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村史

第九節 年貢米の納入

 年貢米の納入は百姓にとって最も重要なことであった。先ず一村の納入すべき額が示される。年貢は村全体の責任であって、定められた期日に必ず納めなければならない。津軽藩では御収納米、高懸銀、貸下夫喰米は十一月二十九日限り、諸上納は十二月十日限りと定められている。

 もし期限内に納めなければ、御収納高を十分に割り、一分滞ったときは戸〆二十日、一分毎に一等ずつ増した。収納米については百姓ばかりでなく村役人も責任を負わされた。年貢米は最も精選したものでなければならない。従って自作の精米を上納すべきで、給米や小作米又は貸付米を以て年貢米とすることは禁ぜられていた。
 年貢米をこのように精選されたのは、廻米の上、大阪で売却し換金していたので、品質が粗悪であれば直ちに売価に影響するからである。
 特に藩主の御膳米は一粒よりに吟味したもので、一升の米は早朝から日暮れまで五、六人がかりで選別した。津軽藩の収納米調整については早稲の小粒で籾や稗は勿論のこと赤玉、青米、砕米を除いた精選したものを上納すべきことを命ぜられた。 年貢の上納を促進する意味をもって、秋の収穫時から年貢皆済まで農民の行動に制限を加え年貢米を完納させようとした。即ち米の異動が禁止され、他村に出すことは勿論個人間の貸借返済も許されない状態であった。
 一方農民は米俵拵えに懸命に努力した。特に御倉米包装には規定があって、もし不十分であれば返された。津軽藩では二重俵で身俵の編方が藁九本ずつにて編み、縄の太さ廻りが六分のものをしようせしめた。上俵は長さ五尺三寸、編方は藁六本ずつの規定である。網の掛け様は上俵十七おくりにて三廻り半、目数は十五位に掛けることになっている。身俵の縦、横、口縄も太さ一寸五分のものを使用し、四等から十六尋の縄を用いた。納米の責任を明らかにするため、元禄十一年十月に一俵毎に差札一枚ずつ入れ、この差札へ米主何組何村誰と認め、御倉奉行並升取の名と何斗入と書くことを命ぜられた。御倉米包装御定は左の如くである。
 一重一俵 四斗入 被貫目十五〆五百目
 縦縄   四尋  太サ廻り 一寸五分 一尋ハ五尺三寸ノ定メ
 横縄  十一尋  太サ廻り 一寸九分 同
 口縄  十六尋  太サ廻り 八分   同
 身俵  長四尺五寸 網間六寸ヅツ 両ヒゲ六寸ヅツ
 上俵  長五尺三寸 網ヒゲ身俵同様編方藁六本ヅツ
 網ノ掛ケ様 上俵十七スクリニテ三廻り半、目数は十五位に掛ケル事
 御倉立合 御倉奉行ニテ米拵俵精々吟味之上、不宜分ハ相返シ仕直可申付事

 年貢米の包装が完備すると御倉へ納めるのである。後潟組の御倉は蟹田町にあった。蟹田御倉へ左の後潟組の村々が納入した。
  蟹田御倉 掛合二人 頭一人 巻ノ者二人以下皆同ジ
一、浜松村   一、大橋村   一、後方村   一、四戸橋村  一、中沢村   一、長科村
一、蓬田村   一、郷沢村   一、阿弥陀川村 一、板木沢村  一、瀬辺地村  一、蟹田村
 一、中師村   一、今沢村   一、野田村   一、根岸村   一、平館村   一、石崎村
 一、川崎村   一、小国村   一、南沢村   一、山本村   一、広瀬村   一、石浜村
   都合二十七ヵ村
 御倉へ運ばれると倉立会、庄屋、組頭の立合の下に升取量るのである。普通運ばれた俵数のうち二、三俵を抜取り量るのであるが、もし升目が不足であれば全体に追加しなければならぬので、升取の責任は重大で、非常な細心と熟練を要した。
 少しの地ひびきがあっても桝目に影響するので、その場に近づくことを許さなかった。しかして升取の手加減で納入米の増減があった。この間種々な不正が行われた。
 升は新大升を使用させた。但し諸扶持人に遣わすときは京升を用いた。 (青森県史第一巻)

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第十節  後方組と銀納

 後方組は夏季季節的に東北風の冷風が吹き、その影響で稲作はよくなかった。藩はこの冷風を防ぐため宝永五年に外ヶ浜並に西浜海辺に杉松の苗木植付けしめ防風林とした。いまもって中沢村以北の海岸に松林が亭々としてそびえ繁茂している。
 後方組の田位は中村の後潟、内真部、蓬田、阿弥陀川、今別、大川原の各村を除いては下村であるところからみても、稲作がよくないことがわかる。
 明和三年に広瀬、郷沢の村民は御検見を申出で凶作を理由に苗代物成、屋敷物成、高懸銀、野手山手米拾石三斗と夫喰拝借とも上納御免を願い出ている。
 元来中沢村、長科村は古田であるが、東北風の影響が甚だしく、安政七年の被害が大きく藩に銀納を願い出でたところ、御検地役人斎藤嘉右エ門、同立合鈴木忠吉外三名が派遣され御検見の結果銀納願が許可された。
 津軽藩の貢納法で前述のとおり銀納は劣等田畑に課せられる税率である。田は一反につき一文目から二匁五分まで、畑は五分から二文目までで、地味が薄く用水が欠乏して多くは茅や木を植えているような田畑に課せられた。
 中沢村、長科村が安永七年に銀納を願い出でたのは畑に対する年貢であった。中沢村は池田の古畑と浪返しの新開畑で古畑は壱町壱反五畝七歩(壱反歩に付き五分)、浪返の新開畑は壱町弐反弐畝拾歩(壱反歩につき三分)である。長科村は鶴蝮、川瀬の畑地で、古畑は壱町四畝拾壱歩(一反歩につき五分)、新開畑は五反歩(壱反歩についき三分)であった。何れも下々畑の地で粗悪地である。
 慶応二年に広瀬村の五人組と庄屋から、田畑銀納願書が藩に提出された。その願書の主意元来小国六ヵ村の稗田同様の悪地で、夏分の東北風と十三潟の吹卸で難渋し、銀納方を(田方壱反歩について拾八匁、畑方五匁)去る申年から四ヶ年お願いしている。然るに昨丑年年期あけになったが、依然として東北風と十三潟吹卸になやんでいる。若し永久銀納方を許可ないときは僅かの田畑を打捨て壮者の者共残らず松前へ渡海しなければならない窮状にあるから、前年同様銀納にしてもらいたい。なお税率は物価騰貴の際であるから倍増の田方は一反歩につき六十匁、畑方十五匁の銀納で許可している。いかに物価が騰貴したとはいえども、従来の税率の三倍半である。三倍半の税率でも田畑の収入以外に漁業の方の利潤があったから藩の申出服した。
 天明の飢饉に次いで被害の大きい天保の凶作には、本村で餓死を出したほどで、食うに食い物がないため妻子を引きつれ秋田方面に逃散した百姓もあった。その凶作も過ぎた天保十五年に中沢村、長科村の百姓は本免廃田方を申出で御検地役人の派遣を願っている。
 一体田畑の検地をうけ水帳に記載された百姓は、帳付け百姓或は本百姓として年貢を納める義務が負わされるのである。ところが天保の大凶作で耕すに人がなく廃田に等しい田地が多かった。年貢の義務は本人ばかりでなく、五人組から村全体の責任であったので、人手が少なくなったので上田、中田、下田の如何を問わず廃田にして村の責任を免れんとしたのである。
 中沢村の本免廃田は七町四反六畝拾壱歩で、長科村は四反三畝六歩である。中沢村の内訳は上田壱町四反七畝六歩、中田壱町弐反四畝九歩、下田三町壱反九畝四歩、下々田壱町五反五畝弐拾四歩である。本村の大字郷沢では全村をあげ他散し、板木沢村の村民がそのあとへ移転したほどでいかに凶作の被害が大きかったか知れる。
 この外に同年両村から別免田方、畑方仕付兼御検地願案内帳がある。本免と別免との相違点は不明であるが、何れも廃田の申請である。田方は弐町五反五畝壱歩、畑方八反五畝弐拾壱歩があり相当広範囲である。

 安永七戊戌年八月
  中沢村 畑方銀納仕上ヶ留帳
  長科村
                           庄屋  佐五右エ門
御検地人  斎藤嘉右エ門様
御立合  鈴木忠吉様
御竿取   御持鑓清蔵様
同右    藤代村山次郎様
案内御手代 沢田惣左エ門様

    中沢村
  池田古畑
一、下々畑 壱反三畝三歩      佐五右エ門
    比銀 六分五厘
  浪返し新開
 一、下々畑 八畝歩         同人
    此銀 弐分四厘
  池田古畑
 一、下々畑 九畝拾歩        □左エ門

    比銀 四分六厘七毛
  池田古畑
 一、下々畑 四反六畝歩       久左エ門
    比銀 弐匁三分
  池田開足
 一、下々畑 弐畝歩         源太左エ門
    比銀 六厘
  池田古畑
 一、下々畑 弐拾四歩        甚左エ門
    比銀 四厘
  池田開足
 一、下々畑 六畝歩         同人
    比銀 壱分八厘
  池田古畑
 一、下々畑 壱反壱畝弐拾弐歩    清三郎
    比銀 五分八厘七毛
  同所開足
 一、下々畑 三畝歩         同人
    比銀 九厘
  池田新開
 一、下々畑 九畝歩         長兵衛
    比銀 弐分七厘
  



  〆
 右者中沢村、長科村畑方銀納仕上ヶ表前前年之通ニ御座候
                         以上
   安永七戊戌年八月
                   庄屋 佐五エ門


 慶応二丙寅年七月
   田畑銀納願書
                庄屋 太左エ門
    口上之覚

 乍恐以書付奉願上候私支配広瀬、瀬辺地、板木沢三ヶ村ノ儀者御存知被置候通田畑地元不宜候所より本納銀納斗代四ヶ一古来より段取上納被仰付罷有候得共元来小国六ヶ村稗田同様之地面故如何様豊熟之年柄ニ而茂悪作而已刈取誠ニ東風真受之場処ニ付夏分ニ而茂東風続之節者一円汐霧吹懸り草木茂枯阿らし候西者十三潟より吹卸季候二十日余り時節浮レニ相成無比類難渋之村所ニ付年々御検地御検見之御取扱ニ相成乍恐御上様之御損失者勿論村方難渋申斗り無御座候
 右ニ準種籾夫喰諸上納米銭ニ至迄御役所表御取扱付相止殊ニ飯料買喰之者勝ニ而極難之村所ニ付永々居銀納ニ被仰付度旨去ル十八ヶ年以前申年委細書付ヲ以奉願上候処田方壱反歩ニ付拾八匁畑方壱反歩ニ付五匁一昨年迄四ヶ度ニ拾七ヶ年之間銀納下ヶ被仰付右年限中何れ共粉骨致廃田畑茂開増成立ニ相成候様被仰付難有仕合奉存候
 随而地面ニ応じ則年より稗并早稲赤むろの稲斗り仕付銀納助情ヲ付少廃田畑茂不残皆開ニ相成其上別段村備籾被仰付広瀬瀬辺地村ニ而籾五拾俵相貯一村家内養育仕御国恩之程冥加至極難有仕合奉存候
 然ニ昨丑年年季明ニ御座候得共元来小国村同様悪地ノ場所ニ付去夏中度々の東風吹続候処草木迄茂枯阿らし田方殊ノ外時節浮レニ相成分は中に至漸々出穂ニ相成候所折々大雨洪水ニ蓬田方中迄茂無御座畑作迄皆無同様ニ付迚茂家内養育相成兼候所より村方一同打寄当所の儀者兎角永々の銀納無御座候得者渡世難相成村処ニ付永久銀納ニ御願奉申上若御聞届ケ無御座候得共乍恐僅ノ田畑打捨盛壮の者共不残松前働ニ罷出諸郷役上納可仕候外無御座候
 乍去近年米価も高値殊ニ色々御物入重ノ御場合ニ付米価下直ニ相成候迄田方ノ儀物□いたし倍増上納ニ而不苦候間銀納地ニ被仰付置旨去八月委細書不ヲ以奉願上候処去丑年一ヶ年限田畑共倍増上納被仰付難有仕合奉存候
 然処昨年ノ儀者前書之通田畑共皆無作同様ニ付買喰の者共銀納銭并諸上納銭共漸々之方便に而奉上納候処重立分ノ者共夏中より飯料持合之者無御座候
 尤近来銘々雑穀ノ貯少々茂御座候ニ付去夏より小国村同様稗斗り相給其上諸品万端弥増高直ニ相成日用凌合難渋可奉申上様無御座日夜相嘆候迄に御座候
 然ニ当秋より本納ニ相成候而ハ是非御収納ニ可相成稲草仕付不申候得者難相成候左候而ハ立所ニ銀納以前ノ姿ニ相成始終御扱向相止ミ不申殊ニ已前ト違ひ年増諸御用扱向繁多ニ相成候儀ニ付諸上納銭并諸公事諸郷役辺茂是迄ノ通難行届候眼前ニ奉存候
 依之場合柄も不願恐至極ノ願様ニ奉存候得共段々前書奉申上候通何分ニ茂正米上納難相成小国同様悪化ノ村所ニ付追々諸品高値ノ場合日用凌合難相成村方難有之候何卒格段以御憐愍米価下直迄田方ノ儀者昨年被仰付候通田方一反歩ニ付三十六匁、畑方一反歩ニ付拾匁ニ永々居銀納ニ被仰付置度旨百姓共一統より願出ニ御座候、左候得バ右御憐愍ノ程永ク忘却不仕諸事被仰付候通御用向太切ニ相守成□上何儀御扱ニ不相成農業相励御用支ニ相成不申候様仕度奉存候間格外ノ御慈悲ヲ以村方願之通永々銀納ニ被仰付置度奉願上候乍恐右之趣宜御沙汰奉願候
                                                     以上
  慶応二丙寅年七月
                              広瀬村
五人組 甚五郎
五人組 三郎兵衛
五人組 専助
庄屋  太左エ門
   外要吉 様
   長良八 様

   御済口
 広瀬、瀬辺地、板木沢三ヶ村田畑悪地ニ而難渋ノ所より是迄数年来田畑共銀納下ヶ被仰付候所昨年季限ニ付田方壱反歩ニ付三拾六匁畑方一反歩ニ付拾五匁づつ銀納上納被仰付候所右村々ノ儀ハ小国六ヶ村稗田同様ノ地面ニ而無比類難村ニ而当秋より本納被仰付候而ハ村潰ニ及候外無之ニ付昨年ノ通永々銀納被仰付度旨委細申出際限も無之難被仰付部ニ候得共難渋ノ旨□□□候間格段以沙汰候当寅年より来ル午年迄五ヶ年ノ間田方壱反歩ニ付六十匁畑方一反歩ニ付拾五匁づゝ銀納上納被仰付候尤田畑共一際手入し已後決而御扱向付申候様被仰付候
 右之通被仰付候間一統難有差含田畑共手入致候様比旨申入候
                                                     以上

   八月六日            御代官処

 天保十五甲辰年七月
  後潟組中沢両村本免田方仕付兼案内帳
長科 御検地
                              代庄屋  房五郎

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第十一節  蓬田村の御献上煎海鼠仕立方

 弘前藩の朝廷、近衛家、幕府への重なる献上品は太刀、白銀、蝋燭、馬、串鮑、昆布、干鯛、熊皮、鷹、塩引鮭、塩鱈、煎海鼠等である。
 右のうち串鮑、昆布、塩引鮭、塩鱈、煎海鼠などの海産物は三厩、今別、平館、蓬田の各村で生産されるものである。特に煎海鼠は蓬田海岸で漁獲されるナマコで製する煎海鼠は最も優秀で毎年のように藩の命令によって製造していた。
 一体ナマコは湾内のいたる所で漁獲される。藩政時代既に支那向け輸出品として干鮑、昆布、貝柱、イリコが輸出されていた。これらの海産物を俵物といっていた。陸奥湾内における集荷問屋は青森俵物問屋といって青森の竹野与次兵衛が命ぜられ、湾内各地に支配問屋を設け集荷せしめていた。上磯方面の支配問屋をあげると
 古川、沖館、新井田 三ヶ浦下請
                                 沖館住居
          浅利屋万太郎
 油川、十三森、二ヶ浦下請
         油川住居
          蛯屋長四郎
 田沢、夏井田、飛鳥、瀬戸子、奥内、前田、清水、左堰、小橋、六枚橋、内真部、後形、四戸橋、中沢、長科、阿弥陀川、 蓬田、郷沢、瀬辺地、広瀬 二十ヶ浦下請
後形住居
能登屋七之助
長谷川屋八三郎
 蟹田 一ヶ浦下請
                                 蟹田住居
神屋只八

木戸屋久右衛門
 中師、二ツ屋、石浜、深泊、杉 五ヶ浦下請 
中師住居
大津屋源兵衛
 今津、野田、根岸、平館、石崎、(こ)路々々川、宇田、伝蔵宇田、綱不知、奥平部、砂ヶ森、袰月 十二ヶ浦下請
根岸住居
越後屋権太郎
 大泊、山崎、一本木、今別、浜名 五ヶ浦下請
今別住居
中島与兵衛
 増川、松ヶ崎、藤島、釜ノ沢、本宇鉄、三馬屋、宇鉄 八ヶ浦下請
三馬屋住居
安保幸右衛門

板屋嘉兵衛
(青森市史第四巻)
 藩政時代右にあげた下請支配問屋の手によって上磯地方の干鮑、昆布、イリコ、貝柱等が集荷、長崎港を経て支那へ輸出されていた。
 しかし前述の、幕府等への献上品の特精選品であるイリコは、蓬田村の沖合で漁獲されるナマコを以て製造される。その製造は御献上煎海鼠仕立方があたっていた。
 煎海鼠の幕府への献上が初めて行なわれたのは宝暦七年である。(参照 青森県租税誌下巻)最初の煎海鼠仕立方は森家の祖先(仁左エ門)であった。庄屋で名字帯刀を許されていたという。いつの頃か年代不明であるが津嶋九郎兵衛家に譲ったのであるという。坂本種一氏の調査によると
  外ヶ浜の漁船は勿論平内方面からも蓬田の浜に宿泊して、船一艘何貫という責任貫数を漁獲してイリコ役へ納付して帰る という義務があったから、年間相当量のイリコが製造され、これを藩へ納め、さらに徳川幕府へ献上されたのである。
  何故蓬田産の海鼠でなければならぬかというに、蓬田の海鼠は品質堅く、容易に柔らかくならぬため昔は浪岡ナマコと称 して、丁度翌日浪岡の市に出るころに真の味が出るというので、かくいわれている。平内地方のナマコと品質は全く異なっ ている。随って他のナマコはさがり易くして味はない。蓬田産は長もちすることができて、却って二、三日後には味がつく といわれたものである。
 蓬田村のイリコ製造用のナマコは沖海鼠といわれ、普通のナマコと異なり、沖合いに棲息するもので質いたって堅く生で 食することができない。
  イリコ製造するに蓬を煮た水で、ナマコを煮れば色よくつき、三、四回煮返すると漆のように黒光りして高価なものになると伝えられている。最良品は郷沢産で南後潟、北蟹田の南端にいたれば品質が劣りものにならぬという。
 イリコの代用品フジコ(キンコ海鼠)に三種あって、白、黄、紫である。中良種は紫である。フジコはイリコの価の三分の一である。イリコの効能は第一に視力を強くする。支那人曰くイリコを食すれば不老という。即ち不老薬といわれている。

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第十二節  砂鉄

 津軽藩が弘前城を築城するとき多量の鉄を必要としたが領内になく、南部、下北の砂鉄を密移入し小国で製鉄、使用したということである。然からは津軽藩に全く鉄原料がなかったかというとさにあらずで、北津軽郡の今泉の国有林(母沢開拓付近)に鉄資源があり、安政六年に鉄工明珍重吉が長崎で西洋式製鉄法を研究、弘前の商人今村万次郎が投資して今泉で製鉄業を営み好成績をあげたので、万延二年一月二十八日用人楠美庄司を奉行として藩営に移り明治にいたったということである。(中里町誌)
 津軽領内における鉄原料の砂鉄は、屏風山の西海岸、七里長浜の砂鉄と蟹田付近にあった。燃料は津軽半島の特産ヒバ材であったから、小国でも高根でも今泉でも精錬された。蟹田、小倉、高根、今泉、広瀬各村に銅や沢の名称があるが、これらは藩政時代砂鉄を精錬した跡である。
 明治二十九年蟹田及び蓬田の六字と小橋の二字の製鉄に注目採掘しようとした人がある。秋田鉱山監督署長に願い出た小島謙三と矢口庄兵衛の二氏である。蟹田と蓬田の海岸地帯八字の許可申請と、発掘に伴う海岸線破壊による工事予防設計書が郷沢村に提出されているところから考えると、これら八字の砂鉄の埋蔵量は相当あったものであろうと思われるが、果して着工したか不明である。
 別紙写之通り大字郷沢海岸ニ於テ砂鉄採取ノ儀ニ付工事予防設計書差出候趣ヲ以テ障害ノ有無取調工申方其筋達相成候条右 設計書一見ノ上工障害有之節ハ事由以申出相成度尤モ調査方大至急ヲ要スル儀ニ付可否届有之度比段御移牒候也
   明治二十九年八月五日
蓬田村役場
   大字郷沢
    高田勘五郎 殿

    工事予防設計書
 明治二十九年五月二十日秋往第一四五七号ヲ以て青森県東津軽郡後潟村大字小橋ノ内外二字蓬田村中沢ノ内外六大字蟹田村蟹田官地海岸地ニ於て砂鉄採取出願地ハ宅地畑等ニ接続シ充分なる予防設計せざる時ハ宅地畑等を崩壊シ又は海水侵入ノ虞有之場所たるに付右等の障害ニ対する予防設計書可指出願旨御達ニ付左ニ
一、宅地畑等にして砂鉄採取場と接近之場所は之を採取するに先だち境界区域を分劃し砂鉄採取場の地平と宅地畑地平線の高 ニ浪除を設けて以て海水の侵入又ハ宅地畑の崩壊を予防可致候
一、浪除築造ノ方法ハ宅地畑境界区域に二尺毎ニ又ハ三尺毎ニ長杭を地下一尺以上打込地平線の高さ迄に柴木等の類を以て柵 を造り又ハ波浪烈キ場所の砂鉄を採取する時は特に右浪除柵辺より海岸に向け二尺の距離を置き水柵を設け礫砂利を填充シ 二重柵を設くる様可致候
 右予防設計仕候也
    明治二十九年七月九日
                                                  小島謙三
矢口庄兵衛
    秋田鉱山監督署長
     小花冬吉 殿


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第十三節  郷蔵と金穀蓄積収支規則

 明治九年、本県区戸長会の決議により、従来の郷蔵は義倉の性質をもっているから、これを改めて社倉となし、人口一人につき籾一升、地租金壱円に付き籾二升ずつ蓄積して、その所有権を明かにして、手返貸付を行った。
 わが津軽藩は天明の大凶作で多数の餓死者を出した。これが救済策に寛政二年、津軽信明は備荒儲蓄制度を確立した。即ち各組に郷蔵をつくらせ、農民から高一〇石につき米三斗分にあたる籾五斗ずつを貯えらせた。これらの備米は義倉として性格上飢饉以外には流用を認めなかった。寒冷不順なわが地方は凶作、冷害におそわれることが多かったが、郷蔵あるが故に幾多の窮民が救われた。
 これも藩当局の郷蔵に対する保護監督が厳重であったからである。然るに廃藩置県以来、官の保護、監督なきため、旧来の美法が廃たい殆ど見るべきものがなかった。
 そこで明治九年、本県戸長会の決議をもって、改めて社倉となし人口一人に付き籾一升、地租金一円に付き籾二升ずつ蓄積、所有権を明かにし、且つ手返貸付を行い、県庁の監督を受けた。
 然るに、明治十一年、郡区編成法が施行され、各町村が自治体として法的に活動することになったので、県庁がこれらについて干渉を解き、専ら各町村の自治放任にまかせた。
 抑儲穀は古来より官庁の保護、監督あるため、整然と義倉としての備荒貯蓄の目的が達せられたのである。これが急に町村の自治に委ね監督がゆるくなると、人々は儲蓄を厭い、凶荒の惨毒を忘れがちとなり、自然に衰替状態になったので、心ある人はこれを憂い、町村会の決議を経て郡長若くは戸長に依託して、従来の慣例により継続維持せられんことを陳情した結果、明治十七年町村会法の改正により儲蓄法は再び県会の認可を得て町村会の権内に属し、強化され凶荒災害の救済にあたった。
 この金穀蓄積収支規則により郷蔵は、明治十九年三月二十五日郷沢村、阿弥陀川、蓬田村は村会の評決により設立、県会の許可を得て発足した。この金穀蓄積収支規則による郷蔵は、何ヶ年位継続したか判明しない。

                  阿弥陀川村外一ヶ村
 客蔵十二月臨時村会ニ於テ評決シタル金穀儲蓄収支別冊之通県令ノ認可相成候ニ付 本年ヨリ継続施行候条比段申達候事
  但規則第十一条但書ハ削除相成候事
   明治十九年三月二十四日
         後潟村外十四ヶ村戸長笹森勇太郎代理
                       筆生  寺田松四郎 (印)
   金穀蓄積収支規則議案
 第一条 凶荒予備ノ為メ阿弥陀川蓬田村共同シテ毎年左ノ賦課法ニ依リ金穀ヲ徴収蓄積スルモノトス
  一 該年度地租金壱円ニ付金七銭八厘
  一 同地方税営業雑種税金(日税月税未定税ヲ除ク)壱円ニ付金五銭
  一 同村費個別割ニ用フル建物拾個ニ付金弐銭弐厘
 第二条 蓄積金ハ納入ノ都合ニ依リ籾又ハ雑穀ヲ以テ代納スルヲ得
   但其場合ニ於テハ割賦金壱円ニ付籾弐斗五升六合(雑穀増倍)ノ積ヲ以テ代納セシムヘシ
 第三条 地租割及営業割個別割ノ免除等ハ総テ村費ノ例ニ依ル
 第四条 従来蓄積セル金穀ハ今般施行スル所ノ蓄積穀ニ併合スルモノトス
   但旧穀貸付ノ分ハ本年ヨリ三ヶ年賦返納セシメ更ニ十八条但書ノ例ニ依ルモノトス
 第五条 蓄積ノ穀物ハ総テ郷倉ニ儲蔵シ現金ハ戸長ニ於テ之ヲ管守シ第九条ノ費用ニ充テ其他ハ悉ク籾殻ヲ買入ルゝモノト  ス
 但籾買入方ハ必ス入札法ニ依リ良品ニシテ且代価ノ下直ナル者ニ落札セシムヘシ
 第六条 蓄積石高阿弥陀川蓬田郷沢村全村人口ニ対シ壱口ニ付籾三斗(雑穀ハ之ニ倍ス)以上ニ至ルハ漸次其超過分ヲ売  却シテ以テ公債証書ヲ買入スルゝモノトス
   但儲穀売却及公債証書買入ノ予算并手続ハ特ニ村会ノ評決ニ付シ県令ノ認可ヲ受クヘシ
 第七条 罹災ノ為メ全村秋収ノ額常年ノ五分ヨリ下ル件ハ村会ノ評決ニ附シテ県令ノ認可ヲ受ケ其年ノ蓄積ヲ猶予スヘシ
 第八条 非常ノ凶荒ニ際会シ蓄積金穀ヨリ貸与又ハ給与セントスルハ其方法ヲ設ケ村会ノ評決ニ付シ県令ノ認可ヲ得テ之  ヲ施行スルモノトス
第九条 戸長ハ蓄積諸費トシテ左ノ範囲内ノ金穀ヲ毎年蓄積金ヨリ支弁スルヲ得若シ蓄積金ナキ件ハ入札法ニヨリ儲穀ヲ売  却シテ其費用ニ充ヘシ
  一金 三円  蓄積取扱人給料
    但年給金三円 一人分
  一金 壱円弐拾銭 郷倉監守人給料
    但年給金壱円弐拾銭 一人分
  一金 弐拾円 郷倉小破修繕費
  一金 五拾銭 出入穀諸費
  一金 六拾銭 郷倉地租地租割村費
 第十条 第九条ノ外臨時費用ヲ要スル件ハ村会ノ評決ニ附シ郡長ノ認可ヲ得テ施行スルモノトス
第十一条 戸長ハ毎年五月ニ於テ蓄積金穀ニ係ル前年度ノ収支(斗立減石共)精算帳ヲ製シ郡長ノ調査ヲ経テ遍ク議員ニ報  告スヘシ但報告書ニ対シ意見アルモノハ郡長若クハ県令ニ具状スル事ヲ得
 第十二条 戸長ハ村会議員ノ投票ヲ以テ蓄積取扱人一名ヲ撰定シ儲穀乱俵(井楼詰ヲ除ク)ヲ計リ立テ減石ニ係ルモノハ其  時々郡長ヘ報告スヘシ
   但計リ立ノ時郡吏ノ臨監ヲ請フモノトス
 第十四条 儲穀ハ総テ四斗ヲ壱俵トシ其穀ハ三日以上干立ノモノニシテ壱俵ノ量目籾ハ拾壱貫目粟ハ九貫目稗ハ八貫目蕎麦  ハ八貫目麦ハ拾弐貫五百目と定ム
 第十五条 儲穀ハ俵毎ニ(一戸ニテ一俵以上ヲ納ムル者ニ限ル)柾札弐枚ヲ製シ納入姓名并収入ノ年月日ヲ記載シ一ハ俵内  ニ刺入レ一ハ俵外ニ刺置クモノトス
第十六条 儲穀ハ手返ノ為メ其年ノ都合ニ依リ現在穀三分ノ一以内ヲ貸付スル事アルヘシ
   但比場合ニ於テハ戸長ハ郡長ノ認可ヲ得テ之ヲ施行スルモノトス
 第十七条 手返貸付ハ其年ノ熟作ヲ確認スルニアラサレバ施行スルヲ得ス
 第十八条 手返貸付ハ其半額ヲ該年地租金ニ半額ヲ現在人口ニ配賦スルモノトス
   但貸付ヲ請フトキハ重立タル者二名以上ヲ総代ト為シ借用証書(各自調印ノ分借調ヲ添ヘ)ヲ差出スヘシ
 第十九条 手返貸付ハ穀四斗ニ付穀四升則チ壱割ノ利石ヲ付シ翌年一月三十日限リ悉皆返納セシムルモノトス
 第二十条 手返貸付穀ヲ不納スル者ハ其負債ノ義務ヲ終ヘサル間ハ再ヒ貸付セサルモノトス
   但第廿一条ニ当ル者ハ比限リニアラス
 第二十一条 手返貸附ノ負債者若シ災害ノ為メ赤貧ニ陥リ又ハ逃亡等ニテ実際弁償スル事能ハサル者ハ戸長ハ郡長ノ認可ヲ  得テ其返納ヲ猶予スル事アルヘシ
   但止ムヲ得サル事故アリ到底弁償セシムル事能ハザル者ハ村会ノ評決ヲ経テ毀損スル事アルベシ
第二拾二条 儲穀積入并手返返納ノ節ハ戸長取扱人立会ノ上俵毎ニ其斤量ヲ検シ且納入毎ニ穀性(一戸ニシテ一俵以上ヲ納  ムル者ハ其内一俵ヲ開キ検査スヘシ)及升目ヲ改メ若シ其穀性宜シカラサルカ或ハ斤量升目等ニ不足ヲ生スル件ハ引替又ハ補足セシムヘシ
第二拾三条 郷倉ヲ開閉セントスル件ハ戸長ヨリ事由ヲ具シテ予メ其時日ヲ郡長ニ届出戸長并取扱人立会ノ上之ヲ為シ閉鎖  ノ節ハ戸長取扱人連名封印スヘシ
 但比場合ニ於テ郡吏ノ臨管ヲ請フ事モアルヘシ
 第二十四条 比規則ハ毎年村会ノ決議ヲ要セス年々継続施行スルモノトス若シ実際改正又ハ増補ヲ要スル事アルハ村会ノ  評決ニ付シ県令ノ認可ヲ得テ施行スルモノトス

    金穀蓄積収支規則議案説明
 夫レ災害ノ最モ懼ルヘキハ凶歉ヨリ甚シキハ莫ク窘窮ノ最モ蹙レルモノハ凍餒ヨリ急ナルハ莫シ顧ルニ我津軽郡ノ地タルヤ気候沍寒米穀ノ外産出スルモノ少ナク且毎歳四ヶ月(十二月ヨリ三月ニ至ル)間ハ積雪中ニ蟄居シテ糧ヲ山野ニ採ルノ利ナキカ故彼ノ上国ノ気候緩和物産繁殖菜草四季田野ニ絶ヘサルノ地ニ比スレハ小荒微歉ト雖モ忽チ生活ノ道ヲ失ヒ凍餒ニ頻スルノ状急ニシテ且惨ナリ試ミニ之ヲ既往ニ徴スルニ昔時天明三卯年ノ凶荒ニ津軽地方ノ人民ハ流離餓死スル者拾万余人ニシテ農民三分の二ヲ減シ幸ニ翌辰年ノ豊稔ニ遭フト雖トモ其廃田ニ属スルモノ多ク当時収蔵拾万余石ヲ減セシト今尚古老ノ口牌ニ存セリハ明治巳年ノ如キ上国ハ平年ヨリ甚シキ差違ナカリシカ津軽地方ニ至リテハ殆ト凶荒ニ陥リ儲穀数拾万石ヲ賑貸シテ僅ニ其死亡ヲ免レタリト雖モ流離困厄今尚其踪跡ヲ得サルモノ多シ如斯実況アルヲ以テ当地方ハ古来厳シク毎町村ニ儲穀ノ設ケアリテ救荒賑恤ノ方法ヲ尽セリ蓋シ当時ノ儲蓄ハ所謂義倉ノ性質ニシテ総テ該町村ノ公共物タリ
 廃藩置県以来官ノ保護ナキヲ以テ廃頽旧来の美法令殆ト見ルヘカラサルニ至レリ次テ明治九年本県区戸長会ノ決議ヲ以テ改メテ社倉ト為シ人口壱員ニ付籾壱升地租金壱円ニ付同弐升ツゝヲ蓄積シテ其所有権ヲ明ニシ且手返貸附等之方法ヲ定メテ一切県庁ノ監督ヲ受ルモノトセリ
 明治十一年郡区編制ノ令アルニ当リ太政官号外御達(十一年七月廿一日)ニ依リ県庁之ヵ干渉ヲ解キ各町村ノ自治ニ任放セリ抑儲穀ハ古来ヨリ官庁ノ保護ニ依リテ維持セシヲ俄然慣行画一ノ方法ヲ改メ単ニ町村ノ自治ニ任スル事ハ人民ニ於テ儲蓄ノ方法ヲ厭ヒ凶荒ノ惨毒ヲ顧ミサルニアラサレトモ民情一ナラサルハ固ヨリ免ルゝ事能ハサル所ナルヲ以テ甲乙町村其勤惰ヲ異ニシ再ヒ衰替ニ属スルノ憂アルカ或ハ町(村)会ノ決議ヲ経テ之ヲ郡長若クハ戸長ニ依託シ従来ノ慣例ニ依リテ継続維持セシ所アリ然リ而シテ明治十七年五月町村会法ノ改正ニ依リ該儲蓄法ハ一旦町村会ノ範囲外ニ出ルト雖モ本年本県甲第二号達ニ依リ特ニ上請シテ県令ノ認可ヲ得タルヲ以テ再ヒ町村会ノ権内ニ属セリ故ニ今従来ノ慣例ヲ参酌シ其規則ヲ編制シテ茲ニ本会ノ評決ニ付ス猶県令ノ認可ヲ得テ永遠之ヲ維持シ以テ凶荒災害ノ臨時費途ニ充テ以テ本村人民不虞ノ患ヲ免レシメント欲スルナリ
 前書決議之通相違無之候也
                  東津軽郡蓬田村々会議員
小畑寿徳(印)
細谷才吉(印)
津嶋粂吉(印)
武井甚七(印)
小松浅右エ門(印)
細谷五郎兵衛(印)
中村巳之助(印)
同郡阿弥陀川村々会議員

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