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村史

第四節  蓬田村の庄屋

 名主、庄屋は村の頭の役名である。これにあたる人はその村の家柄のある人で、普通は村の開拓者があたっていた。本村の庄屋については資料がないので明らかにすることができないが、保存されている記録によって左の庄屋をあげることができる。
 年号     村名    庄屋名
 貞享三年   郷沢村   彦左エ門
 (貞享三年 郷沢村御蔵給地田畑屋舗其他諸品書上帳)
 明和三年   板木沢村  万左エ門
  (明和三丙戌年 諸木植付并見継山留帳)
 安永七年   中沢村 佐五左エ門
  (安永七戊戌年八月 中沢村長科村畑方銀納仕上ケ留帳)
 寛政七年   中沢村   佐五左エ門
  (寛政七己卯年 外ヶ浜中沢村田方御調帳)
 文化八年   広瀬村   長三郎 代庄屋
  (文化八年 後潟組瀬辺地村貞享御元高并新高共増減調帳)
 文化十一年  中沢村   嶋右エ門
  (文化十一甲戌年 後潟組中沢村長科村戌年新屋鋪御検地帳)
 文化十四年  中沢村   平介 代庄屋
  (文化十四丁丑年後潟組中沢村長科村畑方丑歳試開発人別書上帳)
 文政八年   長科村   甚左エ門
  (文政八乙酉年 後潟組中沢長科両村田畑諸品成減帳)
 天保十五年  中沢村   房五郎 代庄屋
  (天保十五甲辰年 後潟組中沢長科両村本免仕付兼給地案内帳)
 寛政四年   長科村   久兵衛
  (後潟組長科村銀納二十ヶ一御備銀人別取立帳)
 安政五年   中沢村   喜兵衛
  (後潟組中沢長科両村岸焼并秣場萱仕立場所調書上帳)
 万延元年   中沢村   甚助
  (後潟組中沢長科両村岸焼并秣場萱仕立場処調書上帳)
 文久四年   瀬辺地   太左衛門
  (後潟組瀬辺地広瀬両村漆木根付木并寄苗共取調書上帳)
 他に年号不明なるも、御山処書付留に代庄屋与太郎、中沢村代庄屋弥惣と書かれている。

 以上の他に坂本義徹氏が庄屋、手代を調査したのによると左の如くである。職名、大字名が不明であるが、参考のため掲載す。
   庄屋、手代
 年号     職名   大字名   氏名
 宝暦     手代   中沢    吉田喜兵衛
 宝暦     庄屋   同     同
 明和          長科    張間佐右エ門
 安永          同     同
 安永                万右エ門
 天明     長科    張間佐右エ門
 寛政          中沢    坂本兵吉
 同           同     坂本久兵衛
 文化二年              吉田藤三郎
 同                 忠兵衛
 文化七年              坂本嶋右エ門
 文化九年              藤右エ門
 文政二年              坂本平助
 文政四年              甚左エ門
 文政十一年             彦太郎
 天保                同
 天保二年              仁左エ門
 天保三年              坂本嶋右エ門
 天保                三上権十郎
 天保十四年             坂本房五郎
 同                 坂本久太郎
 安政六年              幸次郎
 万延                吉田甚助
 文久                太左エ門

 明治三年              甚助
 明治八年   村用係        青木三之助
 同      戸長         青木熊之助
 明治十二年  戸長 久慈丑松
 明治十六年  同          須藤亮平

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第五節  検地と蓬田

 津軽為信が津軽一円を統一して石高四万五千石と検地されたのは文禄元年で、豊臣秀吉が東奥巡検使として前田利家、同慶次利大、同孫四郎利政、横目片桐且元、小野木縫殿助の五人を雑兵一万とともに下向せしめ、四月初旬から七月下旬までの四ヶ月の永きにわたって、藩内を踏査検地してからである。
 巡検使一行は羽州秋田から当領に入った。秋田孫十郎が誘導し、利家卿は大浦城に、慶次、孫九郎は堀越城に、片桐、小野木は浅瀬石城に宿り津々浦々を巡検し、境界を定め、七月二十一日帰途についた。巡検とは、表面上の理由で内実は津軽藩が九戸政実の乱に政実を援助した疑いがあったからであるという。検地の結果、前述のとおり四万五千石と決定し、藩内の農村落は百三十三ヶ村あった。この時の外ヶ浜の村落が左記のとおりで蓬田村が記載されているに過ぎない。
 外ヶ浜
  三百九十一石一斗 新城村   百三十二石九斗  細越村   二百五十一石九斗 荒川村
  二百十石七斗   原別村   二百三十一石三斗 野内村 十八石九斗    浅虫村
  三十六石九斗   堤村    十石一斗     野内村 二百二十石二斗  新田村
  百十四石     茂浦村   三百十四石七斗  油川村   二百八十六石四斗 山口村
  三百十石三斗   田沢村   五百十石     小湊村   二百十四石    瀬戸子村
  百四十二石    童子村   四百六十七石一斗 蓬田村
   〆高三千九百六十三石五斗 村数十七ヶ村          (津軽平野開拓史)

 この文禄元年、前田利家の検地したときの村落と、これより五十年前、天文十二年浪岡北畠家が調査したといわれている郡中名字に現われた村落と比較してみると、いかなる理由か郡中名字に書かれている村落で、文禄の検地に書かれていない村落が多数ある。例えば上磯では瀬戸子村以北の村落、東外ヶ浜では二十折(高田村)、駒込村、長峯村などで天文年間にあった村の欠けているのは、いかなる理由かわからない。
 特に外ヶ浜では蓬田村があるが、中沢村がない。中沢村について前述せる如く、建武二年三月十日、外ヶ浜野尻の郷及びその付近の地が工藤貞行に与えられて間もなく、内真部を中心とする上磯の諸村は、南部師行に与えられたことは南部文書にある。同文書に泉田、湖方、中沢、真板、佐比内、中目等の村々が師行に与えられ、泉田は蓬田、湖方は潮方の誤字でないかと史家がいっている。しかし中沢村だけは明瞭に書かれ、当時存立した古村であるにも拘わらず、文禄の検地帳に現われていないのは如何なることかわからない。中沢村が津軽藩の検地帳にはじめて見えたのは、寛文四年の検地帳である。文禄年間から七十二年後である。津軽藩で為信が津軽全部を統一してから、代々鋭意新田の開発に努力し、原野、沼地で田畑に適した土地は民をして開発せしめた。新田村は各地に発生したので、その状況を調査するのと同時に、租税徴収の基礎帳簿を作制するために、度々検地を行なった。文禄から正保二年までの開拓村について調査したとき、新田が四万二千八石五斗三升、この村数が二百二ヶ村増加し、旧高の二倍となった。その内訳をみると

    旧田高    新田高
石    石
  平賀郡  一九、二六五、〇六 一五、六三三、九四
  田舎郡 一一、三七六、五七 一八、四〇一、七〇
  鼻和郡 一四、三五八、三七  七、九七二、八九
   計   四五、〇〇〇、〇〇     四二、〇〇八、五三

である。外ヶ浜の新田村四十七ヶ村ある。その内本村では大瀬辺地村(五十五石八斗八升)あるのみである。
 正保二年から寛文四年の二十ヶ年間に急速に新田が増加した。寛文四年の「津軽郡高辻之帳」によると、新田が十万九千八百四十九石八斗と増加し、特に田舎庄新田は六万六千三百七十石五斗、村数百三十四ヶ村が開拓され、鼻和庄、平賀庄の庄に比し圧倒的に増加率が多い。
 この年代に本村で中沢村(五百十五石七斗)、瀬辺地村(二百十五石)の新田開拓があった。
 第四代津軽信政が寛文四以降、小知行の士を各地に派遣して開発地を半額給与するという立前で、金木村に四十三人、松野木代村に二十二人、戸沢村に八人というふうに、土地の状況に応じて士を土着せしめて耕作に従事せしむる所謂小知行派を始めた。この制度は成功し、寛文十二年まで百八十七ヶ村(新田八万六千四百八十七石三斗三升)の派立ができた。その内、田舎郡は新田高六万四千八百六十五石七升、百二十三ヶ村であった。この九カ年に本村の長科村(千二百十三石六斗)、郷沼村(二百二十石三斗)、阿弥陀川村(三百七十五石)、広瀬村(四百二十七石二斗)の各村の派立が開拓され、現在の蓬田村の全域が開発されたのである。かくの如く新田の開墾が進行したので、津軽信政は領内全般に惣検地を行い租税の確立をなさんとし、その準備に天和二年各村落ごとに略図、戸数、田畑等の書上帖を提出せしめた。貞享四年に武田源左衛門を元〆に命じ検地せしめた。本村に残っている左の検地水帖は瀬辺地村のものである。

 貞享四丁卯歳
 陸奥国津軽郡田舎庄瀬辺地村御検地水帳
  五月        大道寺隼人
            間宮友馬
  田舎庄
   瀬辺地村
  田浦
   上田 拾八間  六畝歩    半左エ門
      拾間
     分米六斗六升
  同所
   下田 三拾三間  三反三畝歩  同人
三拾間
  同所
   中田 拾弐間   四畝拾弐歩  同人
      拾弐間
     分米四斗三升弐合
  同所
   下田 弐拾六間  壱反八畝六歩 同人
      弐拾壱間
     分米壱石弐斗七升四合
  田浦
   中田 弐拾五間  壱反七畝拾五歩 半左エ門
      弐拾壱間
     分米壱石六斗
  同所
   上田 弐拾八間  六畝弐歩    同人
      六間半
     分米六斗六升七合
  同所
   下々畑 拾間   弐畝歩     同人
       六間
     分米弐升
  同所
   下畑 参拾六間  六畝歩     同人
      五間
     分米壱斗八升
  同所
   下々畑 二拾間  三畝拾歩    同人
       五間
     分米三升三合
  同所
   下々畑 三間   三歩      同人
       一間
     分米壱合
 

  (途中省略)

一、田畑地九反八歩  村中
    是者末々田畑可致開発場所相改委細別帳記之
     貞享四丁卯年五月
                元〆    武田源左エ門
                同     田口十兵衛
                御検地奉行 太田茂左エ門
                同     今治兵衛

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第六節  蓬田村の成立

 本村は大字中沢、長科、阿弥陀川、蓬田、郷沢、瀬辺地、広瀬の七大字を以て成っている。昔は各大字何れも独立の部落であった。しかしこれらの各部落の事蹟は記録なく正確に知ることができない。
 伝うるところによると、往昔蝦夷の酋長が本村の西方に拠り権勢を張っていたという。今なお此処を蝦夷館野といっている。桓武天皇の御代、大同年間に坂上田村麿これを征伐したと伝えられる。又一説に田村麿蝦夷征伐の後、僧光坊という仙僧この地へ下り、田畑の開拓に従事したとも云うことは旧地図に僧光坊跡と書かれていることにより証明される。
 旧記によると、田村麿蝦夷征伐後、奥州へ多数の僧をつかわしたとあるから、僧光坊はその中の僧でないかと思われる。又鎌倉時代浄土宗の名僧金光上人が奥州に下り、外ヶ浜阿弥陀川部落の河中より阿弥陀如来像を拾いあげていることから考えると、本村の創立は相当古い。
 本村は南部氏時代には浪岡、北畠氏の支配下であったが、津軽為信が天正十三年油川、奥瀬善九郎を降して後、蓬田越前も南部に落ち行き、以後津軽領となった。津軽領となってから本村は田舎庄後潟組に属した。本村の検地に見られるのは前述のとおりで、正保二年に大瀬辺地村、寛文四年に中沢村、瀬辺地村、寛文四年以降に長科村、郷沢村、阿弥陀川村、広瀬村が新田村として現れている。
 徳川幕府が崩壊し明治二年藩籍奉還、同四年廃藩置県となって弘前、黒石、七戸、八戸、斗南の五県を併せて弘前県とし、後ち青森県と改め、県庁を青森に移した。明治六年三月従来の制度を改め青森県管内陸奥の国を十大区に分け、さらにこれを七十二小区に細別した。大区に区長、小区に戸長、副戸長を置いた。当時本村は第一区第四小区に属した。
 明治十一年七月郡区町村編成法制定せらるるや東津軽郡に属し、小区内の各村は分離して村毎に戸長を置くことになった。
 その間における町村統治者の名称は時々変更し、明治維新当時の庄屋は組頭又は村用係となり、其後戸長となった。明治十五年瀬戸子から郷沢にいたる十五ヵ村の戸長役場を後潟に設け、第七組戸長役場と称し、のち後潟村外十四ヶ村役場と改称した。
 明治二十二年町村制実施せらるるや後潟村から中沢、長科、阿弥陀川、蓬田、郷沢の五ヵ村、蟹田村から広瀬、瀬辺地の二ヵ村を分離し、蓬田村となし、同年五月二日村会議員を選挙し、同年六月村長、助役、収入役の選挙を行い、爰に初めて完全なる自治体組織となり現在にいたっている。
 蓬田村の成立について、坂本種一氏は田畑の開拓された状況から考察して、各部落の草分けと古い堰を蓬田村郷土誌編さん資料に左の如く記している。

   蓬田村の草分け
                                   坂本種一調査
 大字中沢

◎坂本甚左エ門
  久兵衛の本家、坂本家の総本家とも云われている。子孫は明治初年北海道へ移住。古書に仁左エ門とも見えている。 仁は仁義の仁なれば甚左エ門なり。
◎藤田兵作 吉田籐十郎 三上権十郎 坂本嶋右エ門 吉田喜兵衛 吉田籐三郎
  相ならんで古い中沢の草分けの家と云われる家である。
◎御倉堰
  これは御倉と云えば穀倉(殿様の)御倉を意味して、中沢の年貢米は悉くこの水のかかる田(美田)からとれていた。 昔から甚左エ門の田、喜兵衛、嶋右エ門の田地は悉くこの堰から水が引かれていた。
◎甚左エ門堰
  お倉堰の分かれで、甚左エ門田は甚左エ門堰水がかかっている。その反別は約十町歩。
◎嶋右エ門堰
  嶋右エ門が開拓した四町歩余の田は、嶋右エ門堰水が利用されている。お倉堰の分水で堰中で一番後世に開かれたも のである。 
◎治五兵衛堰
  上み街道から北部長科境まで十余町歩の水田に供給する用水は治五兵衛堰から注がれている。治五兵衛が開拓した新 田が大部分を占めていた。

  大字長科
◎小鹿三十郎
  金光上人が宿った家といわれ、古い家で長科の草分けである。
◎工藤儀右門
  阿弥陀川地蔵尊に流田村工藤儀右門とあり、長科では小鹿三十郎同様村の草分けである。
◎九左エ門堰
  九左エ門堰の名があるが、その家がない。九左エ門堰は御倉堰、治五兵エ堰と三本分かれる故昔から三本口といって いる。
◎儀右門堰
  儀右門の長走りという田に注いでいる堰である。

  大字蓬田
◎武井安郎兵衛
  武井家総本家である。子孫は北海道に移住した。武井金次郎は本家の安郎兵衛の天鳥釜を臨終に売って税金も完納し た美談がある。古い家である。

  大字瀬辺地
◎飯田和右エ門
  飯田家総本家といわれているが詳かでない。鬼神のお松の父と兄弟分であった。お松の父は心よからぬ人であったか ら、これを戒めるため腕を切ったと伝えられている。院殿大居士の位牌を持っているところから、祖先は名ある人の子 孫でないかといわれている。

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第七節  検地と農民

 封建社会において農業生産が藩の経済の基礎となるものであるから、領主は検地を行い土地制度を確立しなければならない。戦国時代に今川、北条、武田、織田などは自分の標準によって検地を行い、完全に土地を支配し、それによって部下に恩賞を与えたり、社寺に寄進したりすることができた。秀吉はこれら戦国武将より以上に厳重に検地を行った。すなわち天正十年本能寺の変の翌月には、山城に土地台帳の提出を命じ、さらに領土が拡大するにつれ検地を押し進めていった。九州を征服すれば九州に、奥州が服すれば奥州に実施した。

 奥羽検地の時に秀吉は検地奉行の浅野長政に対して、
  検地について不届きのものがあれば、一郷も二郷も撫切にせよ。六十余州を厳密にして出羽陸奥を粗略にするわけに はいかない。たとい人が居らなくなっても差支いないから、山の奥、海は櫓かいの続くまで念入りにせよ。

と命ぜられた。(児玉幸多著「近世農民生活史」)津軽藩には文禄元年、前田利家卿、同慶次利大、同孫四郎、片桐且元、小野木縫殿の五人が、雑兵一万を引きつれて東奥巡検使として下向、四月初旬当地に到着、七月二十一日まで滞在、津々浦々を巡検の上封内百三十三ヵ村、高四万五千石と確定した。
 どんな反抗があり、摩擦があったとしても、一旦検地が確定すると、それを基準として貢租、夫役等が課せられる。検地帳に記載された百姓は所謂帳付百姓としてその土地の賦課に対する責任者として動きのとれないものになる。そして作人としての地位が保証される代りに、その耕地を手放すことも他に移ることも禁止される。即ち検地によって土地と農民が結びつけられてしまうのである。かくの如く検地は農民にとって重要なことであったから、農民は検地のある度ごとにおびえた。
 検地の際の測量方法は今日のごとく正確なものでないから、検地奉行の手心が加わる余地があった。検地縄をゆるく張れば実際の面積より帳簿の面積が大きくなるし、寛大にしようとすれば余裕をとっておく。それで一割も二割もの差が立ちどころに生ずるのである。農民にとっては貢租の率より検地の方法が重大な問題であった。
 ところで信政は元和二年、検地案内の者に不正があってはいかぬと云うので誓詞をとり、また名主、組頭、百姓からも左の証文をとり万全を期した。

  検地案内者の誓詞書
 一、当村田畑屋敷山林まで御改めの上は壱畝壱歩たり共隠し不申候事
 一、田畑共に上中下の位少しも偽りなく可申上候並新田畑共に隠田仕るに於ては仮令親類縁者にて御座候共無隠可申上   候事
 一、宮地寺社地御朱印所は無紛明白に可申上候若他領などへ引きまぎらかし隠し置申御座候得ば是又早々注進可仕候尤   跡にて田地他領へ売渡或は質物様に入置候儀御座候はば其段委細可申上候事
    名主組頭百姓より取候証文之事
   差上申一札之事
 一、今度御検地御案内仕候に壱歩たり共引落申間敷候落地御座候はば早々可申上候弥御帳出来明細引合少し所成共出入   候はば可申上候左なくして少の所成共隠し置申候はば何様之曲事にも可被被仰付候
一、今度の御縄に御引被下候道代之分少もせばめ申間敷候被仰付通り道急度作り置可申候乍然井堀添堤今度御引捨候分   何時御広ろげ候共違乱申間敷候若違乱仕候はば田畑御改曲事可被仰付候
 一、他郷と出入の地内を無沙汰に当郷へ打入させ申間敷事
 一、地代にて借申候屋敷収入有之処を隠しなく其仔細可申上壱歩の所なり共隠し置申間敷候
 一、御家内御法度を背き何成共悪事被致候はば早々可申上候若隠置き脇より知れ申候か又以後顕れ申候か後日申出候は   ば是亦如何様の曲事にも可被仰付候事
 右之通り一札差上申候比表書少も相違申間敷候若相背候はば如何様の曲事被仰付候共少も御恨みに存申間敷候仍而如件    年  月  日
何村
名主
組頭
惣名庄

 検地をする以上正確でなければならぬことは勿論である。年貢を納めない隠田、隠畑があることを堅く禁じた。前記名主、組頭の一札にもあるとおり一歩たりとも引落申しまじく、落地あったときは早々申し上ぐべしと記している。万一隠し田畑が後日に発見された場合は、如何様の曲事にも仰せつけられるようと証文を入れた。
 徳川幕府は隠田畑については、初め獄門家財田畑欠所の厳罪に処していたが、寛保二年から中追放に処した。津軽藩では享保八年、隠田した庄屋を引廻し磔という最極刑に処した。
 寛政律によると、隠田畑、隠津出、盗杣、博奕の宿隠商売の罪を犯したものには、罪相当の過料を課し、五人組中の四軒からも罪相当分を差出させた。大体津軽藩では不正の行為あったときは、五人組を単位にして罪したが、甚だしき時は一村もしくは一組、検地を行わず規定どおり年貢を徴収したといわれている。(板柳町郷土史)
 検見は前述のとおり重大なもので、先ず検地案内の名主、組頭、百姓の誓詞をとり、一方検見役人の心得として左の条目を示し公平を期した。
 一、御検見役人へ御渡条目之覚
 一、検見人心得
 一、畑作物検見之事
 一、大廻り御検見御条目之事
                              (参照 拙著「細越村郷土誌」)
 御検見役人への御条目にあるごとく、検見は百姓の身代が立つか立たざるかの大切なことであるから、升付石積は正確にすることを命じ、検見の方針としては歩刈を以て上、中、下、下々田の田位をきめる。最後の決定は大廻り検見人が決める。大廻り検見人は甲乙検見人の意見を聞き収穫の平均を出す役目で、検見として最も重要な人である。なお検見施行の細則とも称すべき「御検見御竿奉行覚書」がある。

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第八節  貢租

 検地によって田畑の広狭すなわち基準がきまれば、それに租率を乗ずれば租米が決定するのである。秀吉の時代には原則として給人と百姓が相対で決定し、損毛などあって決定が困難な時には刈分にして三分の二を給人、三分の一が百姓がとっていた。
 江戸時代に入って六公四民すなわち百石の収穫があると、六十石が領主、四十石が百姓という割合であった。しかし各藩によって特殊の事情があって、五公五民、四公六民という租率もあった。また豊凶、川欠、永荒などで著しく収穫に増減があるので、年々の実収で租率をきめる検見の方法と、過去何年間の収穫を平均し、毎年の検見の手数を省いてきめる定免法があった。
 検見法と定免法と一長一短があって容易に判断がつきかねるが、享保の頃幕府の代官辻六左エ門が定免法によると貢租がきまっているから、収穫が増せばそれだけ農民の作徳が増すことによって、農民の耕作に対する意欲が高まり、領主も検見の方法がなくなり、それに要する経費が節約でき、なお年々の収入が一定するので藩の予算を計上するのに都合がよいと意見書が提出され、幕府が定免法をとってから各藩ともこれに従った。
 しかし太平になれた武士階級は、生活が奢侈となってから決った貢租のほかに附加税を課するようになった。然らば津軽藩では如何なる貢納法によったかといえば、定免法で貞享四年に各村を検地して上村、中村、下村の三段階にして、各田地も上々田、上田、中田、下々田と五等に分けた。貞享四年の田畑貢納法によると、
 一、各村の位を区別し上村、中村、下村の三等とす。山川海陸運輸の便或は村立新古等によりて定む。
 一、各田地の位を区別し上々田、上田、中田、下々田の五等とす。其他斗代田、銀納田、稗田、四ヶ一米取田等併せて  九等とす。其土地の肥瘠と用水の便否と豊凶出石の平均を按察して石盛を定め、これを定積という也。
但物成より二ツ成止る。上村にも斗代田、銀納田あり、中村、下村にも上田、中田有之事
 一、各畑地の位も亦同じ、屋敷地、上畑、中畑、下畑、下々畑其他畑斗代畑、銀納畑、取下畑等九等なり。尤村位に関  係なし。
右を以て如何なる豊年も定積に越て徴収することなきも、歉作にて定めに不叶ときは検見の法を立て租額を減ずる也。  立毛の備わる検見といい、立毛の備わらざるを検地というなり。
但検見には野手米、山手米を納めしめ、検地には免除す。又雑地、川欠、山崩等にて租額を免ずるも又検地という。以上により津軽藩は山川海陸運輸の便否によって、また古村であるか新村であるかを考慮し各村位を決定し、土地の肥瘠と用水の便否と豊凶出石の平均を勘案して田位をきめたのである。貞享の田位決定は明治の世まで変更されることがなかった。左に村位並びに田位の定を示すと
     上村の田位
 上々田 一歩籾 九合三勺三才 比分米一反歩に付 一石四斗
 上田  同   八合六勺六才 同        一石三斗
 中田  同   七合三勺三才 同        一石一斗
 下田  同   六合     同        九斗
 下々田 同   四合六勺六才 同        七斗
     中村の田位
 上々田 一歩籾 八合六勺六才 比分米一反歩ニ付 一石三斗
 上田  同   八合     同        一石二斗
 中田  同   六合六勺六才 同        一石  
 下田  同   五合三勺三才 同        八斗
 下々田 同   四合     同        六斗
下田の田位
 上田 一歩籾 七合三勺三才 比分米一反歩ニ付 一石一斗
 中田  同   六合     同        九斗
 下田  同   四合六勺六才 同        七斗
 下々田 同   三合三勺三才 同        五斗
畑位
 屋敷地 一反歩ニ付 分米八斗 宅地居下共
 上畑  同       六斗
 中畑  同       五斗
 下畑  同       三斗
 下々畑 同       一斗
以上の外に附加税とも云うべき五口小役米がある。貞享以前は麻、胡麻、真綿等を納めたのを田畑上納改正の際、これを廃止し、左の如く定めた。
 一、野手米 高十石ニ付四升
   百姓山野より草刈るときの課税。
 一、山手米 高十石に付五升
右同断山林より柴薪を伐採に課税。
 一、夫米 高十石に付五升
   百姓より仲間小人差出来候処右相止め、さらに仲間小人抱置きたる故に課税す。
 一、津出米 成米十石ニ付一斗六升
   青森、鯵ヶ沢両浜へ収納米駄送する賃銭に課するもの
 一、口米 成米十石に付三斗
   減石補充として課す。
 一、高掛銀 高十石に付七文目
   堤防橋梁等営繕に用ゆる人夫代として課す。
      劣等田畑
 一、斗代田畑の事 但畑田は一反歩に付四斗より一斗まで
           畑は 同 二斗より五升まで
   斗代田畑は下々の位にも至らざる悪地故、其地味に寄て斗代米何程と定める。
 一、銀納田畑の事 但 畑田は一反歩に付一文より二匁五分まで
            畑は   同  五分より二匁五分まで
   銀納田畑は菲薄又は用水欠乏にて、茅仕立、木仕立等多分にある。
 一、見取田畑の事 田は一反歩に付八升より一斗まで
          畑は  同  五升より八斗まで
 一、稗田 四ヶ一の事
   是は悪地にて稲植付兼、又は用水欠乏等のことで一時稗蒔付候節は、本物成之四ヶ一貢納めしめた。但上村、中村の稗田は中村の下々田に相当す。十に八、九は下村下々田の位地で、一反歩の定積一石五合摺を懸けて五斗、六つ成を懸けて 三斗で、比四ヶ一を収むるという。
以上の年貢米及び小役米の外に左の賦課金を納めなければならない。
 一、卯時 其年に依り増減あるが、一ヶ年三十八〆目位を一般より徴収す。
   幕府へ献上馬及び藩主御立駒飼料代として課する。
 一、大々料 一ヶ年七〆目内外にして、内六分は藩より、四分は百姓へ課す。
   五穀豊穣を伊勢神宮へ祈願の大々神楽料として課す。

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