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村史

第四章 津軽藩政時代

第一節 外ヶ浜の統治

 津軽為信は天正十三年、奥瀬善九郎、堤弾正左衛門、土岐大和之助、蓬田越前を亡ぼし外ヶ浜を平定して後、横内鏡城に城番十人衆をおき、油川には外ヶ浜代官阿部牛之助を派遣して、その区域を支配せしめた。慶長元年為信は津軽六郡を平賀、鼻和、田舎の三郡に分けた。さらに信政の寛文四年に郡を荘と改めた。三郡と三荘との境界は大体において同一であるが、一部の村落を入れかえた。
 また従来行政上、地域毎に十五の遣をおき統括していたのを、貞享四年、総検地が終ると遣を組とし、二十五組に分けた。組が増加したのは新田村が増えたためで、これから浦町横内、油川後潟の組が分かれ、さらに浦町組、横内組、油川組、後潟組となった。元文二年木作、金木、俵元の三新田を加えて津軽領内は二十八組となり、この組分は廃藩迄変化はなかった。
 後潟組は左の三十七ヵ村に小国三ヵ村を合せ四十ヵ村を以て組織されていた。
  後潟、瀬戸子、奥内、前田、清水、赤川、内真辺、左堰、浜松、河崎、小橋、六枚橋、大橋、四戸橋、中沢、長科、蓬田、阿弥陀 川、郷沢、瀬辺地、広瀬、板木沢、蟹田、中師、石浜、野田、今津、平館、石崎、根岸、今別、大川平、三馬屋、浜名、鍋田、増川、 松ヶ崎
  小国新田
   小国、南沢、山本
 津軽藩の職制は家老、用人、郡奉行、町奉行、勘定奉行などあって政治を担当していた。これらの役人は弘前藩庁にあって政治をみていたが、直接庶民を接触していたのは代官、手代、名主、庄屋、月行事、五人組である。代官は郡奉行の支配下にあり、郡中を前述の二十八組に分けていたので、一組に二人ずつ交替して、その組に行き事務をとった。油川両組に代官二人いて油川組、後潟組を支配していた。代官の補佐役に手代があった。手代は組内の重立中から人材を選んだ。 名主、庄屋は古くから村の長の役名で、元は肝煎と称した。これにあたる人はその村での家柄のある人で、普通は村の開拓者があたっていた。月行事は名主、庄屋の下にいて細い世話をする人で、月毎に代るから月行事といった。もとは三郷といった。名主、庄屋の区別は津軽藩では町は名主、農漁村では庄屋といった。
 庄屋数人の上に大庄屋があり、代官と肩をならべて地方の行政をつかさどった。藩政時代の下部組織に五人組制度があった。近隣の五戸を一組として、互に連帯責任を以て火災、盗難、浮浪人、キリシタン宗徒等の取締に任じた。津軽藩の五人組制度は寛文年間以前からあった。文化五年になってから強化されて、向う三軒両隣を五軒組合と称し、この五つを合わせた二十五軒のうちから適任者を選び、五人組頭一人をおいた。この外に郷士があった。郷士は武士の格式を与えられながら、一般の農民と同様な生活をしていた。その外に藩主から土地や扶持米を給せられ藩士として格式と義務をもって在宅していた。
 郷士は文筆ができるから手代などを勤め、代官の次にあり、庄屋がその下にあった。しかして万一の場合には真先に徴募せられる義務があった。

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第二節 後潟組と代官

 奥瀬氏の没落後、外ヶ浜に派遣されたのは阿部牛之助で、外ヶ浜代官となって油川にいた。油川代官は府間与右衛門、佐藤与次右衛門と続き宝暦年代以後は油川後潟両組代官となって、相馬市郎兵衛、樋口庄蔵が任命されている。宝暦以後の代官については文化元年、青木彦兵衛編の「積載箚記」に記載されている。同書は油川組、浦町組の代官及び郷士、手代について記載しているので参考のため全文を掲げる。
 同書は任命された代官の総てでない。特に延宝二年の佐藤与次右衛門以降、宝暦十一年相馬市郎兵衛が任命されるまでの代官が不明である。宝暦五年には諸組代官残らず引取になり、在々の重立をもって大庄屋に取立て、宝暦十一年まで継続したが、失敗に終り結局以前の代官制度が復活した。同書は宝暦以後の代官氏名である。外ヶ浜代官は四、五名の例外があるが、大体一年交替のようである。この間浦町組、横内組、油川組、後潟組ノ四ヵ組が混一にして油川役所に詰めていた。
 油川の代官役所が下町にあった。極めて狭い建物で、そこに一名の代官が宿泊し、事務室には手代がいて事務をとっていた。
     文化元年「積載箚記」青木彦兵衛編
  宝暦年中御郡中御代官七人在之、重立大庄屋被仰付、油川後方両組今別中嶋久兵衛、油川西田三郎右衛門、中沢吉田喜兵衛、浦町 横内両組油川窪田七三郎、浦町三上右衛門相勤候所同十一巳年大庄屋引取古来之通被仰付、夫より已来米御代官御名前左に
一、宝暦十一年辛巳年          相馬市郎兵衛
                    樋口庄蔵
一、同  十三癸未年 樋御代り    棟方弥五兵衛
一、明和  元甲申年 相代り      木村美司
一、同   三丙戌年 棟御代り     浅田甚之丞
一、同   六己丑年 浅御代り     花田九八郎
一、同   七庚寅年 木御代り     一戸茂左衛門
一、安永  三甲午年 御一人勤     工藤久左エ門
一、同   五丙申年 右御代り九八郎様御改名
                    花田九左エ門
一、同   七戊戌年 右御代り     赤石安右エ門
一、同年                石戸弥左エ門
一、同   八己亥年    竹内長左エ門
一、天明  元辛丑年 御揃代り     成田祐右エ門
                    和嶋勘七
一、同   二壬寅年 成御代り     福田勘兵衛
一、天明  三癸卯年 和御代り     笹森権蔵
一、同   四辰年  御揃代り     戸田与左エ門
                    佐藤林之丞
一、同   五乙巳年 戸御代り     福真伴左エ門
一、同   六丙午年 福御代り     須藤清次郎
一、同   七丁未年 御揃代り     今善之丞
                    菊池慶左エ門
同年外ヶ浜四ヶ組混一大庄屋取立被仰付、其後寛政元己酉年一統引取被仰付七五郎の名前
           油川後潟組    中嶋久兵衛
                    西田三郎右衛門
           浦町横内組    鹿内瀬兵衛
                    小泉久兵衛
                  以上
一、寛政  元己酉年 御揃代り     橋本兼次郎
                    荒木関宇八郎
一、同   三辛亥年 橋御代り     工藤十内
一、寛政  三辛亥年 荒御代り    和島丈右エ門
一、同年       工御代り     乳井定市
一、同   六甲寅年 乳御代り     伊東富太郎
一、同年       御揃代り     花田幸之介
                    佐野伴蔵
                    久慈新五兵衛
  同年四ヶ組混一御取扱被仰付浦町役屋引取当役所江詰合之節之手代名前左之通り
           高田村      斉藤伝蔵
           荒川村      川邑四郎左エ門
           宮崎村      千葉六郎次
           幸畑村      佐藤又吉
         加勢戸山村      奥瀬嘉兵衛
一、寛政  七乙卯年 花御代り     吉村理右エ門
一、同年  十二月  吉御代り     工藤元衛
一、寛政  八丙辰年 佐御代り     須藤孫蔵
一、同年 二月   久御代り     山形甚之介
一、同年 十一月   山御代り     佐野伴蔵
一、同年  十月   工御代り     成田寅之介
一、同年 十一月   半御代り     成田形内
  同十戌午年外ヶ浜四ヶ組引分被仰付、佐野伴蔵様成田形内様御引取寅之介様御一人御残路御組合
一、同   十戌午年十一月       半田忠左衛門
一、同十一己未三月           佐野伴蔵
  公儀方御用多に不又々当組被仰付御三人に而御勤之所翌申年御役替に而御引取
一、同十二庚申年四月 成御代り     須藤孫蔵
一、寛政十二庚申年十月 半御代り    三浦左太夫
一、享和 元辛酉年八月 三御代り    一戸彦右エ門
一、同  三癸亥年二月 須御代り    織田藤司
一、文化 元甲子年十月 一御代り    神八郎右エ門
  同二乙丑年八郎右エ門様浪岡江御組替藤司様御一人御残又々外浜四ヶ組混一御取扱被仰付浦町組御預御両人御加ヘ御三人勤御名前 左に
一、文化二乙丑年二月          小林専太郎
  同五戊辰年四月浪岡江御組替被仰付候
一、同年同月              森岡弥源太
  同五戊辰年四月十二日 小、森御代り 平井門次郎
  是迄藤司様専太郎様弥源太様御三人組合四ヶ組混一之処又々引分被仰付、専太郎様浪岡組江藤司様御残り門次郎様と御組合
一、文化六己巳十一月  織御代り    今井良作
一、同 七庚午 二月  平御代り    半田忠左エ門
一、同 九壬申 三月  四ヶ組御三人勤被仰付園多様浦町御勤也  対馬園多
一、文化十癸酉 四月  半御代り    乙部忠助
  園多様良作様忠介様御三人組合四ヶ組御取扱の処文化十酉八月四ヶ組引分園多様浪岡江良作様浦町江忠介様御残り半蔵様と御組合
一、文化十癸酉 八月  今、対御代り  山崎半蔵
一、文化十二乙亥年十二月        山崎半蔵
  但十二月二十九日外ヶ浜四ヶ組混一に御取扱被仰付御三人勤に成 今井良作
                                乙部忠助
一、文化十三丙子年十一月 山、今御両人御代り
                    平井門次郎                
成田長太郎
  但山崎半蔵様と今井良作様と御組替に而乙部忠助様御残り門次郎様と長太郎様と御三人御組合にて四ヶ組御勤
一、文化十四丁丑十月迄         平井門次郎
                    成田長太郎
                    乙部忠助
  但右御三人御組合之所乙部様御組替に而木作組へ御出右跡へ則十一月七日毛内民作様被仰付之所御献上の串鮑の儀に付御呵被仰付 御役下に相成同十二月十八日御引取被仰付候
            乙御代り    毛内民作
一、文化十五戊寅年十二月十八日平井門次郎様御手廻り格勘定奉行手伝被仰付候に付跡御組合左に
                    成田長太郎
            毛御代り    和嶋伝助 
            平御代り    今井良作
一、右同三月八日今井様御組替に而外ヶ浜へ被仰付
一、右同四月二日又々先年之通四ヶ組御振分御取扱被仰付候に付浦町二ヶ組ハ和嶋伝助様今井良作様御両人当両組之儀ハ左に
            孫八様より改名 成田長太郎
一、御台所奉行より御役替        米橋清蔵
                    成田長太郎
            米御代り    鳴海律右エ門
一、文化元戌年七月七日に被仰付候
  同四月大鰐に御組替
一、同月成田様御組替  鳴御代り    野呂才吉
  文化四辛巳十一月九日 野御代り   工藤章作
                    左兵衛と改名
一、同五壬午年四月七日  工御代り   清藤俊蔵
  同八乙酉年二月十三日浪岡組へ御組替に成
一、文政八乙酉年二月十三日
  清蔵様と御入替大間越町奉行に被仰付候
一、文政十丁亥年九月   成御代り   奥瀬和次郎
一、同十一戊子年正月   奥御代り   相馬粛左エ門
一、同     十月   相御代り   神喜伝
一、同十二乙丑年二月   神御代り   佐藤兵八
一、同十三庚寅年八月   佐御代り   大沼又太郎
  大鰐組に御組替
一、天保四癸巳年十月   大御代り   川田権作
一、同 五甲午年七月   神御代り   工藤小助
一、同年天保八丁酉年七月御引所 川御代り 大沼又太郎
一、同 六乙未年正月   工御代り   藤岡与右衛門
  浦町組江御組替
一、同年      五月 藤御代り   佐藤虎之助
  駒越組と御組替
一、同七丙申年十二月   佐御代り   菊池又一
  同八丁酉七月御引取
一、同八丁酉年七月    大御代り   金慶司
  子正月二十四日引取
一、同年    八月   菊御代り   山内忠司
  藤崎組江御組替
一、同 九戊戌年三月   山御代り   小野房吉
一、同年   閏四月   小御代り   山田仁兵衛
  戌八月藤代組江御組替
一、同年    八月   山御代り   中田剛次郎
  亥年三月御代官引取
一、同 十己亥年三月   中御代り   野呂謙吉
  同十五年申辰年三月外ヶ浜四ヶ組取扱被仰付候浪岡組江御組替
一、同十一年庚子年正月二十四日 金御代り 福士熊司
  天保十五年辰三月藤崎三組江御組替
一、同十五甲辰年三月   熊御代り   工藤喜右衛門
  浦町両組相勤之処此度当両組合四ヶ組御扱被仰付野呂様と御組合二人勤、酉四月浦町組江
一、同年十月二十七日   野御代り   藤岡永作
  浪岡組より当組へ藤崎組江御組替
一、同年同月 三十日   藤御代り   福士熊司
  藤崎組より当組江弘化三丙午六月十二日和徳組江御組替
一、弘化三丙午年六月十二日 福御代り  山形藤助
  和徳組より当組江御代官は御免願之通り被仰付候事
一、同年六月十七日    山御代り   外崎要吉
  慶応三丁卯年十二月野内町奉行被仰付候
一、嘉永二己酉年四月   工御代り   長谷川仙次郎
  最近四ヶ組混一御扱の処今度御引分被仰付工喜様浦町組江右御跡に御組替被仰付外崎様御組合御二人勤

一、同年   七月    長御代り   宮田角左エ門
  外、長御両人当両組御扱工喜御一人、花田斧弥様御組合にて浦町組御扱なれども公儀方異国船方は御用向四ヶ組抱合にて勤方被仰付混一同体也、浦ノ工代今杢左エ門様也
一、同五壬子年四月十九日 宮ノ御代り  小野純蔵
  木造組より当組へ文久元年酉年十二月大鰐江御組替被仰付候
  八年間記載なし
一、文久元辛酉年十二月  小ノ御代り  須藤勝五郎
  文久二壬戌年九月浪岡三組江御組替被仰付候
一、同二壬戌年九月    須の御代り  鳴海謙六
  和徳組より当組江文久三癸亥年五月浦町江御組替
一、同三癸亥年五月    鳴ノ御代り  芹川甚次郎
  浦町組より当組江
一、慶応元乙丑年十一月  芹ノ御代り  高木岩五郎
一、同 二丙寅年 四月  高ノ御代り  長谷川良八
一、同 三丁卯年十二月  外ノ御代り  外崎貞作
一、明治元戊辰年十二月  長御代り   成田滝弥
  浪岡三ヶ組より長良様御代り鎌田小左エ門様当組江被仰付候処御下り無之右組江居勤之旨に而赤田組より当組江成滝様被仰付同二年二月二十九日右赤田組へ組替被仰付候
一、同二己巳年正月           斎藤覚兵衛
  大非常方に付成滝様外貞様御三人勤に而後同人様御代官御加勢に而当組江被仰付候
一、同年二月晦日     成御代    佐藤貞輔
  和徳組より当組江組替被仰付、同年六月二日金木四ヶ組江組替被仰付候
一、同年四月十六日           鎌田小左エ門
  浪岡より当組江組替被仰付、佐貞様組替被仰付、佐貞様外貞

様鎌小様御三人勤之所、非常落着外貞様藤代組江御組替之上御両人勤に被仰付候
一、同年六月晦日     佐御代り   笹森勇太郎
郡政調方手伝に而当組江被仰付、此度は改革に付御代官を郡政調方と御役名御改被仰付候

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第三節 後潟組と手代、郷士

 代官の補佐役として事務一切をきりまわしているのが手代である。手代は後潟、油川組の重立が選ばれた。宝暦十一年から明治二年まで左の十七名が選ばれた。本村からは中沢村の鳴海伊右衛門、同村の吉田佐太郎、蓬田村の武井安左衛門が手代に選ばれている。

      宝暦十一辛巳より御取立被仰付候手代名前
 一、岡町          蝦名善右衛門
 一、小橋          工藤嘉右衛門
 一、石神          石塚伝次郎
 一、六枚橋  鳴伊代り   沢田宗左衛門
 一、中沢   芳四代り   吉田佐太郎
 一、左関   蝦武代り   工藤義三郎
 一、石神   兄伝次郎代り 石塚次郎兵衛
 一、沖館   石次代り   浅利建次郎
 一、油川   親宗兵衛代り 館田宗兵衛
 一、中沢          鳴海伊右衛門
 一、油川          芳賀四郎左衛門
 一、岡町          蝦名武右衛門
 一、油川   工嘉代り   館田宗兵衛

 一、奥内   吉佐代り   館田兵太郎
 一、四戸橋  澤宗代り   千嶋伊右衛門
 一、蓬田          武井安左衛門
 一、通勤   武安代り   館田兵太郎

 手代は原則として常勤を命ぜられていた。扶持十五俵給せられていた。郷士は武士で農村に在宅し、藩主から土地、扶持を給せられ兵治は農耕に従事しているが、戦時には武士と同じく軍務に服する義務があった。郷士に武士の外に治水、献金、植林等の功労によって郷士たるの資格が与えられた人が多く、代々郷士、一代郷士、並郷士の区別があり、帯刀が許され年頭御目見得の特典があった。
 郷士は文筆に長じ、手代を拝命、代官の次ぎに位している人が多かった。阿弥陀川村の青木彦兵衛は寛政七年五月に、中沢村の坂本久太郎は寛政十年に、蓬田村の武井安左衛門は文化元年に、中沢村の坂本甚吉は文政元年に、蓬田村の吉崎忠右衛門は文政七年に、蓬田村の対馬九兵衛は天保七年に、中沢村の坂本常蔵は明治二年に何れも手代役仰せつけられ郷士格であった。
 なお蓬田村の対馬九郎兵衛は御献上煎海鼠仕立仰せつけられている。青木彦兵衛編「積載箚記」により油川、後潟両組の手代、郷士をあぐれば左の如くである。
 一、小橋村
  工藤嘉右衛門
   天明七未年再勤、寛政元酉年郷士仰せつけられ、同二年戌年退役
 一、六枚橋
  沢田宗左衛門
   天明八申年再勤、寛政三亥年郷士仰せつけられ、同七卯年三月退役、同十一未年二月又々再役被仰付、文化元子三月壱貫五百文御賞被仰付退役
 一、羽白村
  工藤基次郎
   寛政元酉年手代本役、文化二丑年十二月郷士被仰付、同四卯年五月退役
 一、四戸橋村
  千嶋伊右衛門
   寛政二戌年再役、同十年十二月郷士被仰付、同十一未年十月退役
 一、細越村
木村小兵衛
   寛政四子年手代被仰付、同七卯三月退役、同十一未十一月普請役、文化元子三月一統引取被仰付
   寛政六年寅八月油川村源十郎隠津出致候所小使三四郎と申者取押へ、孫十郎並其外数人いたみ候趣不得止事。
   即夜詰合沢田宗左衛門、館田宗兵衛、木村小兵衛添心の上内済の所、間もなく露顕致不取締の旨被仰付、右三人親類預、孫十郎同類の者入牢、翌卯三月御刑法相極り其節右三人手代御取放被仰付候、小使三四郎右同断
 一、油川村
  西田源七
   寛政六年寅九月手代、同七卯三月御免
 一、浪館村
  手塚助次郎
   寛政六年寅九月手代、文化二丑十二月郷士被仰付、文化六己巳六月御賞壱貫文被仰付、手代退役
 一、阿弥陀川村川村彦太郎改名
  青木彦兵衛
   寛政七年卯五月手代、同十一未年三月郷士被仰付、文化四年四月御手始御目見得被仰付、文化五辰六月御賞一貫文被下手代御免、文政元年五月願之通り郷士御免
 一、左関村
  相馬喜右衛門
   同年卯十二月加手代、同八辰九月御免、同十一未九月普請役、同十一公儀方手代被仰付、文化七正月郷士、文化七午十二月手代引取被仰付、同十一戌年郷士御免
 一、内真部村
  松代勘兵衛
   寛政八年辰九月加手代、同十一年未正月本役被仰付候得共老年難出勤旨申立御免、同十三酉年、開発方仮手代被仰付文化元年子十一月御免、尤生涯帯刀御免被仰付候
 一、油川村再役
  館田宗兵衛
   寛政十午四月加手代、同十一未普請役、同九月手代本役、文化元子二月退役、同七年三月開発方被取扱、文化十一戌十一月郷士、同年十一月本役、文政元年十二月手代御免、郷士並開発方取扱、是迄之通
 一、戸門村
  相馬常次郎(甚郎左衛門と改名)
   寛政十午四月加手代、同十一未二月普請役、同十一月手代本役、文化七午正月郷士、同九年申三月御賞一貫文被下御免、文政元寅十二月再勤、同十一子五月年頭御目見被仰付天保六乙未年二月病死
 一、六枚橋村
  沢田和次郎(赤平と改相済、赤平丈左衛門と改名)
   寛政十一未十一月公儀方手代被仰付、文化七年正月郷士、文政二乙卯十一月年頭御目見被仰付、天保七丙申五月二十七日為御賞鳥目二〆文被下並手代御免、天保八丁酉年十一月再勤被仰付候
 一、中沢村
  坂本久太郎
   右同年同月公儀方手代、享和二戌五月御用間に付鳥目一貫五百文御賞被下置退役、同三亥十月小兵衛病気に付普請役加勢、文化元子三月諸組一統普請役引取被仰付、即月加手代、同二年二月本役
 一、大川平村
  平山嘉兵衛
   寛政十一未十一月公儀方手代、享和二戌五月公儀方御用間に付御賞として鳥目一貫五百文被下置引取被仰付候
 一、蓬田村再役
  武井安左衛門
   寛政十一未十一月普請役、文化元子三月諸組一統普請役引取被仰付、即月加手代被仰付、同二丑正月開発方被仰付、文化四卯五月手代本役被仰付、文化七午十二月引取被仰付候
一、新城村
  坂本直右衛門
   文化四卯五月開発方仮手代被仰付、同五辰六月本役被仰付候、文化四卯年十月二十六日御呼上に而於御郡所開発方惣組一統引取生涯帯刀御免被仰付候、文政元戊午七月二十八日御免願之通り引取
 一、新派
  佐々木甚右衛門
   文化五辰二月仮手代、同六巳六月手代本役、文政五午年十二月郷士、同十三寅十月手代病気に付御免願之通り引取 一、細越村
  前田忠蔵
   文化六巳六月仮手代、同九申三月手代本役、同十酉十二月病気に付御免願之通り引取
 一、新城村
  有馬三郎兵衛
   文化八未八月開発方下取扱被仰付、同十酉年十二月引取被仰付候、文政三庚辰年三月並木見継役被仰付候
 一、鉄吹小頭左関村
  工藤吉太郎
   文化十一戌四月加勢、同十四子三月二十五日願の上引取被仰付候
 一、油川村
  田中仁太郎
   文化十一戌五月加勢、同十二亥十二月十一日本役被仰付候同十五寅ノ二月二十四日願之通り引取被仰付候
 一、細越村
  木村平吉
   天保九戌年四月役儀取放被仰付候、文化十四丑三月二十二日仮手代被仰付候、同十五午二月本役被仰付候、天保三辰四月並一代郷士被仰付候、同六年未六月御目見郷士被仰付候、天保八年酉十二月手代引取被仰付候
 一、後方村
  靄谷定吉
   同四月五日仮手代被仰付候而同十五寅年二月二十五日願之通り引取被仰付候
 一、後方組
  吉田忠太郎(森と改相済)
   文化十五寅年二月二十五日定吉引取跡へ則日付に而仮手代被仰付候、文政元午十二月本役、文政五壬午年二月六日病死
 一、戸門村
  相馬常次郎(甚郎左衛門と改名)
   同二月二十七日田中仁太郎引取跡へ当分之内仮手代被仰付候、文政元午年十二月本役、天保六未年二月病死
 一、中沢村
  坂本甚吉(久太郎改め)
   文化十三丙子三月十八日御免願之通、尤数年出精相勤候に付生涯帯刀御免被仰付引取、文政元戊午七月三十日手代本役被仰付候、文政六癸未年四月十二日郷士被仰付、則日手代御免
 一、油川村
  館田要吉
   文政二己卯年三月十八日本役被仰付候、文政六未年九月二十九日病気に付願之上手代御免被仰付候、文政九丙戌年三月二十八日開発下取扱被仰付候、同十一子年三月御免
 一、四戸橋村
  工藤小治郎(運治郎と改名)
   文政二己卯年六月開発下取扱被仰付候、同九月朔日後方組牛馬扱被仰付候、文政五壬午年三月朔日牛馬役引取、開発兼手代本役被仰付候(森忠太郎病死跡江)
 一、蓬田村 工運代り
  吉崎忠右衛門(忠次郎と改名)
   文政五壬午三月十日後方組牛馬取扱被仰付候、同七申八月二十日手代本役被仰付候
 一、小橋村 吉忠代り
  工藤与吉郎(吉郎左衛門と改名)
   文政七甲申年八月二十日後方組牛馬取扱被仰付候、同十三寅八月九日仮手代被仰付、同十月手代本役被仰付候、天保六乙未年六月二日郷士被仰付、天保十己亥十二月十五日手代御免被仰付候
 一、六枚橋村
  赤平左十郎
   文政十二己丑年後方組人別取扱被仰付、天保十亥年十二月手代被仰付、嘉永元申年引取、同六癸丑年八月手代被仰付、安政四丁巳年正月並一代郷士被仰付、慶応四戊辰年四月年頭御目見被仰付、明治二年己巳二月手代引取、同年九月病死
 一、三内村
  渡辺弥惣司
   文政二卯年二月二十五日漆守被仰付候、天保十三壬寅四月郷士、天保六乙未十月於御郡所御酒御吸物頂戴、天保乙未四月二日手代本役被仰付候、天保十己亥年六月二十八日並一代郷士被仰付、安政四巳年正月病死
 一、油川村
  平井治郎兵衛
   天保五午四月並一代郷士御取立被仰付、同六未六月後潟組手代本役被仰付候、病死
 一、蓬田村
  対馬久兵衛
   天保七丙申五月後方組手代被仰付候、天保六乙未十月並一代郷士被仰付候、天保十一子十月病死
 一、平館村
  北田柾吉
   天保四癸巳年九月仮手代被仰付候、天保六乙未年十月並一代郷士被仰付候、天保七丙申年六月仮手代兼牛馬取扱被仰付候、天保八丁酉年十一月仮手代引取
 一、新城村
  増川嘉七
   天保五甲午年十二月朔日開発下取扱被仰付、天保戊戌年六月二十二日手代本役被仰付、文久二卯年御免被仰付候
 一、滝村 才助事
  天保六未年四月牛馬取扱被仰付候、天保十己亥年十二月十五日手代本役被仰付、文久二壬戌年三月引取被仰付候
 一、袰月村
  小倉重兵衛
   天保六乙未年六月五日御目見郷士被仰付候
 一、油川村 文吉事
  三上重郎兵衛
   天保十三壬寅四月二十二日店頭御目見代々郷士被仰付候
 一、細越村 又吉事
  木村小兵衛
   天保十三壬寅四月並一代郷士被仰付候
 一、袰月村
  小倉四郎兵衛
 一、小橋村
  工藤勝弥
   天保十一子年十二月手代役被仰付候、文久二壬戌年二月並一代郷士被仰付、手代是迄通り
 一、後方村
  工藤甚十郎
   嘉永元戊申年十一月手代役被仰付候、同六癸丑年八月引取安政二乙卯年二月手代本役被仰付、慶応四戊辰年正月並一代郷士被仰付、明治二己巳正月手代引取
 一、細越村
  木村用助
   安政四丁巳年三月十二日手代本役被仰付、文久元辛酉年四月十八日漆役被仰付
 一、小橋村
  工藤直吉
   安政三丙辰年八月公儀仮手代被仰付、同五戊午年十二月海岸御締方掛り合被仰付、同六己未年六月十七日漆役被仰付文久二壬戌年正月並一代郷士被仰付候
 一、滝村 親才助代り
  中村豊次郎
   安政三丙辰年八月公儀方仮手代被仰付、同五戊午年十二月海岸御締方掛り合被仰付、万延元庚申年六月病気に付海岸方掛合御免願之通り、文久四年甲子年二月手代役被仰付候
 一、油川村
  工藤平作
   文久二壬戌年四月公儀方仮手代海岸締方被仰付、明治二己巳年正月引取被仰付候
 一、左関村
  福岡己八
   安政三丙辰年八月公儀方仮手代被仰付、同五戊午年十二月海岸御締り方掛合被仰付、文久二壬戌年三月引所而被仰付慶応二丙寅年二月漆役被仰付
 一、内真部村
  井上円次郎
   安政五戊午年七月公儀方仮手代被仰付、万延元庚申六月海岸御取締方掛り合被仰付候
 一、瀬戸子村
  佐々木友吉
   安政五戊午年三月油川両組牛馬取扱被仰付
 一、左堰村
  横山伝助
   安政三丙辰年漆役被仰付、同六己未年六月高十石漆役御免引被仰付
 一、鶴ヶ坂村
  浅利甚作
   安政六己未年六月漆役被仰付
 一、中沢村
  坂本常蔵
   安政六己未年漆役被仰付、明治二己巳年十二月手代被仰付候
 一、三内村
  渡辺庄右衛門
   文久元辛酉年四月漆役被仰付
 一、左堰村
  東弥八郎
   文久元辛酉年四月漆役被仰付
 一、蓬田村
  対馬九郎兵衛
   御献上煎海鼠仕立方
 一、工藤佐吉郎
  天保十五甲辰年鉄吹小頭被仰付
 一、後潟村
  佐々木源治郎
   万延元庚申十二月楮仕立掛り合被仰付候
 一、新城村
  竹内舛右衛門
   文久二壬戌年三月楮仕立掛り合被仰付候
 一、細越村
  木村喜平太
   文久二壬戌年三月楮仕立掛り合被仰付候
 一、羽白村
  嶋田庄之助
   慶応二丙寅年十月公儀方仮手代海岸締り方被仰付慶応四戊辰四月病死
 一、瀬戸子村
  斎藤孫太郎
   文久四甲子年二月公儀方仮手代海岸締方被仰付候
 一、左堰村
  土岐慶司(五郎兵衛と改名)
   明治二年己巳二月手代被仰付候

 明治二年にいたり世の変革に伴って、代官、手代の役名が廃止となってから、帖合方と唱えられた。給与も十五俵から十俵となった。

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