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村史

第七章 山林と潅漑

第一節 山林

 津軽藩政時代における林業は、津軽四代藩主信政公の遺命により官民一致、保護育成に努めるため、繁茂し、とくに津軽半島のヒバは日本三大美林の一つに数えられている。
 その後、天和、貞享の年代にいたって、田畑山林に関する諸規定も確立し、さらに、正徳年間には山方役所を創設して、山林について重点的政務を担当させ、造林事業を奨励、津軽藩林政の基礎を確固ならしめた。

 一、御本山
   一名御手山と称し、純然たる藩有林である。これを区分して上山通り、中山通り、外ヶ浜通り、西浜通り、御抱合山通りとした。山林の保護監守は地元住民に委任した。盗伐は村民の連帯責任とし、反面その代償として副産物及び薪炭材を自由に採取せしめた。
御本山は留山と明山の二種にわかれている。留山は山林の保護育成を期するため、地元住民の入山を禁止した。
 二、見継山
   藩山の伐採地跡地に植栽又は天然に生育した林に、山麓の住民に保護監守せしめ、その代償として、自家用材の有償払下、その他副産物の無料採取等を許可した。
 三、仕立
   見継山と異なる点は、山林伐採跡地に、自費植栽を請願せしめ、藩の許可を得て植栽す。その成績検査をうけて初めて仕立見継山証文を下付せらる。
 四、抱山
   天保二年に創設されたもので、その証文は藩庁から抱山主に下付され、売買譲渡は事由に行なわれ、伐採後は必ず代植を命ぜられた。
 五、館山
   建山、立山とも称せられ、その成立について二つの説がある。一つは仕立見継山と同じであるとするものである。他の一つは、軍備のため保護育成せられた禁材林である。
 六、田山
   水源涵養林で禁材林である。
 七、試植林
   荒蕪地又は空位に藩庁の許可を得て、村民が植栽した林で、試仕立山ともいわれた。
 八、漆仕立山
   藩山に人民が自費植栽したもので、成木後は、仕立見継山、抱山と同様に漆山証文が下付される。収穫した漆樹及び漆実は藩が収納し、二官八民の割合をもって代金が支払われた。

 保護及び監督については、前述の山奉行の項参照願いたい。なお本村内の抱山、田山、館山、見継山については、安政六年の抱山元帳、外ヶ浜通沢名元帳、享和二年の田山、館山、見継山元帳を左に掲載する。

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第二節 漆

漆汁は漆樹幹から採集し、その実から蝋を製する。特に漆汁は東洋固有の塗料として珍重され、わが国では古来から仏器や上流社会の調度品として用いられ、中世以降には武器類の塗料に用いられていた。
 由来東北地方の漆は良質であると珍重され、特に会津藩、山形藩などのは有名である。
 津軽藩で漆樹の栽培を奨励したのは信政公時代からである。津軽信政公事蹟によると、天和三年五月、信政は京都の五十嵐六郎右衛門の漆の植方についての進言を容れ、また同年六月には吉野漆の栽培のために吉野から善左衛門なるものを召抱えたとある。津軽藩漆樹奨励については、安永三年の郡奉行への論達にあるとおり、わが領は米穀一産で凶作に遭遇したときは多数の餓死者を出し悲惨事を惹起する。これを救うには冷害に強く、価格の高い漆樹を栽培すべきで、僅か一歩二歩の土地でもすておかないで桑、楮、漆、茶の類の木を植えるべきであるとの達であった。しかしてその仕立の希望者には苗木が下付された。
 文久四年の瀬辺地、広瀬両村の漆木根付木并寄苗共取調書上帳によると、広瀬村で三百二十六本植えたところ、内八十三本根付せず枯れている。瀬辺地村では一万本の苗木の内七千四十九本の落木があり、極めて不成績であった。

 文久四甲子年三月
  後潟組瀬辺地両村漆木根付木并取調書上帳
広瀬 寄苗共
                    庄屋 太左衛門
   広瀬村
    西ノ股沢出口
    高三百二十六本 戌四月植付候分
   一、漆根付木 弐百四拾三本    村仕立
      但八十三本 落本
戌年植付残り
   一、同    寄苗千九百本
      但比分当午不残植付ニ宜御座候
     〆
       瀬辺地村
    高壱万本御渡リノ内
   一、漆寄苗 弐千九百五拾壱本 小仕立 太次右エ門
      但七千四拾九本 落木      三九郎
勘四郎
    高五千本御渡リノ内
   一、同   七百十本       村仕立
      但四千三百本  落木
     〆
    右者私支配広瀬瀬辺地両村漆木調書上ノ表前出之通リニ御座候 以上
     子三月
                      広瀬村
庄屋 太左エ門

 漆樹は見取場や荒地に植えられた。貞享四年の瀬辺地、板木沢、広瀬三ヵ村の見取場、田畑地、荒地、漆木改帳によると、広瀬村の下々畑八町三反壱畝壱歩の内、漆畑に使用されたのは
  高根
   漆畑 三拾間 壱反弐畝歩 孫左衛門
      拾弐間
  同所
   漆畑 四拾弐間 三反三畝拾八歩  同人
      弐拾四間
  同所
   漆畑 六拾八間 弐反弐畝弐拾歩  同人
      拾間
  同所
   漆畑 弐拾弐間 七畝拾歩     同人
      拾間
  同所
   漆畑 弐拾四間 八畝弐拾四歩   同人
      拾壱間
  滝沢
   漆畑 拾五間 五畝歩      長五郎
      拾間

 同村の永荒田畑五反七畝七歩に漆木九百五十三本が植付けられ、その内訳は
  四拾壱本   甚左衛門    六百十九本  長五郎
  弐百四拾八本 孫右衛門    四拾五本   兵左衛門
 板木沢村は宝暦九年以来新開発田の多いところである。しかし地質はよくなく下田、下々田ばかりであった。畑は見取場が多く漆仕立をした。前記の貞享四年の瀬辺地、板木沢、広瀬三ヵ村見取場、荒地、漆木改帳によると畑壱町五反弐拾壱歩が見取場で、その内訳をみると田地、畑地にならないところである。

  田舎庄
    板木沢村
 一、畑壱町五反弐拾壱歩   見取場
    内
   山之内 弐拾弐間 五畝弐拾六歩   作之丞
     漆畑 八間
   同所 弐拾四間 九畝拾八歩    同人
漆畑 拾弐間
   同所 拾四間 八畝拾弐歩    同人
漆畑 拾八間
   同所 弐拾間 弐畝弐拾歩 同人
漆畑 四間
   同所 三拾弐間 弐反五畝拾八分  同人
漆畑 弐拾四間
   同所 拾四間 四畝六歩     同人
漆畑 九間
   同所 四拾九間 四反弐畝拾四歩  長兵衛
漆畑 弐拾六間
   同所 弐拾五間 弐反壱畝弐拾歩  同人
漆畑 弐拾六間
   同所 拾七間 六畝七歩     同人
漆畑 拾壱間
   同所 拾間  壱畝拾歩     同人
漆畑 四間
   同所 四拾間 壱反弐畝歩    同人
漆畑 九間
   同所 拾四間   四畝弐拾歩    同人
漆畑 拾間
   同所 三拾間   六畝歩      同人
漆畑 六間

 以上の漆畑に漆木が千五十本植付られていた。

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第三節  溜池、橋、樋

 潅漑用水の充分でない農村は、雪とけ水や雨水をせきとめ溜池に溜め、耕作季節に放水している。本村でも中沢村の西字池田に溜池が設けられている。その東南にも一池あって水路が相通じ、東西一町拾壱間、南北五十三間、周囲凡そ七町余の溜池があって中沢村の水田に供給している。(陸奥国津軽郡村誌)
 明和三年の中沢、長科村用水溜池并樋橋と堰書上帳によると、黒山下と池田に溜池があり、何れも長さ六間から四間の水門がある。黒山下の溜池の堤は長さ七十間で水下反別八町歩、池田の堤の長さ六十間で水下反別十町一反九畝六歩の水田に潅漑用水を供給している。水田は何れも御蔵地で貢租を納めていた。
 長科村には溜池一カ所あり水下反別五町九反三畝十歩で、中沢村には及ばないが、同村には長科川があって、これから潅漑用水が供給されている。
 天保十三年の田方水門案内帳によると、鶴蝮に溜池一カ所あり、水下反別八町五反九畝十一歩の本免、別免の下田に供給している。

  明和三丙戌年四月
   後潟組中沢村用水溜池并樋橋与堰根
      長科
    鈴木御物入自分物入共書上帳
                     浅田勘之丞
木邑善次

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第四節  岸焼、秣場、萱仕立場所

 一定の地域に住む農民が、慣習上の権利にもとづいて一定の山林、原野に入会い、一定の約策によってその毛上(地上に生えた木、柴、草など)を集団的に採取する権利を入会権といっている。入会はわが国の農、山村には広く行なわれ、現在でも山間地方に多くの存在する慣行であって、このような入会採取の行われている林野を入会山、または入会地という(郷土史辞典)。
 入会地において草、柴をはじめ、屋根材料の萱などを刈り、薪、炭材、木の実、蕨などの食料を採り、あるいはまた建築、土木用材を採取し、、地方によっては共同の放牧、植林などが行なわれる。
 万延元年五月、後潟組中沢長科両村岸焼并秣場萱仕立場所調書上帳に両村の入会地が定められている。同書によると岸焼地は金葛沢山岸通りと井家戸山岸通りと二カ所あり、秣場は家岸添の萢地に二カ所、池田溜池添に二カ所、外鶴蝮に一カ所合計五カ所あった。屋根葺用の萱仕立場所は長科村領井家戸右手にある。
 本村の岸焼地は後潟村と中沢村との境界と中沢村と長科村との境界にある土地で、野火を防ぐため柴や草が生え繁った時、火をつけて焼くので岸焼地といった。金肥のない藩政時代柴や堆厩を含めての「草」が最も重要な肥料であった。これらの毛上を焼いて灰とした入会地でもあった。なお同地は後潟村、中沢村、長科村の境界線であったので口論が絶えなかった。
 秣場は労働力を補う牛馬の飼料を産する菜草地で、農村の重要な施設である。然からば明治初年に中沢村、長科村に幾匹位の馬数があったか陸奥国津軽郡村誌によって調査するに、
 中沢村   牡馬 三頭  牝馬 九拾四頭  合計 九拾七頭
 長科村   牡馬 五頭  牝馬 五拾四頭  合計 五拾九頭
 阿弥陀川村 牡馬 壱頭  牝馬 六拾弐頭  合計 六拾三頭
 蓬田村   牡馬 二頭  牝馬 七拾壱頭  合計 七十三頭
 郷沢村   牡馬 一頭  牝馬 十八頭   合計 十九頭
 瀬辺地村  牡馬 二頭  牝馬 五十七頭  合計 五十九頭
 広瀬村   牡馬十二頭  牝馬 六十九頭  合計 八十一頭

 中沢村と長科村と合計して百五十六頭の馬数があり、これらに供給する飼料の秣は相当な量であったろう。両村の秣場は五カ所あった。
 今日では農村でも屋根は柾葺の家屋が相当多くなっているが、昔は大部分萱屋根であった。一軒の屋根を葺替えるにも大量の萱が必要で、大体三、四十年目毎に葺替えられた。村に屋根葺の本職がいるが、とても一人の力では葺替えができるものでない。そこで村中の人が手伝ったものである。萱屋根は冬は暖く夏は涼しいので農村の人々は仲々柾葺きに替えたがらないが、原料の萱が不足するのとまた人手も思うように集まらず、結局柾葺きに改まるというのが現状であろう。本村の萱仕立場所は長科村領井家戸右平に一カ所あり、両村の入会地であった。同入会地が農家が増加するにつれ田となり畑となり、萱は阿弥陀川村、瀬辺地村から買うようになった。
 以上の岸焼地、秣場、萱仕立場は何れも中沢、長科両村の入会地であった。入会権が認められていたのは明治四十二、三年頃まででその間両村の紛争が入会権をめぐって絶えなかったので明治四十四年ときの中沢小学校長嶋田末太郎氏が両部落民を集め、仲介の労をとり両村の入会を解いて、中沢地区と長科地区と区分してから紛争がなくなった。
 終戦後、農地改革されて以後、各個人の使用権を認め入会地が個人有に分割され今日にいたった。
 参考のため、弘前藩浦町、横内、油川、後潟四ヵ組の秣場、岸焼元帳をあげれば左の如くである。

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第五節 潅漑用水水源山の伐採御差留願書

 潅漑用水は水田経営の生命である。本村の各部落は何れも河川を潅漑用水に使用しているので、自然部落は河川に沿って発達していった。すなわち広瀬村は広瀬川、瀬辺地村は瀬辺地川、蓬田村は蓬田川、阿弥陀川村は阿弥陀川、長科村は長科川というように河川を利用している。本村で河川のない部落は郷沢村と中沢村である。
 中沢村は陸奥国津軽郡誌によると、土質は砂質でその色黒色を混和し、稍塩気を帯び植物に適しないという程でないが地質はよろしくないという。それに東北風の冷風で被害が多かったので前述のように安永七年以来銀納を願い出ている状態にある。これに潅漑用水が充分でないということで、昔から中沢村の農家は田畑耕作に苦心し、中沢村、長科村の水源林である長沢、大沢沢、狼ヶ沢、滝ノ沢、鳶沢、湯ノ沢、松ノ沢、矢別沢、芦ヶ沢の水源山の保護育成に多年苦心経営してきた。
 特に明治の世となり廃藩置県後、藩有林が国有林となってから、これらの特殊事情を考慮せず伐採される傾向があったので、明治十三年中沢、長科村民は次の陳情を青森山林局に提出し水源涵養林の保護を願った。
 その理由として当部落は開村以来新田開拓に努力してきたが稍々もすれば潅漑用水に不足を来たし、前述の諸山より流出する用水に依存してきた。然るに前記の山々は他の山と違い僅々たる小山で昔は小木立で雑木なきため出水不足を来たし、ややもすれば旱天には水不足し植付不能田が生ずる状態であったから、両村一致して仕立見継山として山守一名をおき堅く伐採を差留め監視してきたのである。それがため雑木繁茂し旱田の苦患を逃れてきたが、新田開墾盛んになったので明治二年新溜池を築いて足水の補となし今日にいたったのであるから、今後前記の沢山の伐採を禁ぜられんことを請願したのである。
 請願にあたって、その証として寛文二年の沢名元帳、天保十二年の御本山沢預書上帳と万延元年の和談証文、村仕向証文を添えている。
 元来長科村は中沢の寄郷であった。そこで両村入会の井家戸沢の管理について争論があって永い間解決できなかったという。 然るに万延元年ようやく解決ができ、その仕向証文を添えて前記諸沢の水源山として保護願いたいと陳情した。

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第六節 蓬田山奉行

 津軽藩の林政はよく統制がとれ他藩に誇り得る善政が施かれ、今日にいたるまで津軽のヒバ林といえば日本三大美林の一つに数えられていることは、藩民一体となって森林の保護にあたったからである。
 藩祖為信の時代すでに森林保護の政策があり、以後代々の藩主遺命を奉じ、林政の奨励にあたった。しかしわが林政も消長があった。弘前場の築城及び城下町の建設、青森港の開港、明暦四年の江戸の大火等で乱伐され、石川、蔵館、内真部の諸山から伐り出された材木がおびただしいもので衰山の徴が現われた。
 そこで四代藩主信政は寛文四年七月に、外ヶ浜へ留山の制を施いて厳重に乱伐を防いだ。津軽藩林政の確立は信政時代である。本山、仕立見継山、抱山、立山等の制が設けられ、宝永年間に山方役を創設し、森林の監視を行なった。かくて有名な屏風山の松の取立をはじめ、石川、八幡館両村の野山数里の間へ松を植え、さらに小沢村、千年山、勝木田村、五本松、大釈迦間、大森村、唐牛村、駒込村、本郷、吉野田、中野の諸村、諸街道に松の植栽した。
 今日中沢村から広瀬村まで数里にわたって東北風の冷風を防ぐ防風林が繁茂しているのは、宝永五年二月、信政が外ヶ浜並びに西浜海辺へ田地風除のため松杉の植付を開始せしめてからである。その後、地元民は藩主の意にたいして森林の保護に勤めたであろう。その一人に広瀬村の楽宝寺に隠居された蟹田、専念寺の住職一蓮社妙見上人が村のヤマセを防ぐため松の防風林を植えたという。
 本山には藩有林が多い。本山のみならず田山、見継山にも多い。これらを監視するため山奉行がおかれた。藩日記に見える山奉行は高惣左エ門といって、貞享三年十一月十七日に五十七歳で七ヶ年御山奉行勤めていたが、この度病気になり青森町の堤久益、鈴木覚左エ門と申す医者の薬を服用している旨が記せられている。さらに山大事に人夫を出したことが左のごとく記せられている。俸禄は二人扶持で極めて軽い身分であった。役所は蓬田村にあった。遠見番所にでも住んでいたのでないかと思われる。

 津軽日記貞享三年十一月十七日
  外浜蓬田山奉行高惣左エ門今年五十七ニ罷成候右御山奉行七ヶ年相勤申候処当七月病相煩候故青盛町医堤久益鈴木覚左エ 門ト申者ノ薬服用仕候得共快気不成右御役勤兼申候段御断申上候へば跡役御山奉行被仰付候只今ニ而ハ早速、本役仕間敷は 右の医者共申候比段以神慮偽不申上候久ク御奉公モ不申上候儀無勿体奉存候悴権右エ門儀今年三十ニ罷成候似合之御奉公被 仰付被下候者難有可奉存候由以佐藤太右エ門書付願差出候、則靭負江相達候所願之通惣右エ門事隠居被仰付悴権右エ門儀足 軽ニ御入被成候段申来、則太右エ門江申渡候
 同□年八月十八日
 蓬田山奉行工蔵栄三郎申立候者拙者儀山奉行相勤候間上下二人の御扶持米被下置候間当五月迄受取申候所御米無御座候由 ニて閏六月朔日只今迄請取不申候間六月七月八月右三ヶ月分之御扶持米青盛御蔵より相渡候様奉願候旨申立候願ノ通青盛よ り御蔵相渡可申旨福士軍衛ニ申渡之
同四月二十三日
  蓬田山就火事対馬万右エ門申付遺候処去二十一日目ノ夜九時より火鎮リ候由湊代官所申越候飛脚津軽野ニて行蓬万右エ門 罷帰候由所在の木焼候山蓬田ゑのまへ沢を柴原雑木立長サ二百間程横五十間程焼候由山奉行申越候旨対馬万右エ門相断之
   右火元へ罷出候人夫数覚
 一人足 三十二人 阿弥陀川村 一同 十八人 蓬田村
 〃    十六人 長科村   〃  十五人 四戸橋村
 〃    二十人 中沢村   〃  十五人 後潟村
  人数都合 百二十六人
 御山奉行御馬廻  長内弥次左エ門   工藤序助
          工藤馬三郎     山奉行手代三人
 代官       森田安右エ門    手代二人
 山廻       横山次左エ門 同所 工藤甚衛  
  右ノ通罷出候由代官より書付遣之
 同五月三日
 蓬田山奉行  後藤十右エ門
 同二十四日
 蓬田山奉行  佐藤六右エ門代  二陳平右エ門
  右詰座御縁類相勤之
 六月二十日
 蓬田山奉行鳴海又右エ門今日誓詞申付之宛所御用人
 元禄五壬申年二月三日
    覚
 御村一同 葛西佐右エ門  大組 町田弥太夫
 大組   奈良惣助    諸手 渋谷甚佐エ門
 諸手   長内半右エ門  同  成田三右エ門
 御警固  古川仁衛    同  伊藤弥衛
  都合八人外浜檜改役申付候委細勤様之沢本〆方ニ而申渡候間右之人数武田源左エ門へ来候様申付之旨宮館嘉右エ門へ申渡 候尤右之段本〆方へも申遣之
 四月二日
  中沢山火事以暮六時分火消被廻候由山奉行御遣候旨対馬万右エ門断之
 同七年四月十日
  瀬辺地山ノ内小川平檜立へ今日山火事出来御山奉行罷越火防候へ共風烈敷故火消兼大都一里程焼候由蟹田町奉行注進ニ付 火消之者申付候由代官罷越火打消候由申来右ノ段御家老中へ達之
天和三年八月十日 処々へ被遣候御検見人之覚
  外ヶ浜上磯 折笠十兵エ 小林次郎衛 三上藤右エ門
 元禄二年八月二十六日 御検見
 後潟組御検見人 村上六兵エ 算者借方役人 池田源之丞
      目付 山上七郎衛
 同五年九月十一日
  後潟組 永沢武右エ門 奈良伊右エ門 三上弥次左エ門
  今助勢 対馬太次衛

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第七節 山奉行と盗伐

 山奉行は自分の支配の山々を監視し、盗伐や火災のないように取締まるのが役目であった。しかし村民が薪炭材の不足のときや、小屋等の建築のとき藩に屈出もせず密かに盗伐する者があった。天保十三年間に中沢村、長科村に盗伐があり役人の廻山のとき発見され、両村に犯人の召捕を命ぜられた。詮議の結果は如何になったか、またどんな罪科を命ぜられたか不明である。
 しかし中沢村の坂本甚吾が庄屋を勤めていたとき、村民の盗伐があった。これを廻山の役人が発見し庄屋の責任を問わんと訪ねたとき、庄屋坂本甚吾は村人の全責任を負い自殺し相果てた。山役はその責任感の強い庄屋の態度に免じて、不問に付したということである。左に中沢、長科両村の御山処書付留を掲げ参考にする。
    覚
井家戸沢ノ内根ノ沢
 一、檜伐株  三本  但差渡 一尺三寸
 一、同    五本  但差渡 尺
 一、同   十三本  但差渡 九寸
 一、同  二十八本  但差渡 八寸
 一、同  五十三本  但差渡 七寸
 一、同  七十三本  但差渡 六寸
 一、同  五十一本  但差渡 五寸
 一、同  三十七本  但差渡 四寸
 一、同  三十八本  但差渡 三寸
  〆三百一本
   但頃合ノ儀ハ当春より比節迄
     比取木
 一、壱本    二間  五寸角
 一、二本    三間  末口四寸丸太
 一、一本    二間半 末口四寸丸太
 一、三本    二間  末口八寸丸太
 一、七本    同   末口七寸丸太
 一、拾七本   同   末口六寸丸太
 一、四十四本  同   次丸太
 一、三本    一丈  末口六寸丸太
 一、四十八本  同   大尺立
 一、八本    八尺  末口五寸丸太
 一、一本    六尺  末口九寸丸太
 一、十二本  長四尺  末口五寸
 一、七本   同    末口三寸
 一、六本   同長三尺 末口三寸
 一、二十五本 二間   垂木
 一、五十五本 二間   垂木
 一、十三本  八尺   小尺立
  〆 二百六十一本
 井家戸沢ノ内狼ノ沢
 一、檜皮剥木 十二本  但元廻り一尺五寸
 一、同     五本  但元廻り一尺七寸
 一、同     三本  但元廻り二尺
 一、同     七本  但元廻り二尺四寸
 一、同     五本 但元廻り二尺八寸
 一、同     二本  但元廻り三尺
  〆 三十四本
   頃合ノ儀ハ右同断
 井家戸内滝ノ沢
 一、檜伐株   一本  但差渡 七寸
  〆 頃合ノ儀ハ右同断
 井家戸ノ内出四左平
 一、檜伐株   二本  但差渡 八寸
 一、同     一本  但差渡 七寸
 一、同     三本  但差渡 六寸
 一、同     一本  但差渡 五寸
  〆 八本
   頃合ノ儀ハ右同断
     比取木
 一、三本    但末口四寸 長七尺
 一、一本    但末口五寸 長六尺
  〆
 金葛沢ノ内弥次郎沢
 一、檜伐株   二本  但差渡 一尺一寸
 一、檜伐株   二本  但差渡 尺
 一、檜伐株   三本  但差渡 八寸
 一、檜伐株   一本  但差渡 七寸
 一、檜伐株   三本  但差渡 六寸
 一、檜伐株   三本  但差渡 四寸
 一、檜伐株   一本  但差渡 三寸
  〆 拾五本
  頃合ノ儀ハ右同断
     比取木
 一、一本    但末口九寸 長三尺
 一、二本    但末口八寸 同行
 一、二十九本  但末口五寸 同行
 一、十四本   但末口三寸 同行
 一、三本    但末口六寸 長四尺
 一、二本    但末口八寸 同行
 外ニ
 一、一本 但元廻り五寸 長二間
   但枝付末木
  〆
  伐株 三百二十四本
   但頃合ノ儀ハ当春より比節迄
  取木
   〆 三百七本
  右ハ私支配中沢長科両村領御山処比度御廻山被仰付候ニ付私共御案内申上逸々御見分之処前書沢々ニ而檜伐荒御見当リ御 差押之上私共ヘ御預ケ被仰付右始末心得違之者当人名前ヲ以申出候様厳敷御詮議被仰付奉恐入候
 随而中沢長科両村之者共詮議仕候処長科村又三郎、寅二郎、元太郎、元松、治五左エ門五人之者共所為ニ御座候心得違ノ 段詮議仕候処近年違作中雑木不残切尽ニ相成日々焚用一切無御座候処より乍恐前書沢々より悪木并雪折之類斗隠伐焚用ニ仕 候全ク売用ニ伐取候儀は毛頭無御座候旨申出ニ御座候
  御出御締合ノ儀者而御厳重ニ被仰付罷有候処前書伐荒御見当リ御取扱ニ相成何共御申訳可申上候用無御座候必竟私共不行 届之処より右様心得違之者出来奉恐入候以来之儀ハ私共不及申ニ村方ノ者共友吟味ノ上決而右躰ノ儀無御座候様急度御締相 立可申上候間比度無調法之議ハ格段以御憐愍御免被仰付比下度奉願上候
 乍恐御詮議ニ付比段御答奉申上候 以上
   天保十三年寅ノ七月三日
                             庄屋 喜兵衛
   石沢久次様
   原田米三様
   村谷松次郎様
   福村由蔵様
  前ノ点羽ノ文言蓬田御勤番山崎佐十郎様へ差上候申上ニ御座候
  御役処内御勤番様へも差上候
 弘化四年未六月にも盗伐があった。取木は全部で三百七十一本で代庄屋与太郎が答申書を差出している。答申書の内容は前書とやや同じである。此度の盗伐は井家戸沢の長沢と金葛山と二カ所の沢から伐り出されたものであって、六月九日から十五日まで山役人内山八五郎、相馬青次郎、福村由蔵の三人が廻山の際発見されたものである。此度は中沢、長科両村の者及び山守まで呼び出し厳重に詮議したところ、長科村の三郎左エ門、中沢村の善六、弥五兵衛の三人の仕業であることが判明した。理由として近年違作で焚用一切なく悪木と雪折木及杣子伐株等を焚用した。
 また中沢村の弥五兵衛は他へ出稼し当春帰村したが居宅なく、小屋の建築材料に使用したもので、全く売用に伐りとったものでないから此度限り御憐愍を以て御免仰せつけられたいとの答申書である。
 よく七月十日されに中沢村の代庄屋弥惣が工藤喜右エ門、外崎要吉宛に答申書を差出し御免下されたいと申述べている。其の内容は去る十九日夜村役初め重立百姓共が全部出奔し、仮子様の者ばかり残っている風聞があるが、得と見聞したところ、同村庄屋与太郎住宅建直しのため、百姓共申合せ隠杣いたした由であるが、左様な事実がないので恐ながら御答え申上げるという答申書を差出している。この盗伐事件はどうなったか資料なく記述されないが、中沢、長科付近の山々は時々盗伐の災難があった。
 明治五年の官山沢々預り証文によると、後日伐荒所あった場合如何ようの制裁うけても苦しくないという念書が書かれているところから考えると、前述の盗伐は不問に付されたのであるまいか。

  明治五壬申年十二月
   第四十一区中沢長科両村官山沢々預リ証文
   比度御本山御吟味ニ付私共并組下共御山ノ内沢々廻山仕候得共伐荒所決而無御座候若哉後日伐荒所有之候節ハ如何様曲  ニ相成候而茂不苦候為念一札差上如件
壬申十二月朔日
                    両村組長共
   組頭
    坂本□吉殿
   則人別左ニ
  一、以家戸沢之内
     大江ノ沢ツ子ヨリマヅ
   右 春木沢松沢沢迄       佐兵衛持(印)
     ヒトサハ湯ノ沢
     十戸ノ沢ヨリ春木沢沢迄     孫九郎持(印)
     春木沢ヤベツサハ
     ヲヱノ沢沢ヨリナラノ沢沢迄   四五右衛門(印)
     ヨヒカサハ
     ヲヱノ沢沢ヨリ一ノ渡リ迄    儀右衛門持(印)
     松沢サワヨリ滝ノ沢迄      伝右エ門持(印)
     滝ノ沢ヨリ長沢一ノ渡迄     三十郎持(印)
     長沢不残           孫次郎持(印)
  一、金葛沢ノ内
     弥次郎沢 大江ノ沢
     左鞁トン沢ヨリ銅屋沢迄     久四郎持(印)
     小屋場ノ沢 武兵エ沢
     銅屋ノ沢ヨリ穴沢下ナカ子迄   久左エ門持(印)
     無沢 間山沢
     穴沢下ナカ子武兵エ沢迄    浅吉持(印)
     武兵衛沢ヨリ小屋場下ナカ子迄  権十郎持(印)
     小屋場下タナカ子ヨリ弥五郎沢迄 甚五郎持(印)

 慶応三年沢々預人別調帳によると、前記の沢の持主をあげ、最後に御本山は五軒組合で預り友々吟味しているから決して不埒なことをしない旨確約している。

  慶応三丁卯年六月
   後潟組中沢長科両村御本山沢々預人別調帖
                     中沢村
庄屋 甚助
 一、以家戸沢ノ内
    春木沢ヨリ吉沢沢迄 佐兵衛持
ナテノ沢春木沢沢迄     孫九郎持
    ヲエノ沢沢ヨリナテノ沢沢迄   四五右エ門持(印)
    オエノ沢沢ヨリ一ノ渡リ迄    儀右エ門持(印)
    吉沢沢ヨリ松沢下タナカ子迄   伝右エ門持(印)
    長沢不残           孫次郎持(印)
 一、金葛沢ノ内
    下モベラヨリ銅屋沢迄      久四郎持(印)
    夫ヨリ穴沢下タナカ子迄     甚吾持(印)
    夫ヨリ武勢家戸下タナカ子迄   権十郎持(印)
    右沢沢ヨリ萢ノ沢迄       浅吉持(印)
    夫ヨリ上平村ハ通迄       又四郎持(印)
  右者私支配中沢長科両村御本山五軒組合頭江沢子ノ上預ケ置友々吟味之上決而不埒等不仕候依而人別判帳之表前書之通リ 御座候 以上
  慶応三丁卯年六月
    五人組 重次郎或(印)
寅吉(印)
庄屋  甚助(印)
   外要吉様
   長良八様

 津軽藩は前述のように森林保護のため山林の種類を本山、田山、見継山、仕立見継山、抱山に分け、植栽方法に山奉行、山方吟味役、山方締役、山方物書、山役人、諸木仕立方取扱、手付、十歩一役、大山頭、郡方を設け森林行政にあたらせる一方、藩の方針として藩と民とが協同で植付から監視を行った。すなわち山ごとにその村の負担を定め、小沢ごとに沢預り五軒組合を設け、互に監視し火災、盗難のないことを期した。その報酬として山下村民に枯枝、根柴の自由伐採を許し、また火災で家屋焼失したときは、一戸につき檜杉五本宛立木のまま給与するなど特典を与えたが、これに反し野火で生木が焼失したときは焼木一本につき苗木十本宛植えさせた。一方盗伐などの犯罪者に対しては斬罪、追放、鞭打、獄門に処した。本村にも度々火災があった。そのためか文政四年に杉苗を植付けた。さらに庄屋甚左エ門のとき子年伐荒された代りに弘前から杉苗五百本、油川、浦町両組にて杉苗育成している者から千本の杉苗を買い求め植付している。

     覚
  中沢領金葛沢左リ平通リ 中沢村百姓
 一、杉仕立山  壱ヶ所 久兵衛 見継
    但四尺被下五千本御座候
  金葛沢口右平通リ
                   同村百姓
一、同     壱ヶ所 喜永  見継
    但杉五尺廻り己下六十七本ニ御座候
  金葛沢左リ平通リ
 一、松仕立山  壱ヶ所          村中  見継
    但松弐尺廻り己下四十本御座候
  屋岸田畑風除ケニ植付
 一、松林    壱ヶ所          右同断
    但松八尺廻り己下五百二十本御座候
   〆
   外ニ
  屋岸銀納下候畑八畝歩ノ内
 一、杉仕立林  壱ヶ所          喜永  見継
    但壱尺廻り己下弐百本
    右者近年植付候ニ付未タ御改不申候ニ付再度新ニ奉申上候
   〆
    長科村
  居家戸沢口右平通リ
一、松仕立山  壱ヶ所          村中  見継
    但弐尺廻リ己下百本尤蔵松ニ御座候
  家岸田畑風除ケニ植付
 一、松林    壱ヶ所          村中  見継
    但四尺廻リ己下千百九拾本
   〆
   外ニ
  屋岸□地ノ内
 一、杉仕立林  壱ヶ所          村中  見継
    但壱尺己下三拾本右ハ近植付ニ付是迄御断不奉申候比度新ニ奉遣候
   〆
    右者私支配中沢長科両村領松杉仕立山前書之通御座候
                           以上
     文政四辛巳年五月
                 中沢村
                   庄屋  甚左エ門
     乍恐口上之覚
 一、小杉 千三百本 中沢村子ノ年分杉木植付相済候儀ニ有之候御点羽付ニ而御会儀被仰付候ニ付左ニ奉口上候
   一、小杉 二百本 右ハ去ル丑年植付比節生立罷有候
   一、同  七百本 右ハ寅年植付比節生立罷有候
   一、同  四百本 右ハ当春植付日々山守并村中見継仕罷有候
    〆 千三百本
  右ハ私支配中沢長科両村領御山ニ而去ル子年檜伐荒拾参本御見当右為過科小杉千三百本丑ノ年ヨリ寅年迄二ヶ年内植付候様 被仰付恐入奉畏候随而近郷相尋候得共杉苗持合之者無御座候ニ付願ノ上同年弘前表ヨリ杉苗五百本植付候得共土地ニ合ひ不申 候哉有増枯木ニ相成二百本位ならで生立不申翌寅年油川浦町両組ニ而杉苗生立置候者共ヨリ才覚仕千本余植付候処七百本位生 立罷有其後様々杉苗会儀仕候も持合之者無御座候ニ付寅年杉種蒔置手入仕当春七、八百本植付日々村中并山守之者江見継仕 罷有候  
 尤雪折枯木等ニ相成候ハバ又々植付先年被仰付候過科小杉千三百本ニ都合仕不残根付候処ニ而御見分奉願上度存候
  御定年限奉達成候段以御憐愍御免被仰付下候様乍恐右ノ段宜ク御沙汰奉願上候 以上
    巳五月
                            庄屋 甚左エ門
     両御頭様

 右之願書にあるとおり十三本の盗伐の代り木として千三百本の小杉苗木の植付を命ぜられたのである。いかに盗伐に対する過科が重いものであるか知ることができる。その小杉苗木も中沢村になく弘前から仕入れたのであるが、土地に合わないのか大部分枯死し二百本が根付した。
 そこで油川、浦町組の杉苗を業とする者から千本買求め植付けた。この油川、浦町組の杉苗を業とする者とは青森の安定寺が管理する杉畑で生産された苗木であろう。この苗木も三百本が枯死したので翌年七、八百本村内で杉種蒔付け植付けたのである。

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