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村史

第五章 各部落の地勢

第一節 地勢

 蓬田村は青森市を距る北方五里の海岸村にして、旧松前街道に沿い、南は大字中沢を以て青森市大字四戸橋と隣接し、北は大字広瀬と蟹田町大字蟹田と界し、西に津軽半島の中山山脈を負い、北津軽郡と界し、東は青森湾に臨み、遥に下北半島を望む。
 地勢西は丘陵相連り、東は海岸に至るに従い緩慢なる傾斜をなし、田畑その間にひらけ、南北凡そ一里三十二町余にして東西三里余に及んでいる。村内の内、中沢、長科部落は概して地味饒にして品質優良の米を産するも、阿弥陀川以北は地味宜しかざる上、冷水を潅漑するを以て、米質粗悪なりしも、近来一層改良を加えたる結果、善良なる米質を産するのみならず、贈収穫を得るにいたった。

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第二節 水利

 川の最も大なるものは蓬田川にして、往時関口川、底川とも称した。これに次ぐものは広瀬川、瀬辺地川、阿弥陀川(江利前川)である。
 蓬田川は源を赤倉岳から発し、東流して青森湾に注いでいる。その延長は五里十八町である。
 広瀬川は源を袴腰嶽に発し、高根を通り東流して青森湾に注ぐ。
 阿弥陀川(江利前川)は阿弥陀山に発し、東流して青森湾に注いでいる。石垣金光上人が承元四年、仏法を説き、仏道普及のため奥羽の地を踏まれた。たまたま、この地にいたり清澄なるこの川から阿弥陀の尊像を拾いあげたという有名な伝説がある。
 しかし、金光上人が阿弥陀如来像を拾いあげたのは今日の阿弥陀川(江利前川)でなく、部落の東端、長科部落との境界にある地蔵川から拾いあげたのであるといわれている。
 長科村の古老の言によると、昔は阿弥陀川という村がなく、上長科といっていたという。金葛川(中沢川)は大字中沢字池田、金葛山から発し、二カ所の溜池を設け、田の潅漑の用に供している。この潅漑反別四十七町三反三畝七歩にして、地主三十八戸である。(明治三十一年調査)
 井家戸川(長科川)は大字長科字鶴蝮井家戸山から発し、沢口に於て定盤分水(大字中沢及び長科)をなし、中沢へ貫流するものは溜池を設け、さらに又中沢と長科へ分流する定盤を設け九左エ門堰となる。大字中沢へ分流するものは大倉堰となり、さらに甚左エ門堰、治五兵衛堰となる。その水下反別左の如くである。

  御倉堰 二百五人役 オツラ百三十人役
  甚左エ門堰 百十人役 久四郎二十人役
  治五衛堰  百三十人役

 長科へ定盤から分流せるものは、さらに儀右エ門堰外数堰になり、その水下反別左の如し。また鶴蝮には大なる溜池二カ所設けられ、水下反別二百十八人役ある。

  九左エ門堰 百八十九人役
  次郎吉堰  百十五人役
  儀右エ門堰 同
  孫九郎堰  五十五人役
  孫次郎堰  四十五人役
  万平堰   五十五人役
  三郎右門堰 二十八人役

 撰前川は源を阿弥陀山から発し、東流して大字阿弥陀川字汐干田地に潅漑せらる。其水下反別小橋堰二百五十人役、小左エ門堰二百人役なり。関口川は東流して大字蓬田及郷沢阿弥陀川地域の田地に潅漑、皆本流から分水をなす。各堰の水下反別左の如くである。
  大堰
  忠兵衛堰 八百人役
  枯木堰  三百人役
  団島堰  百人役
  横堰   三百人役
  田中堰  蓬田 四百人役
アミダ川 二百人役
  前田堰  二百人役
  郷沢堰  四百七十人役
  
 瀬辺地川は東流して大字瀬辺地字山田、田浦の田地に潅漑す、貞享六年の調書によると溜池、堰根は左の如くである。

  一、堰池 幅十五間長三十間 堀替村にあり 但し御蔵新田の用水
  一、堰根 幅一間長六間   堀替村にあり 但し御蔵新田の用水
  一、堰根 幅一間長五百間  堀替村にあり 但し御蔵新田の用水
  一、堰根 幅一間長七間   堀替村にあり 但し御蔵一年作の堰根
  一、堰  幅一間長六百間  堀替村にあり 但し御蔵一年作用水

 広瀬川は字高根、坂元、流沢等の田地を潅漑す。貞享六年の調によれば幅十間、長千五百間(村から木立堰まで)にして、各堰は左の如くである。
  一、堰根 幅一間長十間   大瀬辺地村堰根 但村中の者共年々繕申候
  一、堰  幅一間長五百五十間 大瀬辺地村堰根 但比堰壱筋にて村中の者共用水
  一、幅二尺五寸長四間    田村堰に懸る 但御公儀様より御懸被成候

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