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村史

第八章 旅行者が見た蓬田村

一、菅江真澄

 藩政時代、松前街道を通って渡道する数多くの旅行者のうちで、旅行記を書いて上磯の風景、風俗、習慣をかいた人はあるが、蓬田のことについて書いた人はいたって少ない。菅江真澄の「外ガ浜づたい」に青森から三厩までの旅行記があり、その中に蓬田のことが書かれている。
 菅江真澄は本名を白井英二秀雄、郷里は三河の渥美郡、その生地は明白でない。天明元年家を出で、信州に入り「久米路の橋」「伊奈の中路」などの記行文を残して、越後から出羽に入り、その後一生涯郷里へ帰らなかった。出羽、陸奥の各地を巡歴し、蝦夷地へもわたったが、おもに秋田、青森、岩手の三県内をこまかく歩いた。菅江真澄の遊覧記は、その土地の人情、風俗をつぶさに写したもので、今日民俗学の宝典ともいわれている。
 真澄翁は、天明五年五月及び天明八年七月に本県を数十日間旅行し、さらに寛政四年から享和元年までの約十年間、本県にとどまり藩から薬草採取を命ぜられた。その間、県内各地を旅行し「率土ガ浜づたひ」、「津軽の奥」、「すみかの山」、「外ヶ浜奇勝」、「雪のもろ滝」、「津軽のつと」等の名著を残している。これらのうち蓬田のことを書いたのは「率土ガ浜づたひ」にある。
 本文は擬古文で書かれているので難解な点があるので、昭和四十一年六月発行の東洋文庫に収められている菅江真澄集第二巻の内田武志、宮本常一共著に「率土ガ浜づたひ」があり、現代文で解りやすく書かれいたので、これを引用掲載する。
 天明八年七月九日
 やませ風つよく吹いたが、日がほのかに照っているので、油川(青森市)の泊を出立して、瀬田糸川をわたった。むかし沢地に鶴が子を生んだが、野火にかかって焼けひろがるのを、愛する子を思う心から飛んできて羽を焼かれ、鶴が羽ばたきさせながら落ちて、ともに死んでしまった。その鳥のあぶらが流れたので、大浜のまたの名を油川というのであるという。鶴神という社が山の左手に見えた。そこに巣をつくったのであろう。十三森をへて十曲川をわたり、田沢、夏井田を過ぎて、飛鳥という浦に出た。連れの人が「きのふといひけふとくらして」とくちずさみながらたたずんで、細い流れで女が物を洗っているのにことばをかけると、「飛鳥川せせの玉藻のうちなひきこころは妹によりけるものを」(万葉集巻十三の相聞歌)ととなえたので、互いに笑ってしまった。瀬戸子などの浜を来ると、例の道つくり(巡検使を迎えるため)で、木の皮の糸で織ったあつしというアイヌの刺繍した着物を着たり、あるいは、この浦の娘らが織ったはなだ(うすい藍色)の麻布に、背中にあたる部分だけをふとい白糸であやにぬいとった衣服(コギンという)を着た男女が大ぜい入りまじり、手ごとにかなべら(金へら)、てんすき(手鋤)、たち、かつさびなど持って群がっていた。
 瀬戸子、奥内、清水、内真部、左堰、小橋、六枚橋などへて、後潟の浦(以上青森市)にでた。
 行人岳(十二岳)というたいそうな高い山が見えた。四斗橋(青森市)、中沢、長科(東津軽郡蓬田村)を過ぎ、阿弥陀川という村があり、小橋がかかっている。
 この流れで、むかし修行者が思いがけなく阿弥陀仏を得て、浪岡村に庵をつくり、仏道を修行したという物語がある。村の境の杭に蓬田村と書きつけてあるのを見ていると、来かかった人が「よごみだ村とあります」と言う。このあたりの浦人は、蓬をよごみというようだ。
 住んだのは誰であったか、大館のあとというのがあった。
 さらに行くと郷沢(蓬田村)という村のあとがある。卯辰の飢饉に、漁をしても魚さえなく、犬を料理したり馬を殺して食ったころ、住む人も死にたえ、家々も焼けてしまったのだという。
 瀬辺地をへて広瀬(蓬田村)というところの細い流れにのぞんで「ひろせ川袖つくはかりあさきをやこころふかめてわかおもへらん(万葉集巻七、読人知らず)と、大和とおなじ地名があるので、ここで口づさんでみて、蟹田(東津軽郡蟹田町)の宿駅を越えると川があった。綱舟をたぐってわたしている。

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二、伊能忠敬の「沿海日記」

 伊能忠敬は下総の生まれ、後佐原の伊能家を継いだ。字は子斎、東河といった。また三郎左衛門といい、晩年は勘解由といった。五十歳で家を長男にゆずり、人生再出発を志して江戸に出で、当時、地理暦法学の大斗、東岡高橋作左衛門に師事した。時に忠敬五十一歳、東岡三十二歳であった。刻苦勉励すること五年、寛政十二年沿岸測量の急務なるを幕府に建言し、容れられるところとなり、直ちに沿岸の測量に着手した。伊能忠敬の測量は、北辺の情勢が最も急迫をつげていたので、蝦夷地からはじめられた。
 本県に関する測量は寛政十二年、享和元年、同二年と三回にわたっている。
      蝦夷先役志(寛政十二年)
 ○五月九日 朝六ツ後より曇天、時々小雨、五ツ半頃より晴れ、暮より曇る。青森朝六ツ後に出立。一里十三丁油川、三里   十九丁蓬田、二里三丁三十七間五尺蟹田、三里十六丁三十間二尺平館、七ツ前に着、止宿、夜少測量、比日蓬田ニ而村   上三郎右エ門殿に途中出会、青森過て村々役人出迎、村々境まで案内
   油川、十三森、庄枝、飛鳥、瀬戸子、奥内、前田、清水、打真部、左リ関、小橋、六枚橋、後方、中沢、蓬田、瀬部   地、広瀬、蟹田、石浜、深トマリ、飛騨屋、杉村、今津、平館
○九月二十日 朝より薄曇、昼小雨、夜は中雨、朝六ツ後三厩出立一里今別村、五里二十丁十五間五尺母衣月中食、比海辺   にシャリ石アリ、今別ノ海辺に津軽石アリ七ツ頃平館村に止宿三厩より村々役人案内
○二十一日 朝より曇天小雨、夜も同、朝七ツ半出立、三里十六丁蟹田、二里三丁三十七件五尺蓬田、比所止宿の家あり、   三里十三丁三十一間青森七ツ半過ニ着、道中労レ少シ病気ニ付、致逗留候間追触を出す平館より村々役人案内、比夜津   軽家之江戸屋舗松野茂右エ門殿より七月十八日出書状比所にて披見

   沿海日記(享和元年)
 ○十一月五日 朝大曇、六ツ半前三厩村出立、一里八丁三十九間今別村、五里二十丁十五間五尺、合六里二十八丁五十四間   五尺、八ツ半頃着、比日度々雪或ハ雹、宿久治郎、比日より宗平病気服薬成さしむ。
 ○同六日 朝六ツ頃平館村出立、三里十六丁三間二尺蟹田村、二里十三丁七間五尺蓬田村、中食、対馬九郎兵衛三里十九丁   八間二尺油川村、一里十三丁三十一間青森町七ツ半頃着、比日風少々度々雪、止宿米町西沢善兵衛、里数合十里二十六   丁二十三間三尺

      沿海日記(享和二年)
 ○八月十三日 朝より晴、六ツ後油川出立。十三森、油川枝郷、家十五軒、右海へ草原二丁、左田、地先は原、夫より小山へ一里余、中山へ二里 田沢村、家二十八軒左右同前 夏井田、海へ一丁斗、飛鳥村寄郷、飛鳥四、五十間 内真部村、家十八軒左右同前 左堰村、家四十五軒左右同 川崎村、浜松村、小橋村、三ヶ村家合六十九軒、斗、左田地七、八丁、名主一人支配、右海へ一丁夫より小山へ二十四五丁 六枚橋村、入口に河はしあり、海へ一丁余家四十軒、左田地、其余も同前 後潟村、七十一軒四戸橋十八軒、合八十九軒四斗橋村、海へ四、五十間又二、十三間 中沢村、家四十二軒海は同前 長科村、中沢村枝郷、家十二軒、右海へ一丁左畑二丁斗夫より先も田地なりしが村々共に卯年より荒地になると云 阿弥陀川村、海へ三、四五、間家二十二軒油川より三里十九丁八間二尺蓬田村、家二十五軒、海へ四、五間、五、六間、左田地卯年より荒地になる 比所休、宿対馬九郎兵衛、馬駅なり 郷沢村、家六軒右三ヶ村合家五十三軒なり、蓬田支配、蓬田村外郷沢入口に而海へ二丁余、人家に而は海へ五、六、七間 瀬部地村、家二十二軒、右海へ五、六間、又二十間斗、比村入口川橋迄村外より土手山の裾を通る、海へ五、六間 広瀬村、入口にはし川、家二十五間、瀬部地の支配、家は道の左右にあり、海へ十五、六間、村外海へ三、四間、左は三、四間土手山 比日汐高し、海際通行し難し小土手山の上通、蓬田より二里十三丁、三十七間五尺 蟹田村、駅次なり 八ツ前ニ着、止宿、近江清六、比夜は中晴、測量。

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三、高山彦九郎の「北行日記」

 高山彦九郎は上野国新田郡細谷村の生まれである。世に林子平、蒲生君平、高山彦九郎の三人を三奇人とよんで名高く、いずれも憂国の志士である。高山彦九郎はつとに露国の南下政策を憂い、自ら蝦夷地の辺海を探ろうと、寛政二年北遊を決行し、龍飛まで行ったが、順風にあわず空しく帰国したのである。
 寛政二年八月二十九日 晦日、晴る、青森の宿リを立ツ、南部産也とて
   哀れ也笠一かいの旅のそら 文山
  と名乗ける、于時によめる
      こたへ参らせて    正之
   あはれとは何をかいわむ行旅の蝦夷か千嶋もふみ越る身に
  とぞ、問屋へ寄りて大町左りの方寺町浄光寺を見て行き左に善知鳥宮を遥拝し、右の方浜町竹野屋へ立寄り一封にし佐瀬左兵衛へ書を寄す。安方町を経る飢年以後原野になりたる所四、五丁家一軒もあらず、侯の米蔵のミ残れり、青森北へ入海を受く、南部の鼻九艘の泊といひ津軽の出崎を平館といふ、其間海上三里の渡り両方の間即チ北に当リて松前箱館の山見ゆるといふ。
 今日は雲懸りて見へず、南部恐レ山は丑の方に見ゆ、二十四、五里といへり、ひらないの崎は五、六里丑の方也、東に当りて吾妻山巽の方高田の岳岩木山は申の方に当る、弘前城下は坤也、安方町を過き古川村にて見たる所也。板橋を渡りて沖館村板橋を渡りて新田を経て大浜町、百軒斗り、飢年以前二百軒余有りしとぞ、青森より壱里乾に来る、大浜一ツに油ラ川共号す。城下より爰を経て青森へ行く十二里有り、加礼沢通にては一里近かし、田沢村、飛鳥村、瀬戸子村、奥内村、前田村、清水村を経て内真部村宅地跡荒果てゝ見ゆ、餓死の跡なるよし、左堰村板橋を渡る、小橋村大浜より二里有り北へ来る。板橋を渡りて六枚橋、後潟村、是レより東の方ひらないの鼻へ船行三里余、其ノ北になつどまりの鼻とて有り小嶋見ゆ、中沢村、長科村、蓬田村、荒地或は原野を経て行く事一里、瀬部地村板橋有り、左に山をなし右に海を見て行く、八丁斗り広瀬村、二十間斗の板橋を渡る町並也、是レより左り岸壁を見浜を経る、瀬部地より一里にして蟹田宿也、戌の刻に及んで宿りに就く、宿次三吾案内にて甚八所に宿す、大浜より都て右に海を見て北に来る事五里、青森より六里の所也、飢年前には比所家数百四、五十軒、今は七十軒斗といふ、津軽中四、五ヶ一も残れるなるべし、田地も四、五ヶ一残れりといふ。酒こなど未にこの字を付る所也。

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