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村史

第八節  見継山引戻申請

 青森県は、林野面積の六七パーセントが国有林に占められている。なぜこのように全国に比類みないような広い地域が国有林になったのか解せない。
 明治新政府の一大事業であった地租改正のとき、これと不離一体をなす土地の官民有区分を行なうとき、藩政時代山下村民の福利民福について藩は優先的にはかってくれていた。凶作には伐採を許し、火災にあったときは建築資材の払下から、焚用の薪炭材の供給など、いつも租税、貢租ということを離れ民福をはかってくれていたので、山下村民は熱心に藩命に従って山を守り、優秀な山林造成に努めていたのである。
 明治の世となり地租改正や官民有区分の方が施かれるようになっても、山下村民は藩政時代同様に国から恩恵あるものと思い、、税金のかからぬ国有林にしたらよいという安易な気持で、部落有となりうる林地をも放棄して国有林となった土地が多かった。然るに国有林となってから国は従来の山下村民の恩恵を全然考えず、強く権利を主張し焚用の薪炭材の伐取をもって盗伐となし罪人におとしいれた。予期に反した態度に驚いた部落民は、法をもって、または身をもって抱山や見継山の返還を求めた。この運動は単に本県のみでなく全国的運動となったので、政府も放任することができなく、おそまきながら手直しにまず明治二十三年に「地租改正の際、官有森林原野に編入されたもので民有たるべき証左により地所または立木竹の引戻しを請うものあるときは、自今すべて伺い出すべし」という指令が出たが、このときは手続きが繁雑なのか出願は少なかった。
 しかし出願が少なかったと雖も抱山、見継の返還運動はやんだというわけでなく、年を経るたびに多くなっていった。ついに明治三十二年、第十三回帝国議会で「国有土地森林原野下戻法」が議決、交付された。この法律は明治三十三年六月までの期限付きで、わずか一年間に処理しようという方針であったから、充分は調査ができず放任、放棄の形となったものが多い。青森県からの申請が二千九百十件あったが、二千八百十二件が却下されたというから、下戻となったものが百件たらずであった。これに不服で行政訴訟するには相当な行政訴訟費用が必要であったので、自然泣きねいりの状態になったものが多かった。
 しかし部落民のため私財を投じて二十年、三十年の行政訴訟をした荒川村の白島鴻影が荒川、高田両村の山林引戻訴訟に勝利を得たものもある。
 わが蓬田村長八戸弥太郎は金葛山から右手通りの官林反別拾四町一反六畝二十歩は、宝暦年間から仕立見継仰せつけれた山であるから引戻されたい。また大畑沢の拾六町歩の官林は明和年間以後樹木仕立山仰せつけられ見継していたから引戻されたいと二通農商務大臣曾禰荒助に左の申請書を提出した。
 その結果は資料なきため判明しないが、八戸弥太郎が部落代表となって弘前、石郷文吉の応援を得て銅屋沢から徳蔵沢まで見継山引戻の許可を得た。見継山であるから土地は官地である。当時部落民が七十二名あり一人あたり四百二十五石宛三回払下があった。合計すると三万六百石の大量の払下に成功した八戸弥太郎は、伐採後これを中央材木商と連絡販売したが折悪しく日露戦争中で軍需品が優先輸送していたので、数カ月青森に滞貨した。その間連絡や交渉を青森、柳原遊郭で過したため意外の経費となり、それが原因して破産同様な状態に立ちいたったということである。
 八戸弥太郎は村長として自治功労あったばかりでなく、見継山の払下等に尽力した功績を表彰するため阿弥陀川の稲荷神社境内に頌徳碑が建てられている。


一、中沢村金葛沢の見継山引戻事件

  明治三十三年六月
見継山ニ引戻申請書
中沢村惣代人
見継山に引戻申請書
青森県東津軽郡蓬田村大字中沢
財産管理人
蓬田村長 八戸弥太郎
三十二年
申請ノ目的物
青森県東津軽郡蓬田村大字中沢
地内中沢官林ノ内
一、一等官林反別拾四町一反六畝二十歩
比地所ヘ現存ノ樹木
事実
右官林ノ儀ハ本村大字中沢ニ於テ第壱号証ノ通宝暦年間ヨリ仕立見継山被仰付タル場所ニシテ爾来百数拾年来樹木ノ栽培増 殖ヲ計リタルモノナリ而シテ其面積ハ東西百七拾間南北弐百五拾間ニシテ則チ金葛沢口ヨリ右平通ニテ第壱号証ニ該当セル 場所ナルハ実地ニ徴シ明瞭ナリトス 然ルニ明治九年地租改正ノ際村民申立ヲ脱漏セシヨリ官林ニ編入セラレタルヲ以引戻 ヲ申請スルノ事実有之候
理由
前陳ノ事実ニ付本件ハ明治三十二年四月法律第九拾九号国有土地森林原野下戻法ニ基キ前記ノ地所ヲ以見継山ノ区域トセラ レ之ニ現存シアル物件ノ引戻ヲ申請スル理由ニ有之候 
立証
第壱号証
本証ハ青森大林区署ニ備付アル公簿之写シテ本簿ニ明記アルモノハ見継山タル確証ナリ
右申請仕候也
明治三十三年六月

八戸弥太郎
農商務大臣
曾禰荒助殿

第一号証
津軽郡田山館山見継山元帳写
金葛沢口ヨリ右平通
一、仕立山  壱ヶ所    中沢村中
但松木数百本  元廻り壱尺以下
宝暦年中ヨリ仕立ノ処天明三卯年伐尽シ其後生立見継尤証文所持罷有候
比符箋
字金葛沢左平 二ヶ山
実地検査致候処秣場同様ニ付勿論村方ニ而境界不分明申出候ニ付不得止見継山ニ取調不申事
安政六己未年補正之
佐藤小次郎
永沢又六
蝦名謙次郎
田村新十郎
見継山ニ引戻申請書
青森県東津軽郡蓬田村大字中沢長科
財産管理人
蓬田村長 八戸弥太郎
三十二年
申請ノ目的物
青森県東津軽郡蓬田村大字長科
字鶴蝮百六拾弐番ノ内壱号
旧字大畑沢
一、一等官林反別 拾六町歩
比地所ヘ現存ノ樹木
事実
右官林ノ儀ハ本村大字中沢長科共同ニテ明和年間樹木伐尽シ跡ヘ更ニ樹木仕立山ニ被仰付爾来見継山罷有候然ルニ明治九年改租ノ際当然仕立見継山ニ編入可相成之処官民共ニ其処分ヲ誤リ徒ニ官林に編入セラレタリト雖モ第壱号証ノ通リ弘前藩残務取扱方ニ於テ保管シ居ル記録御沙汰書中明確ニ記入有之候モノニシテ公正ナル証左ト確認仕候而シテ実地ニ徴スルニ地形上東ハ遺漏見継山ヲ以境シ西ハヲイノ沢官林ヲ以峯境トシ南ハ居家戸母沢ヲ以境シ比ハ阿弥陀川見継山峯ヲ以境トシ加フルニ林想上百年前後ノ樹令ニテ則明和年中ノ栽培ニ係リタルハ争フベカラザル事実ニ有之候
理由
前陳ノ事実ニ付本件ハ明治三十二年四月法律第九拾九号国有土地森林原野下戻法ニ基キ前記地所ニ現存シアル物件ノ引戻ヲ申請スル理由ニ有之候 
立証
第壱号証
本証ハ弘前旧藩残務取扱保管方記録ニシテ明和三年ヨリ年々諸木植付并ニ見継山留帳附証文留ナル記録に有之候
右申請仕候也
明治三拾三年六月

八戸弥太郎
農商務大臣
曾禰荒助殿

第壱号証
明和三丙戌年ヨリ年々
諸木植付并ニ見継山留帳
附証文留
一、新仕立山  壱ヶ所   瀬戸子村
但瀬戸子村御山之内堰口ノ沢
一、同     壱ヶ所   清水村
但内真部領御山沢口屋さく迄申沢右ノ平
一、同     壱ヶ所   内真部村
但内真部村御山之内番所家戸沢
一、同     壱ヶ所   左堰村
但内真部御山ノ内斎藤沢ノ内
一、同     壱ヶ所   小橋村
浜松村
但六枚橋御山ノ内沢口左ノ脇大沢ト申場所
一、同     壱ヶ所   六枚橋村
但六枚橋御山之内焼山沢口左脇小沢
一、同     壱ヶ所   後潟村
四戸橋村
但後方御山ノ内小川平沢口ヨリ深沢迄
一、同     壱ヶ所   中沢村
長科村
但長科村御山ノ内井家戸沢ノ内大畑沢
一、同     壱ヶ所 蓬田村
但蓬田御山ノ内関口沢ノ内栗家戸沢
一、同     壱ヶ所   阿弥陀川村
但蓬田村御山撰前沢ノ内溜池ノ沢
一、同     壱ヶ所   郷沢村
但郷沢村領野山ノ内深沢并石川沢
一、同     壱ヶ所   広瀬村
但広瀬村御山関根股ノ内手ころはし沢
一、同     壱ヶ所   瀬辺地村
板木沢村
但瀬辺地村御山大川添ノ内左中ノ沢
一、同     壱ヶ所   蟹田村
但外黒山小沢ノ内中ノ沢
一、同     壱ヶ所   小国村
但上小国村領堤ノ沢
都合 拾五ヶ所
右者後潟組村々流木伐出之儀御山御厭ニ付前々杣取願高分竿数御減被仰付候処右流木杣取之者共被仰付之高ヨリ過木伐出 申候ニ付右代リ仕立山被仰付候ニ付其段村々庄屋共ヘ申付候処前書御山所仕立山ニ仕度旨尚又右仕立山之儀ハ一統御山方御 取扱被仰付被下置度段右村々庄屋共ヨリ申出候ニ付逸々見分詮議仕候処申上ノ趣相違無御座候尤右村々ノ外仕立山有之哉ト 詮議申付候得共仕立場所無御座旨申出候比段申上候 以上
明治五年寅拾一月
一戸茂左エ門
花田九八郎
秋元杢右エ門様
十二月二日添田主計殿ヨリ山内弥五兵衛殿ヘ御用状後潟組代官申出候同組村々ヘ当春流木伐取申付候願高ヨリ過木材取扱  候ニ付夫々申立候通リ申付候
随分出精仕立候間年々仕立方之模様山役人見分申出候様申付候比旨御申付可有之候 以上


二、瀬辺地村領喜左エ門流見継山引戻事件

 瀬辺地村領に喜左エ門流と板木沢の二カ所の仕立見継山があった。この二カ所の仕立見継山は郷沢村中が安永三年以来仰せつけられていたのが、天明三年の大凶作に郷沢村民は秋田方へ逃散、廃村状態になったとき板木沢の村民の一部が移った。当時郷沢村を板木沢ともいったと願書にある程である。
ところで明治二十六年八月に郷沢村の福井音次郎が村民十七名の惣代人で、弘前市上鞘師町の一戸豊蔵弁護士を代理人として青森県知事佐和正に見継山引戻申請書を提出した。一戸豊蔵弁護士は同事件を引受けるについて福井音次郎等の郷沢部落民と約定証をとりかわしている。まず成功報酬を十分の四を要求している。また事件引受け当初に瀬辺地村もこの仕立見継山について権利を主張してあったようで、若し意義あったときは旧慣行に基づいて相当の取捌きをなしたことについて異議を唱えることができないと、弁護士が逃げ道を作っている。
果して瀬辺地村から異議があり、明治二十六年十月六日に知事宛見継山引戻願いが提出された。瀬辺地村の主張は、板木沢と喜左エ門流の仕立見継山は安永三年に郷沢村で見継したものである。しかし天明三年の大飢饉に廃村同様になり、以後板木沢村で両見継山を見継仰せつけられ爾来百有余年経過した。
然るに明治八年地租改正のとき古い証拠書類が紛失し遺憾ながら官林となった。以後証拠書類の発見に努めていたら比度青森大林区署に旧書類が発見された。然るに百有余年見継仰せつけられていた板木沢村は、明治八年に旧瀬辺地村と合併したから、見継山引戻の権利は瀬辺地村が所有しているのであるとの主張であった。これがため郷沢村は敗れ瀬辺地村は引戻の権利を占めたのである。参考のため瀬辺地村の沢御元帳を掲載し、本村を中心とする明治初期の官と山下部落の状態を記した。

見継山御引戻願
瀬辺地村領山ノ内喜左エ門流
一、仕立山  壱ヶ所
右同板木沢
一、仕立山  壱ヶ所
右ノ山林ハ安永三年以来郷沢村(当時板木沢ト称ス)中ノ見継山ニ有之候処嘗テ其証文ヲ紛失シタル者アッテ其侭ニ打チ過 キタル為メ明治九年ノ改正ニ其証拠ヲ提出セサルニヨリ官林ニ御調査相成村民共迷惑ニ付堪候処別紙書類ハ旧藩ノ元帳ニ存 シテ今日青森大林区署ニ御保存有之御義ト承知仕候果シテ然ルニ於テハ其書類タル公正ニシテ左右スヘカラサルノ証拠ナリ ト確信仕候間御取寄ノ上御展覧被下候テ本願ノ通リ前掲山林ヲ元郷沢村中ノ見継山ニ御引戻被下度比段奉願候也
明治二十六年八月   
東津軽郡蓬田村大字郷沢
福井音次郎外十七名惣代人
弘前市大字上鞘師町二十四番戸
一戸豊蔵
同上
南津軽郡碇ヶ関村碇ヶ関
百四十八番戸
中村茂幹
青森県知事
佐和正 殿

附届書
旧藩帳簿ノ写本願ニ係ル分ヲ抜書セシナリ
表紙書左ニ
享和(元和)二壬戌年
田山館山見継山元帳 五冊之内
右四ヶ組
後潟組
瀬辺地村領山ノ内
一、仕立山 壱ヶ所      板木沢村中
但檜雑木柴立 安永三丑年ヨリ仕立
尤郷沢村ニテ仕立ノ処天明三卯年同村潰ニ付板木沢ニテ見継罷有候旨
瀬辺地村山領山ノ内喜左エ門流    郷沢村跡
一、仕立山 壱ヶ所             板木沢村中
但松木七拾本 裡之廻壱尺五寸位已下
安永三午年ヨリ仕立見継
右同板木沢  右同断
一、仕立山 壱ヶ所      右同断
但柏木雑木立 前同断
約定証
東津軽郡蓬田村大字瀬辺地地内
字板木沢
一、仕立見継山 壱ヶ所
同上字喜左エ門流
一、仕立見継山 壱ヶ所
右山林ハ旧来郷沢村中持ノ処山野改正ノ際ヨリ官林ニ編入セラレ居候ニ付旧村中持仕立見継山ニ引戻出願ニ付イテハ別   紙委任状ヲ以テ一戸豊蔵及中村茂幹ヲ村中ノ代理出願人ト相定メ候ニ付右両人ヲ甲トシ村中側ヲ福井音次郎及外拾七名   ヲ乙トシ約定スル事左記ノ如シ
一、前掲山林引戻出願ハ甲者ニ於テ其費用負担ノ上尽力スヘキモノニ付許可ヲ得タル時ハ其実費弁償及報酬トシテ全地盤   引渡ヲ受ケタル侭ニテ地木共十分ス、其四分ヲ甲者ニ撰取スルノ利益ヲ与フルモノニシテ残六分ハ村中側ヲ乙者ノ所得   ナリトス
但甲者ニ於テ消失スル実費ノ内本村郷沢村ニ滞在宿泊料其他ノ雑費ハ乙者ノ負担ニテ其時々弁済ス又自然願意許可ナラ   サル中ハ支払済ノ実費金ハ甲乙互ヒノ損失タルヘキ事
一、右山林引戻許可ノ上ハ官ニ対シテ借地料又ハ右山林ニ付イテ公納スル金額ハ総テ乙者ノ負担ニテ支弁公納シ又全地木   ハ乙者無料ニテ看守シ甲者ノ自意ニ任ス充分の弁利ヲ与フルモノトス
一、本件完結ニ至ラサル已前ニ於テ乙者ノ弁利ヨリ甲者ノ委任ヲ解キ又ハ破約セントスル時ハ実費及損害弁償トシテ甲者   ヨリ要求スル金額ハ其多寡ヲ論セス乙者ニテ支弁シ甲者ニ満足ヲ与フルノ責任アルモノトス
一、右山林引戻及出願ニ付大字瀬辺地ヨリ苦情申唱フル時ハ甲者ノ引受ケニテ取捌キ又甲者ニテ旧慣行ニ基キ相当ノ取捌   キヲナシタルモノニ附イテハ乙者異議ヲ申唱フル事ヲ得サルモノトス
右約定相整ヒ候ニ付互ヒニ確守スル為メ比証書弐冊ヲ製ス各自連署ノ上甲乙各壱冊ヲ所持スルモノナリ
明治二十六年八月十二日
青森県弘前市大字上鞘師町
一戸豊蔵
同県南津軽郡碇ヶ関村大字碇ヶ関
中村茂幹
同県東津軽郡蓬田村大字郷沢
福井音次郎
高田又吉
高田松三郎
高田勘五郎
大宮柾吉
高田兼次郎
福井宇之助
福井宇吉
福井由太郎
小野吉太郎
福井由五郎
中川金作
加藤金蔵
高田子之松
高田清次郎
福田松五郎
中川冨之助
畠山周治

  三、瀬辺地村領板木沢見継山引戻事件

    見継山御引戻願
陸奥国東津軽郡蓬田村大字瀬辺地官林
旧瀬辺地村領内板木沢
一、仕立山 反別五町四反三畝拾八歩
右同断旧同村領内喜左エ門流
一、仕立山 反別三町三反八畝二十八歩
右ハ安永三年ヨリ本郡旧郷沢村ニテ見継致シ来リ候処天明三癸卯年大飢饉ニ際シ同村一旦廃村同様ニ相成候為メ改メテ旧板 木沢村ヘ見継申付け爾来百有余年間同村ニ於テ見継致来リ候モノニ付過ル明治八年地租改正ノ際旧来ノ通リ同村見継山ニ取 調可申筈ノ処経年ノ久シキ村方ノ旧記散失シ証拠書類ヲ失ヒ候ニヨリ遺憾ナカラ普通官林ニ取調置、其後官民有境界御制定 ノ時モ止ムヲ得ズ黙終致シ居リ候得共其実同村ノ仕立見継山タルコトハ村民一般ノ脳裡ニ深染致シ居リ候故爾来絶ヘズ証拠 書類ノ探索ニ終事罷在候処比頃聞ク処ニヨレバ旧藩ヨリ御庁を経テ目下青森大林区署ニ御保存相成居候旧元帖別紙の通リ今 ニ歴々御記有之候由果シテ然ルトキハ其元帖ノ明文ハ曾テ当大字ニ於テ発見シタル書類トモ符号シ最モ公正確実ナル証左ト 認メ得ベキモノニ有之而シテ右旧板木沢村ハ去ル明治八年中旧瀬辺地村ヘ合併相成候ニ付、現今ニ至リ右見継山ニ関スル権 務ハ全テ当大字住民ニ帰着可致ハ当然ノ道理ニ有之候間御庁ヨリ青森大林区署ヘ御照会ノ上果シテ別紙ノ通リ相違無之候ハ バ前掲の見継山ヲ当大字ノ見継山ニ御引戻被下度候(下略)
明治二十六年十月六日
東津軽郡蓬田村大字瀬辺地
住民惣代 田中孫八
青森県知事
佐和正 殿

御領内諸山之内
外浜通沢御元帖
瀬辺地村領
一、西野俣沢 右同弐里程同村領鍋□ヘ当リ檜、雑木立
但同山之内堤ヶ沢樋ノ沢有雑木小柴立安永三午年ヨリ板木沢村萬右エ門三次郎ヘ内仕立見継被仰付罷有候

大沢    右同二丁程小川平沢ヘ当小檜立

仏ヶ沢

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