給付されるのであるが、荒地多く高五十石に達するだけの開発が成かねたので、替地を申出でたところ、山形村に移され田地開発することになった。
 二代相馬宗左衛門は親と共に関ヶ原の戦いに出陣した。津軽一統誌に為信以来の勤仕の士で戦功詳かでないもの十七名をあげている。その内に相馬小三郎の名がある。由緒書に関ヶ原の御陣に親子が御供しているから戦功がないわけではない。戦功を理由として召出したのかも知れない。
     為信公御代勤仕之面々戦功不知分左ニ記之
 中村彦左衛門  最上家にて三千石領す中村居越後堺守由後御家へ仕う
 棟方弥三郎   三上弥右衛門   所々出陣之由場所ども不知
 対馬右馬之助  新岡但馬子なる由
 岩庭惣助    乳井大隅家家人後直参
 相馬小三郎   蓬田越前子後直参
 奈良岡中務   河井夜掛の時討死する由干考不知
 豊嶋修理    羽州豊島より来仕由
 黒滝常陸
 対馬彦五郎
 相坂豊前長経
 久保田数馬   京都山科にて召出さる
 山内筑前
 小野石見定綱
 須藤新助
 三上孫兵衛
 坂本宗用    近江坂元にて召出
 佐々木左衛門四郎

 三代相馬宗左衛門則光は小知行役を勤め、四代相馬宗兵衛則貞は山形村は黒石領となったので水木村に移り、妙心院御代寛文十二年に猿賀組の内百沢で桐、漆、杉の植付、また中川小隼人支配の早道役仰せつけられ他国へ数度隠密として派遣された。
 五代相馬庄左衛門則次、六代相馬安左衛門則直の両名は親の早道役を継承、則直は早道小頭から御馬廻り三番組に役替仰せつけられた。

 七代相馬兵治兵衛則福、八代相馬安左衛門尼利の両名は御馬廻り三番組相勤め、尼利は寛政十年に松前御用仰せつけられた。享和二年に無調法の儀あって御給分召上げられたが、文化九年数年兵学出精の故をもって御目見仰せつけられた。
 九代相馬宗兵衛利弘は御留守居一番組から文政十二年原別村別段役仰せつけられた。
 十代相馬小三郎利武は明治元年函館戦争に出生した。この人の弟平次郎利芳が蓬田に来たり慶応三年三月八幡宮に宗像大明神の額を奉納した人である。

   由緒書
 一、先祖   相馬小三郎
          実名伝不承候
   小三郎儀外ヶ浜蓬田領主越前二男ニ御座候処南部ト御取合之砌越前南部江引退キ小三郎殿蓬田ニ止リ罷有候処瑞祥院様蓬田領主  所縁之者有之候ハバ可罷出旨被仰付右小三郎罷出越前之訳委細申上候処其所高野荒川ニ而知行高五拾石被下置候
   右被召出候年号月日伝不承候則荒川ニ被差置南部口物見役被仰付罷有候処高野荒川ニ而五拾石之開発成兼候二付替地申立候処山  形村ニ而五拾石被下置則開発仕相勤罷有候処病死年号月日共伝不承候
 一、二代   相馬宗左衛門
          実名伝不承候
   右宗左衛門儀関ヶ原御陳江御供仕候由代々伝承り申候得共書留無御座候尤由緒并病死年号月日伝不承候
 一、三代   相馬宗左衛門則光
   高源院様御代寛永元年五月親宗左衛門跡式知行高五拾石被下置小知行役相勤罷有候処正保四年十二月十五日知行御悉印被下置慶  安四年六月八日病死仕候
 一、四代 相馬宗兵衛則貞
   桂光院様御代慶安四年九月十五日宗左衛門跡式知行高五拾石被下置小知行役相勤罷有候処山形村ハ黒石御領相成候ニ付水木村ニ  而五拾石被下置候
   妙心院様御代寛文十二未年猿賀組之内白沢ト申処二桐漆杉植付新田申立家数七軒村立右諸木三千本余自分物入ニ而植付尤三浦用  之助と右宗兵衛両人二而取立申候延宝六年十月被仰渡候ニハ瑞祥院様御代小知行取由緒有之者御詮儀之上中川小隼人支配ニ早道  御役被仰付相勤罷有候処貞享二年惣家中現米ニ被仰付候所御米一カ年ニ切米五拾俵ニ三人扶持被下置他国御隠密御用数度相勤罷有  候処同年十二月二十八日病死仕候
 一、高祖父 相馬庄左衛門則次
   妙心院様御代元禄三年三月十一日親宗兵衛跡式御切米五拾俵ニ三人扶持被下置則早道ニ被仰付他国隠密御用数度被仰付相勤罷有  候処於代官町ニ明屋敷一軒被下置家作仕罷有候処玄桂院様御代宝永八辛卯年三月二十七日病死仕候
 一、曾祖父  相馬安左衛門則直
   玄桂院様御代宝永八辛卯年六月二十一日親庄左衛門跡式被下置候所早道小頭小笠原万右エ門同道ニ而大目付棟方覚左衛門宅江罷  出候処相馬庄左衛門跡式悴庄太郎ニ被下置早道被仰付候旨被仰渡被下方之儀被仰渡無御座候ニ付是迄ノ通直リテ被仰付候儀と奉存  候処八月之御扶持米二人扶持ニ相成十二月御切米三拾俵之積相渡候ニ付右之訳小頭迄申上候得共何共御沙汰無御座候ニ付三拾俵  ニ二人扶持ニ而相勤罷有候処同年十一月十五日五俵御加増被下置顕休院様御代元文二丁巳年二月十一日一人扶持御加増被下置御公  用并他国御隠密御用数度被仰付寛保三癸亥年四月十二日早道小頭被仰付拾五俵御加増被下置外ニ二拾俵ニ一人扶持之勤料被下置七  拾俵ニ四人扶持ニ而相勤罷有候処戒香院様御代寛延元戊辰年十二月十五日御台所目付御役替被仰付其節勤料御差引被仰付五拾俵ニ  三人扶持ニ而相勤罷有候処宝暦二申年正十一日於江戸表ニ五俵ニ一人扶持勤料被下置五拾五俵ニ四人扶持ニ而相勤罷有候処同四申  戌年十二月十五日御台所御目付引取被仰付勤料御差引被仰付同十一辛巳年三月二十日早道小頭再役被仰付同十二壬午年七月十一日  御中小姓格ニ被仰付拾俵ニ一人扶持勤料被下置六拾俵四人扶持ニ而相勤罷有候処明和二乙酉年正月十一日御馬廻リ三番組御役替被  仰付是迄之勤料ノ内一人扶持御加増被下置六拾俵ニ四人扶持ニ而相勤罷有候処老年ニ罷成難相勤安永二癸巳年閏三月朔日隠居願之  通リ被仰付同五丁申年三月二十七日病死仕候
一、祖父   相馬兵治兵衛則福
   戒香院様御代宝暦十三癸未年五月十五日早道見習被仰付為御手当一カ年金五両宛被下置相勤罷有候処明和二乙酉年親安左衛門御  馬廻三番組御役替被仰付候ニ付早道見習引取伺之通リ被仰付同年三月十五日御馬廻リ七番組御組入被仰付安永二癸巳年三月朔日祖  父安左衛門跡式五拾俵ニ四人扶持被下置相勤罷有候処同年五月二十六日病死仕候
一、父    相馬安左衛門尼利
   戒香院様御代安永二癸巳年九月朔日親兵治兵衛跡式御切米五拾俵ニ四人扶持被下置御留守居二番組被仰付同九己子年正月十一日  御中小姓一番組被仰付体孝院様御代寛政元己酉年御馬廻リ三番組御組入被仰付上仙院様御代同六甲寅年六月駒越組五代村江在宅被  仰付同八丙辰年十一月御切米五拾俵三拾石ニ知行直リ被仰付同十戊午年七月二十日松前箱館詰被仰付同年十月在宅御引上被仰付  於代官丁明屋敷一軒被下置享和二壬戌年八月知行御蔵入被仰付罷有候処不調法之儀御座候而同三癸亥年十月十三日御給分被召上新  ニ五人扶持被下置御目見以下御留守居支配被仰付相勤罷有候処文化九壬申年十二月二十四日数年兵学出精ニ付二人扶持勤料被下置  御目見以上支配被仰付相勤罷有候処文政八酉年二月二十九日病死仕候
一、私当   相馬宗兵衛利弘
   上仙院様御代文政八乙酉年六月朔日親安左衛門跡式五人扶持被下置御目見以下御留居守居一番組支配被仰付九丙戌年四月四日兵  学并鎗術出精ニ付二人扶持勤料被下置御目見以上御留守居一番組支配被仰付相勤罷有候処同十二丑年原別村別段締役被仰付天保元  寅年九月四日郡方役加勢被仰付相勤罷有候処同辰年七月病身ニ相成郡方加勢御免願之通被仰付候
   尤原別別段役出精ニ付三百疋御賞被下置郡方役出精相勤ニ付二百疋被下候同天保三辰年十一月御備方御用懸リ下取扱被仰付相勤  罷有候処天保六未年三人扶持勤料増被下置御家老森岡山城殿与力被仰付相勤罷有候処天保十亥年六月十五日武芸出精之儀被仰渡作  事吟味格被仰付相勤罷有候処同子年三月十五日御合験御秘事御用懸下取扱被仰付同天保十三壬寅年四月十五日御合験御用懸心ヲ入  出精相勤格別御益筋相立候段被仰付御中小姓御役替被仰付相勤罷有候
    天保十三壬寅年五月書記之
                                        相馬宗兵衛利弘

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第十節 蓬田越前と相馬大作

 蓬田越前が落城してから南部下斗米村に住居していたから、文政年間下斗米村相馬大作なるものが津軽侯を狙撃したのは、祖先の仇を報ゆるためにした行為であるといった史家が多かった。このことに関し青海山人(西田源蔵氏)が昭和五年七月二十八日の東奥日報に外ヶ浜の史蹟、蓬田の城址の論文の中に左の如く論じ相馬大作が蓬田越前の後裔でないと発表している。
  県史編纂の中道さんも矢張り相馬大作は蓬田越前の末孫だとか言われたのを聞いて、坂本種一村長と坂本義徹さんが二戸郡の福岡 まで実地調査に出かけた。処が下斗米村の大作の後はいたって微禄しており、そこの主人は何も語る所はないが別家の何某へ聞けばよく解るだろうというので、そこへ向かった。
  この家は相当の構で白髯の主人が出て応対した。そこで相馬氏は蓬田越前の後胤であろうとの事を聞いて尋ねてきた旨を語ると、 彼は沸然として色をなし、憚りながら名誉ある相馬大作の家は為信ごときに追い落とされる弱虫の蓬田越前などの子孫ではござらぬと剣もホロロの挨拶であったので閉口して帰った相な。
と書かれてある。そこで下斗米氏の系図を岩手県二戸郡福岡町下斗米与八郎編纂で大正十一年二月二十五日発行の「下斗米大作実伝」による掲載されているのをあげると左の如くである。

系図(下斗米家)

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 以上は下斗米家の系図であって、相馬家も下斗米家も遠祖は平将門である。しかし両家を比較して祖先は同じ将門であるが、後裔は全然相違し、両家は血のつながりが同一でないから、相馬大作は蓬田越前の後裔でないことが知ることができる。念のため大作の人となりをうかがってみると左の如く説明されている。
下斗米大作は、陸奥福岡の人、姓は下斗米、名は将真字は子誠、秀之進と称す。
号は形水、通称大作、盛岡藩士なり。幼名は来助藩籍を脱して中山門蔵又小一郎と云い、後に相馬大作と称す。
父は宗平衛、母は一族下斗米右兵治の姉なり。三男二女あり、長女リス、長男平九郎、次女ミワ、次男秀之進、三男竜之介。
其家系平の将門の裔相馬小次郎師胤より出づ、師胤八世の孫光胤の四男参河守胤茂の子小四郎胤成、延文中初めて南部氏へ陸奥下 斗米村に百石を食む。 (下畧)

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