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第四章 津軽藩政時代

第一節 外ヶ浜の統治

 津軽為信は天正十三年、奥瀬善九郎、堤弾正左衛門、土岐大和之助、蓬田越前を亡ぼし外ヶ浜を平定して後、横内鏡城に城番十人衆をおき、油川には外ヶ浜代官阿部牛之助を派遣して、その区域を支配せしめた。慶長元年為信は津軽六郡を平賀、鼻和、田舎の三郡に分けた。さらに信政の寛文四年に郡を荘と改めた。三郡と三荘との境界は大体において同一であるが、一部の村落を入れかえた。
 また従来行政上、地域毎に十五の遣をおき統括していたのを、貞享四年、総検地が終ると遣を組とし、二十五組に分けた。組が増加したのは新田村が増えたためで、これから浦町横内、油川後潟の組が分かれ、さらに浦町組、横内組、油川組、後潟組となった。元文二年木作、金木、俵元の三新田を加えて津軽領内は二十八組となり、この組分は廃藩迄変化はなかった。
 後潟組は左の三十七ヵ村に小国三ヵ村を合せ四十ヵ村を以て組織されていた。
  後潟、瀬戸子、奥内、前田、清水、赤川、内真辺、左堰、浜松、河崎、小橋、六枚橋、大橋、四戸橋、中沢、長科、蓬田、阿弥陀 川、郷沢、瀬辺地、広瀬、板木沢、蟹田、中師、石浜、野田、今津、平館、石崎、根岸、今別、大川平、三馬屋、浜名、鍋田、増川、 松ヶ崎
  小国新田
   小国、南沢、山本
 津軽藩の職制は家老、用人、郡奉行、町奉行、勘定奉行などあって政治を担当していた。これらの役人は弘前藩庁にあって政治をみていたが、直接庶民を接触していたのは代官、手代、名主、庄屋、月行事、五人組である。代官は郡奉行の支配下にあり、郡中を前述の二十八組に分けていたので、一組に二人ずつ交替して、その組に行き事務をとった。油川両組に代官二人いて油川組、後潟組を支配していた。代官の補佐役に手代があった。手代は組内の重立中から人材を選んだ。 名主、庄屋は古くから村の長の役名で、元は肝煎と称した。これにあたる人はその村での家柄のある人で、普通は村の開拓者があたっていた。月行事は名主、庄屋の下にいて細い世話をする人で、月毎に代るから月行事といった。もとは三郷といった。名主、庄屋の区別は津軽藩では町は名主、農漁村では庄屋といった。
 庄屋数人の上に大庄屋があり、代官と肩をならべて地方の行政をつかさどった。藩政時代の下部組織に五人組制度があった。近隣の五戸を一組として、互に連帯責任を以て火災、盗難、浮浪人、キリシタン宗徒等の取締に任じた。津軽藩の五人組制度は寛文年間以前からあった。文化五年になってから強化されて、向う三軒両隣を五軒組合と称し、この五つを合わせた二十五軒のうちから適任者を選び、五人組頭一人をおいた。この外に郷士があった。郷士は武士の格式を与えられながら、一般の農民と同様な生活をしていた。その外に藩主から土地や扶持米を給せられ藩士として格式と義務をもって在宅していた。
 郷士は文筆ができるから手代などを勤め、代官の次にあり、庄屋がその下にあった。しかして万一の場合には真先に徴募せられる義務があった。

第二節 後潟組と代官

 奥瀬氏の没落後、外ヶ浜に派遣されたのは阿部牛之助で、外ヶ浜代官となって油川にいた。油川代官は府間与右衛門、佐藤与次右衛門と続き宝暦年代以後は油川後潟両組代官となって、相馬市郎兵衛、樋口庄蔵が任命されている。宝暦以後の代官については文化元年、青木彦兵衛編の「積載箚記」に記載されている。同書は油川組、浦町組の代官及び郷士、手代について記載しているので参考のため全文を掲げる。
 同書は任命された代官の総てでない。特に延宝二年の佐藤与次右衛門以降、宝暦十一年相馬市郎兵衛が任命されるまでの代官が不明である。宝暦五年には諸組代官残らず引取になり、在々の重立をもって大庄屋に取立て、宝暦十一年まで継続したが、失敗に終り結局以前の代官制度が復活した。同書は宝暦以後の代官氏名である。外ヶ浜代官は四、五名の例外があるが、大体一年交替のようである。この間浦町組、横内組、油川組、後潟組ノ四ヵ組が混一にして油川役所に詰めていた。
 油川の代官役所が下町にあった。極めて狭い建物で、そこに一名の代官が宿泊し、事務室には手代がいて事務をとっていた。
     文化元年「積載箚記」青木彦兵衛編
  宝暦年中御郡中御代官七人在之、重立大庄屋被仰付、油川後方両組今別中嶋久兵衛、油川西田三郎右衛門、中沢吉田喜兵衛、浦町 横内両組油川窪田七三郎、浦町三上右衛門相勤候所同十一巳年大庄屋引取古来之通被仰付、夫より已来米御代官御名前左に
一、宝暦十一年辛巳年          相馬市郎兵衛
                    樋口庄蔵
一、同  十三癸未年 樋御代り    棟方弥五兵衛
一、明和  元甲申年 相代り      木村美司
一、同   三丙戌年 棟御代り     浅田甚之丞
一、同   六己丑年 浅御代り     花田九八郎
一、同   七庚寅年 木御代り     一戸茂左衛門
一、安永  三甲午年 御一人勤     工藤久左エ門
一、同   五丙申年 右御代り九八郎様御改名
                    花田九左エ門
一、同   七戊戌年 右御代り     赤石安右エ門
一、同年                石戸弥左エ門
一、同   八己亥年    竹内長左エ門
一、天明  元辛丑年 御揃代り     成田祐右エ門
                    和嶋勘七
一、同   二壬寅年 成御代り     福田勘兵衛
一、天明  三癸卯年 和御代り     笹森権蔵
一、同   四辰年  御揃代り     戸田与左エ門
                    佐藤林之丞
一、同   五乙巳年 戸御代り     福真伴左エ門
一、同   六丙午年 福御代り     須藤清次郎
一、同   七丁未年 御揃代り     今善之丞
                    菊池慶左エ門
同年外ヶ浜四ヶ組混一大庄屋取立被仰付、其後寛政元己酉年一統引取被仰付七五郎の名前
           油川後潟組    中嶋久兵衛
                    西田三郎右衛門
           浦町横内組    鹿内瀬兵衛
                    小泉久兵衛
                  以上
一、寛政  元己酉年 御揃代り     橋本兼次郎
                    荒木関宇八郎
一、同   三辛亥年 橋御代り     工藤十内
一、寛政  三辛亥年 荒御代り    和島丈右エ門
一、同年       工御代り     乳井定市
一、同   六甲寅年 乳御代り     伊東富太郎
一、同年       御揃代り     花田幸之介
                    佐野伴蔵
                    久慈新五兵衛
  同年四ヶ組混一御取扱被仰付浦町役屋引取当役所江詰合之節之手代名前左之通り
           高田村      斉藤伝蔵
           荒川村      川邑四郎左エ門
           宮崎村      千葉六郎次
           幸畑村      佐藤又吉
         加勢戸山村      奥瀬嘉兵衛
一、寛政  七乙卯年 花御代り     吉村理右エ門
一、同年  十二月  吉御代り     工藤元衛
一、寛政  八丙辰年 佐御代り     須藤孫蔵
一、同年 二月   久御代り     山形甚之介
一、同年 十一月   山御代り     佐野伴蔵
一、同年  十月   工御代り     成田寅之介
一、同年 十一月   半御代り     成田形内
  同十戌午年外ヶ浜四ヶ組引分被仰付、佐野伴蔵様成田形内様御引取寅之介様御一人御残路御組合
一、同   十戌午年十一月       半田忠左衛門
一、同十一己未三月           佐野伴蔵
  公儀方御用多に不又々当組被仰付御三人に而御勤之所翌申年御役替に而御引取
一、同十二庚申年四月 成御代り     須藤孫蔵
一、寛政十二庚申年十月 半御代り    三浦左太夫
一、享和 元辛酉年八月 三御代り    一戸彦右エ門
一、同  三癸亥年二月 須御代り    織田藤司
一、文化 元甲子年十月 一御代り    神八郎右エ門
  同二乙丑年八郎右エ門様浪岡江御組替藤司様御一人御残又々外浜四ヶ組混一御取扱被仰付浦町組御預御両人御加ヘ御三人勤御名前 左に
一、文化二乙丑年二月          小林専太郎
  同五戊辰年四月浪岡江御組替被仰付候
一、同年同月              森岡弥源太
  同五戊辰年四月十二日 小、森御代り 平井門次郎
  是迄藤司様専太郎様弥源太様御三人組合四ヶ組混一之処又々引分被仰付、専太郎様浪岡組江藤司様御残り門次郎様と御組合
一、文化六己巳十一月  織御代り    今井良作
一、同 七庚午 二月  平御代り    半田忠左エ門
一、同 九壬申 三月  四ヶ組御三人勤被仰付園多様浦町御勤也  対馬園多
一、文化十癸酉 四月  半御代り    乙部忠助
  園多様良作様忠介様御三人組合四ヶ組御取扱の処文化十酉八月四ヶ組引分園多様浪岡江良作様浦町江忠介様御残り半蔵様と御組合
一、文化十癸酉 八月  今、対御代り  山崎半蔵
一、文化十二乙亥年十二月        山崎半蔵
  但十二月二十九日外ヶ浜四ヶ組混一に御取扱被仰付御三人勤に成 今井良作
                                乙部忠助
一、文化十三丙子年十一月 山、今御両人御代り
                    平井門次郎                
成田長太郎
  但山崎半蔵様と今井良作様と御組替に而乙部忠助様御残り門次郎様と長太郎様と御三人御組合にて四ヶ組御勤
一、文化十四丁丑十月迄         平井門次郎
                    成田長太郎
                    乙部忠助
  但右御三人御組合之所乙部様御組替に而木作組へ御出右跡へ則十一月七日毛内民作様被仰付之所御献上の串鮑の儀に付御呵被仰付 御役下に相成同十二月十八日御引取被仰付候
            乙御代り    毛内民作
一、文化十五戊寅年十二月十八日平井門次郎様御手廻り格勘定奉行手伝被仰付候に付跡御組合左に
                    成田長太郎
            毛御代り    和嶋伝助 
            平御代り    今井良作
一、右同三月八日今井様御組替に而外ヶ浜へ被仰付
一、右同四月二日又々先年之通四ヶ組御振分御取扱被仰付候に付浦町二ヶ組ハ和嶋伝助様今井良作様御両人当両組之儀ハ左に
            孫八様より改名 成田長太郎
一、御台所奉行より御役替        米橋清蔵
                    成田長太郎
            米御代り    鳴海律右エ門
一、文化元戌年七月七日に被仰付候
  同四月大鰐に御組替
一、同月成田様御組替  鳴御代り    野呂才吉
  文化四辛巳十一月九日 野御代り   工藤章作
                    左兵衛と改名
一、同五壬午年四月七日  工御代り   清藤俊蔵
  同八乙酉年二月十三日浪岡組へ御組替に成
一、文政八乙酉年二月十三日
  清蔵様と御入替大間越町奉行に被仰付候
一、文政十丁亥年九月   成御代り   奥瀬和次郎
一、同十一戊子年正月   奥御代り   相馬粛左エ門
一、同     十月   相御代り   神喜伝
一、同十二乙丑年二月   神御代り   佐藤兵八
一、同十三庚寅年八月   佐御代り   大沼又太郎
  大鰐組に御組替
一、天保四癸巳年十月   大御代り   川田権作
一、同 五甲午年七月   神御代り   工藤小助
一、同年天保八丁酉年七月御引所 川御代り 大沼又太郎
一、同 六乙未年正月   工御代り   藤岡与右衛門
  浦町組江御組替
一、同年      五月 藤御代り   佐藤虎之助
  駒越組と御組替
一、同七丙申年十二月   佐御代り   菊池又一
  同八丁酉七月御引取
一、同八丁酉年七月    大御代り   金慶司
  子正月二十四日引取
一、同年    八月   菊御代り   山内忠司
  藤崎組江御組替
一、同 九戊戌年三月   山御代り   小野房吉
一、同年   閏四月   小御代り   山田仁兵衛
  戌八月藤代組江御組替
一、同年    八月   山御代り   中田剛次郎
  亥年三月御代官引取
一、同 十己亥年三月   中御代り   野呂謙吉
  同十五年申辰年三月外ヶ浜四ヶ組取扱被仰付候浪岡組江御組替
一、同十一年庚子年正月二十四日 金御代り 福士熊司
  天保十五年辰三月藤崎三組江御組替
一、同十五甲辰年三月   熊御代り   工藤喜右衛門
  浦町両組相勤之処此度当両組合四ヶ組御扱被仰付野呂様と御組合二人勤、酉四月浦町組江
一、同年十月二十七日   野御代り   藤岡永作
  浪岡組より当組へ藤崎組江御組替
一、同年同月 三十日   藤御代り   福士熊司
  藤崎組より当組江弘化三丙午六月十二日和徳組江御組替
一、弘化三丙午年六月十二日 福御代り  山形藤助
  和徳組より当組江御代官は御免願之通り被仰付候事
一、同年六月十七日    山御代り   外崎要吉
  慶応三丁卯年十二月野内町奉行被仰付候
一、嘉永二己酉年四月   工御代り   長谷川仙次郎
  最近四ヶ組混一御扱の処今度御引分被仰付工喜様浦町組江右御跡に御組替被仰付外崎様御組合御二人勤

一、同年   七月    長御代り   宮田角左エ門
  外、長御両人当両組御扱工喜御一人、花田斧弥様御組合にて浦町組御扱なれども公儀方異国船方は御用向四ヶ組抱合にて勤方被仰付混一同体也、浦ノ工代今杢左エ門様也
一、同五壬子年四月十九日 宮ノ御代り  小野純蔵
  木造組より当組へ文久元年酉年十二月大鰐江御組替被仰付候
  八年間記載なし
一、文久元辛酉年十二月  小ノ御代り  須藤勝五郎
  文久二壬戌年九月浪岡三組江御組替被仰付候
一、同二壬戌年九月    須の御代り  鳴海謙六
  和徳組より当組江文久三癸亥年五月浦町江御組替
一、同三癸亥年五月    鳴ノ御代り  芹川甚次郎
  浦町組より当組江
一、慶応元乙丑年十一月  芹ノ御代り  高木岩五郎
一、同 二丙寅年 四月  高ノ御代り  長谷川良八
一、同 三丁卯年十二月  外ノ御代り  外崎貞作
一、明治元戊辰年十二月  長御代り   成田滝弥
  浪岡三ヶ組より長良様御代り鎌田小左エ門様当組江被仰付候処御下り無之右組江居勤之旨に而赤田組より当組江成滝様被仰付同二年二月二十九日右赤田組へ組替被仰付候
一、同二己巳年正月           斎藤覚兵衛
  大非常方に付成滝様外貞様御三人勤に而後同人様御代官御加勢に而当組江被仰付候
一、同年二月晦日     成御代    佐藤貞輔
  和徳組より当組江組替被仰付、同年六月二日金木四ヶ組江組替被仰付候
一、同年四月十六日           鎌田小左エ門
  浪岡より当組江組替被仰付、佐貞様組替被仰付、佐貞様外貞

様鎌小様御三人勤之所、非常落着外貞様藤代組江御組替之上御両人勤に被仰付候
一、同年六月晦日     佐御代り   笹森勇太郎
郡政調方手伝に而当組江被仰付、此度は改革に付御代官を郡政調方と御役名御改被仰付候

第三節 後潟組と手代、郷士

 代官の補佐役として事務一切をきりまわしているのが手代である。手代は後潟、油川組の重立が選ばれた。宝暦十一年から明治二年まで左の十七名が選ばれた。本村からは中沢村の鳴海伊右衛門、同村の吉田佐太郎、蓬田村の武井安左衛門が手代に選ばれている。

      宝暦十一辛巳より御取立被仰付候手代名前
 一、岡町          蝦名善右衛門
 一、小橋          工藤嘉右衛門
 一、石神          石塚伝次郎
 一、六枚橋  鳴伊代り   沢田宗左衛門
 一、中沢   芳四代り   吉田佐太郎
 一、左関   蝦武代り   工藤義三郎
 一、石神   兄伝次郎代り 石塚次郎兵衛
 一、沖館   石次代り   浅利建次郎
 一、油川   親宗兵衛代り 館田宗兵衛
 一、中沢          鳴海伊右衛門
 一、油川          芳賀四郎左衛門
 一、岡町          蝦名武右衛門
 一、油川   工嘉代り   館田宗兵衛

 一、奥内   吉佐代り   館田兵太郎
 一、四戸橋  澤宗代り   千嶋伊右衛門
 一、蓬田          武井安左衛門
 一、通勤   武安代り   館田兵太郎

 手代は原則として常勤を命ぜられていた。扶持十五俵給せられていた。郷士は武士で農村に在宅し、藩主から土地、扶持を給せられ兵治は農耕に従事しているが、戦時には武士と同じく軍務に服する義務があった。郷士に武士の外に治水、献金、植林等の功労によって郷士たるの資格が与えられた人が多く、代々郷士、一代郷士、並郷士の区別があり、帯刀が許され年頭御目見得の特典があった。
 郷士は文筆に長じ、手代を拝命、代官の次ぎに位している人が多かった。阿弥陀川村の青木彦兵衛は寛政七年五月に、中沢村の坂本久太郎は寛政十年に、蓬田村の武井安左衛門は文化元年に、中沢村の坂本甚吉は文政元年に、蓬田村の吉崎忠右衛門は文政七年に、蓬田村の対馬九兵衛は天保七年に、中沢村の坂本常蔵は明治二年に何れも手代役仰せつけられ郷士格であった。
 なお蓬田村の対馬九郎兵衛は御献上煎海鼠仕立仰せつけられている。青木彦兵衛編「積載箚記」により油川、後潟両組の手代、郷士をあぐれば左の如くである。
 一、小橋村
  工藤嘉右衛門
   天明七未年再勤、寛政元酉年郷士仰せつけられ、同二年戌年退役
 一、六枚橋
  沢田宗左衛門
   天明八申年再勤、寛政三亥年郷士仰せつけられ、同七卯年三月退役、同十一未年二月又々再役被仰付、文化元子三月壱貫五百文御賞被仰付退役
 一、羽白村
  工藤基次郎
   寛政元酉年手代本役、文化二丑年十二月郷士被仰付、同四卯年五月退役
 一、四戸橋村
  千嶋伊右衛門
   寛政二戌年再役、同十年十二月郷士被仰付、同十一未年十月退役
 一、細越村
木村小兵衛
   寛政四子年手代被仰付、同七卯三月退役、同十一未十一月普請役、文化元子三月一統引取被仰付
   寛政六年寅八月油川村源十郎隠津出致候所小使三四郎と申者取押へ、孫十郎並其外数人いたみ候趣不得止事。
   即夜詰合沢田宗左衛門、館田宗兵衛、木村小兵衛添心の上内済の所、間もなく露顕致不取締の旨被仰付、右三人親類預、孫十郎同類の者入牢、翌卯三月御刑法相極り其節右三人手代御取放被仰付候、小使三四郎右同断
 一、油川村
  西田源七
   寛政六年寅九月手代、同七卯三月御免
 一、浪館村
  手塚助次郎
   寛政六年寅九月手代、文化二丑十二月郷士被仰付、文化六己巳六月御賞壱貫文被仰付、手代退役
 一、阿弥陀川村川村彦太郎改名
  青木彦兵衛
   寛政七年卯五月手代、同十一未年三月郷士被仰付、文化四年四月御手始御目見得被仰付、文化五辰六月御賞一貫文被下手代御免、文政元年五月願之通り郷士御免
 一、左関村
  相馬喜右衛門
   同年卯十二月加手代、同八辰九月御免、同十一未九月普請役、同十一公儀方手代被仰付、文化七正月郷士、文化七午十二月手代引取被仰付、同十一戌年郷士御免
 一、内真部村
  松代勘兵衛
   寛政八年辰九月加手代、同十一年未正月本役被仰付候得共老年難出勤旨申立御免、同十三酉年、開発方仮手代被仰付文化元年子十一月御免、尤生涯帯刀御免被仰付候
 一、油川村再役
  館田宗兵衛
   寛政十午四月加手代、同十一未普請役、同九月手代本役、文化元子二月退役、同七年三月開発方被取扱、文化十一戌十一月郷士、同年十一月本役、文政元年十二月手代御免、郷士並開発方取扱、是迄之通
 一、戸門村
  相馬常次郎(甚郎左衛門と改名)
   寛政十午四月加手代、同十一未二月普請役、同十一月手代本役、文化七午正月郷士、同九年申三月御賞一貫文被下御免、文政元寅十二月再勤、同十一子五月年頭御目見被仰付天保六乙未年二月病死
 一、六枚橋村
  沢田和次郎(赤平と改相済、赤平丈左衛門と改名)
   寛政十一未十一月公儀方手代被仰付、文化七年正月郷士、文政二乙卯十一月年頭御目見被仰付、天保七丙申五月二十七日為御賞鳥目二〆文被下並手代御免、天保八丁酉年十一月再勤被仰付候
 一、中沢村
  坂本久太郎
   右同年同月公儀方手代、享和二戌五月御用間に付鳥目一貫五百文御賞被下置退役、同三亥十月小兵衛病気に付普請役加勢、文化元子三月諸組一統普請役引取被仰付、即月加手代、同二年二月本役
 一、大川平村
  平山嘉兵衛
   寛政十一未十一月公儀方手代、享和二戌五月公儀方御用間に付御賞として鳥目一貫五百文被下置引取被仰付候
 一、蓬田村再役
  武井安左衛門
   寛政十一未十一月普請役、文化元子三月諸組一統普請役引取被仰付、即月加手代被仰付、同二丑正月開発方被仰付、文化四卯五月手代本役被仰付、文化七午十二月引取被仰付候
一、新城村
  坂本直右衛門
   文化四卯五月開発方仮手代被仰付、同五辰六月本役被仰付候、文化四卯年十月二十六日御呼上に而於御郡所開発方惣組一統引取生涯帯刀御免被仰付候、文政元戊午七月二十八日御免願之通り引取
 一、新派
  佐々木甚右衛門
   文化五辰二月仮手代、同六巳六月手代本役、文政五午年十二月郷士、同十三寅十月手代病気に付御免願之通り引取 一、細越村
  前田忠蔵
   文化六巳六月仮手代、同九申三月手代本役、同十酉十二月病気に付御免願之通り引取
 一、新城村
  有馬三郎兵衛
   文化八未八月開発方下取扱被仰付、同十酉年十二月引取被仰付候、文政三庚辰年三月並木見継役被仰付候
 一、鉄吹小頭左関村
  工藤吉太郎
   文化十一戌四月加勢、同十四子三月二十五日願の上引取被仰付候
 一、油川村
  田中仁太郎
   文化十一戌五月加勢、同十二亥十二月十一日本役被仰付候同十五寅ノ二月二十四日願之通り引取被仰付候
 一、細越村
  木村平吉
   天保九戌年四月役儀取放被仰付候、文化十四丑三月二十二日仮手代被仰付候、同十五午二月本役被仰付候、天保三辰四月並一代郷士被仰付候、同六年未六月御目見郷士被仰付候、天保八年酉十二月手代引取被仰付候
 一、後方村
  靄谷定吉
   同四月五日仮手代被仰付候而同十五寅年二月二十五日願之通り引取被仰付候
 一、後方組
  吉田忠太郎(森と改相済)
   文化十五寅年二月二十五日定吉引取跡へ則日付に而仮手代被仰付候、文政元午十二月本役、文政五壬午年二月六日病死
 一、戸門村
  相馬常次郎(甚郎左衛門と改名)
   同二月二十七日田中仁太郎引取跡へ当分之内仮手代被仰付候、文政元午年十二月本役、天保六未年二月病死
 一、中沢村
  坂本甚吉(久太郎改め)
   文化十三丙子三月十八日御免願之通、尤数年出精相勤候に付生涯帯刀御免被仰付引取、文政元戊午七月三十日手代本役被仰付候、文政六癸未年四月十二日郷士被仰付、則日手代御免
 一、油川村
  館田要吉
   文政二己卯年三月十八日本役被仰付候、文政六未年九月二十九日病気に付願之上手代御免被仰付候、文政九丙戌年三月二十八日開発下取扱被仰付候、同十一子年三月御免
 一、四戸橋村
  工藤小治郎(運治郎と改名)
   文政二己卯年六月開発下取扱被仰付候、同九月朔日後方組牛馬扱被仰付候、文政五壬午年三月朔日牛馬役引取、開発兼手代本役被仰付候(森忠太郎病死跡江)
 一、蓬田村 工運代り
  吉崎忠右衛門(忠次郎と改名)
   文政五壬午三月十日後方組牛馬取扱被仰付候、同七申八月二十日手代本役被仰付候
 一、小橋村 吉忠代り
  工藤与吉郎(吉郎左衛門と改名)
   文政七甲申年八月二十日後方組牛馬取扱被仰付候、同十三寅八月九日仮手代被仰付、同十月手代本役被仰付候、天保六乙未年六月二日郷士被仰付、天保十己亥十二月十五日手代御免被仰付候
 一、六枚橋村
  赤平左十郎
   文政十二己丑年後方組人別取扱被仰付、天保十亥年十二月手代被仰付、嘉永元申年引取、同六癸丑年八月手代被仰付、安政四丁巳年正月並一代郷士被仰付、慶応四戊辰年四月年頭御目見被仰付、明治二年己巳二月手代引取、同年九月病死
 一、三内村
  渡辺弥惣司
   文政二卯年二月二十五日漆守被仰付候、天保十三壬寅四月郷士、天保六乙未十月於御郡所御酒御吸物頂戴、天保乙未四月二日手代本役被仰付候、天保十己亥年六月二十八日並一代郷士被仰付、安政四巳年正月病死
 一、油川村
  平井治郎兵衛
   天保五午四月並一代郷士御取立被仰付、同六未六月後潟組手代本役被仰付候、病死
 一、蓬田村
  対馬久兵衛
   天保七丙申五月後方組手代被仰付候、天保六乙未十月並一代郷士被仰付候、天保十一子十月病死
 一、平館村
  北田柾吉
   天保四癸巳年九月仮手代被仰付候、天保六乙未年十月並一代郷士被仰付候、天保七丙申年六月仮手代兼牛馬取扱被仰付候、天保八丁酉年十一月仮手代引取
 一、新城村
  増川嘉七
   天保五甲午年十二月朔日開発下取扱被仰付、天保戊戌年六月二十二日手代本役被仰付、文久二卯年御免被仰付候
 一、滝村 才助事
  天保六未年四月牛馬取扱被仰付候、天保十己亥年十二月十五日手代本役被仰付、文久二壬戌年三月引取被仰付候
 一、袰月村
  小倉重兵衛
   天保六乙未年六月五日御目見郷士被仰付候
 一、油川村 文吉事
  三上重郎兵衛
   天保十三壬寅四月二十二日店頭御目見代々郷士被仰付候
 一、細越村 又吉事
  木村小兵衛
   天保十三壬寅四月並一代郷士被仰付候
 一、袰月村
  小倉四郎兵衛
 一、小橋村
  工藤勝弥
   天保十一子年十二月手代役被仰付候、文久二壬戌年二月並一代郷士被仰付、手代是迄通り
 一、後方村
  工藤甚十郎
   嘉永元戊申年十一月手代役被仰付候、同六癸丑年八月引取安政二乙卯年二月手代本役被仰付、慶応四戊辰年正月並一代郷士被仰付、明治二己巳正月手代引取
 一、細越村
  木村用助
   安政四丁巳年三月十二日手代本役被仰付、文久元辛酉年四月十八日漆役被仰付
 一、小橋村
  工藤直吉
   安政三丙辰年八月公儀仮手代被仰付、同五戊午年十二月海岸御締方掛り合被仰付、同六己未年六月十七日漆役被仰付文久二壬戌年正月並一代郷士被仰付候
 一、滝村 親才助代り
  中村豊次郎
   安政三丙辰年八月公儀方仮手代被仰付、同五戊午年十二月海岸御締方掛り合被仰付、万延元庚申年六月病気に付海岸方掛合御免願之通り、文久四年甲子年二月手代役被仰付候
 一、油川村
  工藤平作
   文久二壬戌年四月公儀方仮手代海岸締方被仰付、明治二己巳年正月引取被仰付候
 一、左関村
  福岡己八
   安政三丙辰年八月公儀方仮手代被仰付、同五戊午年十二月海岸御締り方掛合被仰付、文久二壬戌年三月引所而被仰付慶応二丙寅年二月漆役被仰付
 一、内真部村
  井上円次郎
   安政五戊午年七月公儀方仮手代被仰付、万延元庚申六月海岸御取締方掛り合被仰付候
 一、瀬戸子村
  佐々木友吉
   安政五戊午年三月油川両組牛馬取扱被仰付
 一、左堰村
  横山伝助
   安政三丙辰年漆役被仰付、同六己未年六月高十石漆役御免引被仰付
 一、鶴ヶ坂村
  浅利甚作
   安政六己未年六月漆役被仰付
 一、中沢村
  坂本常蔵
   安政六己未年漆役被仰付、明治二己巳年十二月手代被仰付候
 一、三内村
  渡辺庄右衛門
   文久元辛酉年四月漆役被仰付
 一、左堰村
  東弥八郎
   文久元辛酉年四月漆役被仰付
 一、蓬田村
  対馬九郎兵衛
   御献上煎海鼠仕立方
 一、工藤佐吉郎
  天保十五甲辰年鉄吹小頭被仰付
 一、後潟村
  佐々木源治郎
   万延元庚申十二月楮仕立掛り合被仰付候
 一、新城村
  竹内舛右衛門
   文久二壬戌年三月楮仕立掛り合被仰付候
 一、細越村
  木村喜平太
   文久二壬戌年三月楮仕立掛り合被仰付候
 一、羽白村
  嶋田庄之助
   慶応二丙寅年十月公儀方仮手代海岸締り方被仰付慶応四戊辰四月病死
 一、瀬戸子村
  斎藤孫太郎
   文久四甲子年二月公儀方仮手代海岸締方被仰付候
 一、左堰村
  土岐慶司(五郎兵衛と改名)
   明治二年己巳二月手代被仰付候

 明治二年にいたり世の変革に伴って、代官、手代の役名が廃止となってから、帖合方と唱えられた。給与も十五俵から十俵となった。

第四節 蓬田村の庄屋

 名主、庄屋は村の頭の役名である。これにあたる人はその村の家柄のある人で、普通は村の開拓者があたっていた。本村の庄屋については資料がないので明らかにすることができないが、保存されている記録によって左の庄屋をあげることができる。
 年号     村名    庄屋名
 貞享三年   郷沢村   彦左エ門
 (貞享三年 郷沢村御蔵給地田畑屋舗其他諸品書上帳)
 明和三年   板木沢村  万左エ門
  (明和三丙戌年 諸木植付并見継山留帳)
 安永七年   中沢村 佐五左エ門
  (安永七戊戌年八月 中沢村長科村畑方銀納仕上ケ留帳)
 寛政七年   中沢村   佐五左エ門
  (寛政七己卯年 外ヶ浜中沢村田方御調帳)
 文化八年   広瀬村   長三郎 代庄屋
  (文化八年 後潟組瀬辺地村貞享御元高并新高共増減調帳)
 文化十一年  中沢村   嶋右エ門
  (文化十一甲戌年 後潟組中沢村長科村戌年新屋鋪御検地帳)
 文化十四年  中沢村   平介 代庄屋
  (文化十四丁丑年後潟組中沢村長科村畑方丑歳試開発人別書上帳)
 文政八年   長科村   甚左エ門
  (文政八乙酉年 後潟組中沢長科両村田畑諸品成減帳)
 天保十五年  中沢村   房五郎 代庄屋
  (天保十五甲辰年 後潟組中沢長科両村本免仕付兼給地案内帳)
 寛政四年   長科村   久兵衛
  (後潟組長科村銀納二十ヶ一御備銀人別取立帳)
 安政五年   中沢村   喜兵衛
  (後潟組中沢長科両村岸焼并秣場萱仕立場所調書上帳)
 万延元年   中沢村   甚助
  (後潟組中沢長科両村岸焼并秣場萱仕立場処調書上帳)
 文久四年   瀬辺地   太左衛門
  (後潟組瀬辺地広瀬両村漆木根付木并寄苗共取調書上帳)
 他に年号不明なるも、御山処書付留に代庄屋与太郎、中沢村代庄屋弥惣と書かれている。

 以上の他に坂本義徹氏が庄屋、手代を調査したのによると左の如くである。職名、大字名が不明であるが、参考のため掲載す。
   庄屋、手代
 年号     職名   大字名   氏名
 宝暦     手代   中沢    吉田喜兵衛
 宝暦     庄屋   同     同
 明和          長科    張間佐右エ門
 安永          同     同
 安永                万右エ門
 天明     長科    張間佐右エ門
 寛政          中沢    坂本兵吉
 同           同     坂本久兵衛
 文化二年              吉田藤三郎
 同                 忠兵衛
 文化七年              坂本嶋右エ門
 文化九年              藤右エ門
 文政二年              坂本平助
 文政四年              甚左エ門
 文政十一年             彦太郎
 天保                同
 天保二年              仁左エ門
 天保三年              坂本嶋右エ門
 天保                三上権十郎
 天保十四年             坂本房五郎
 同                 坂本久太郎
 安政六年              幸次郎
 万延                吉田甚助
 文久                太左エ門

 明治三年              甚助
 明治八年   村用係        青木三之助
 同      戸長         青木熊之助
 明治十二年  戸長 久慈丑松
 明治十六年  同          須藤亮平

第五節 検地と蓬田

 津軽為信が津軽一円を統一して石高四万五千石と検地されたのは文禄元年で、豊臣秀吉が東奥巡検使として前田利家、同慶次利大、同孫四郎利政、横目片桐且元、小野木縫殿助の五人を雑兵一万とともに下向せしめ、四月初旬から七月下旬までの四ヶ月の永きにわたって、藩内を踏査検地してからである。
 巡検使一行は羽州秋田から当領に入った。秋田孫十郎が誘導し、利家卿は大浦城に、慶次、孫九郎は堀越城に、片桐、小野木は浅瀬石城に宿り津々浦々を巡検し、境界を定め、七月二十一日帰途についた。巡検とは、表面上の理由で内実は津軽藩が九戸政実の乱に政実を援助した疑いがあったからであるという。検地の結果、前述のとおり四万五千石と決定し、藩内の農村落は百三十三ヶ村あった。この時の外ヶ浜の村落が左記のとおりで蓬田村が記載されているに過ぎない。
 外ヶ浜
  三百九十一石一斗 新城村   百三十二石九斗  細越村   二百五十一石九斗 荒川村
  二百十石七斗   原別村   二百三十一石三斗 野内村 十八石九斗    浅虫村
  三十六石九斗   堤村    十石一斗     野内村 二百二十石二斗  新田村
  百十四石     茂浦村   三百十四石七斗  油川村   二百八十六石四斗 山口村
  三百十石三斗   田沢村   五百十石     小湊村   二百十四石    瀬戸子村
  百四十二石    童子村   四百六十七石一斗 蓬田村
   〆高三千九百六十三石五斗 村数十七ヶ村          (津軽平野開拓史)

 この文禄元年、前田利家の検地したときの村落と、これより五十年前、天文十二年浪岡北畠家が調査したといわれている郡中名字に現われた村落と比較してみると、いかなる理由か郡中名字に書かれている村落で、文禄の検地に書かれていない村落が多数ある。例えば上磯では瀬戸子村以北の村落、東外ヶ浜では二十折(高田村)、駒込村、長峯村などで天文年間にあった村の欠けているのは、いかなる理由かわからない。
 特に外ヶ浜では蓬田村があるが、中沢村がない。中沢村について前述せる如く、建武二年三月十日、外ヶ浜野尻の郷及びその付近の地が工藤貞行に与えられて間もなく、内真部を中心とする上磯の諸村は、南部師行に与えられたことは南部文書にある。同文書に泉田、湖方、中沢、真板、佐比内、中目等の村々が師行に与えられ、泉田は蓬田、湖方は潮方の誤字でないかと史家がいっている。しかし中沢村だけは明瞭に書かれ、当時存立した古村であるにも拘わらず、文禄の検地帳に現われていないのは如何なることかわからない。中沢村が津軽藩の検地帳にはじめて見えたのは、寛文四年の検地帳である。文禄年間から七十二年後である。津軽藩で為信が津軽全部を統一してから、代々鋭意新田の開発に努力し、原野、沼地で田畑に適した土地は民をして開発せしめた。新田村は各地に発生したので、その状況を調査するのと同時に、租税徴収の基礎帳簿を作制するために、度々検地を行なった。文禄から正保二年までの開拓村について調査したとき、新田が四万二千八石五斗三升、この村数が二百二ヶ村増加し、旧高の二倍となった。その内訳をみると

    旧田高    新田高
石    石
  平賀郡  一九、二六五、〇六 一五、六三三、九四
  田舎郡 一一、三七六、五七 一八、四〇一、七〇
  鼻和郡 一四、三五八、三七  七、九七二、八九
   計   四五、〇〇〇、〇〇     四二、〇〇八、五三

である。外ヶ浜の新田村四十七ヶ村ある。その内本村では大瀬辺地村(五十五石八斗八升)あるのみである。
 正保二年から寛文四年の二十ヶ年間に急速に新田が増加した。寛文四年の「津軽郡高辻之帳」によると、新田が十万九千八百四十九石八斗と増加し、特に田舎庄新田は六万六千三百七十石五斗、村数百三十四ヶ村が開拓され、鼻和庄、平賀庄の庄に比し圧倒的に増加率が多い。
 この年代に本村で中沢村(五百十五石七斗)、瀬辺地村(二百十五石)の新田開拓があった。
 第四代津軽信政が寛文四以降、小知行の士を各地に派遣して開発地を半額給与するという立前で、金木村に四十三人、松野木代村に二十二人、戸沢村に八人というふうに、土地の状況に応じて士を土着せしめて耕作に従事せしむる所謂小知行派を始めた。この制度は成功し、寛文十二年まで百八十七ヶ村(新田八万六千四百八十七石三斗三升)の派立ができた。その内、田舎郡は新田高六万四千八百六十五石七升、百二十三ヶ村であった。この九カ年に本村の長科村(千二百十三石六斗)、郷沼村(二百二十石三斗)、阿弥陀川村(三百七十五石)、広瀬村(四百二十七石二斗)の各村の派立が開拓され、現在の蓬田村の全域が開発されたのである。かくの如く新田の開墾が進行したので、津軽信政は領内全般に惣検地を行い租税の確立をなさんとし、その準備に天和二年各村落ごとに略図、戸数、田畑等の書上帖を提出せしめた。貞享四年に武田源左衛門を元〆に命じ検地せしめた。本村に残っている左の検地水帖は瀬辺地村のものである。

 貞享四丁卯歳
 陸奥国津軽郡田舎庄瀬辺地村御検地水帳
  五月        大道寺隼人
            間宮友馬
  田舎庄
   瀬辺地村
  田浦
   上田 拾八間  六畝歩    半左エ門
      拾間
     分米六斗六升
  同所
   下田 三拾三間  三反三畝歩  同人
三拾間
  同所
   中田 拾弐間   四畝拾弐歩  同人
      拾弐間
     分米四斗三升弐合
  同所
   下田 弐拾六間  壱反八畝六歩 同人
      弐拾壱間
     分米壱石弐斗七升四合
  田浦
   中田 弐拾五間  壱反七畝拾五歩 半左エ門
      弐拾壱間
     分米壱石六斗
  同所
   上田 弐拾八間  六畝弐歩    同人
      六間半
     分米六斗六升七合
  同所
   下々畑 拾間   弐畝歩     同人
       六間
     分米弐升
  同所
   下畑 参拾六間  六畝歩     同人
      五間
     分米壱斗八升
  同所
   下々畑 二拾間  三畝拾歩    同人
       五間
     分米三升三合
  同所
   下々畑 三間   三歩      同人
       一間
     分米壱合
 

  (途中省略)

一、田畑地九反八歩  村中
    是者末々田畑可致開発場所相改委細別帳記之
     貞享四丁卯年五月
                元〆    武田源左エ門
                同     田口十兵衛
                御検地奉行 太田茂左エ門
                同     今治兵衛

第六節  蓬田村の成立

 本村は大字中沢、長科、阿弥陀川、蓬田、郷沢、瀬辺地、広瀬の七大字を以て成っている。昔は各大字何れも独立の部落であった。しかしこれらの各部落の事蹟は記録なく正確に知ることができない。
 伝うるところによると、往昔蝦夷の酋長が本村の西方に拠り権勢を張っていたという。今なお此処を蝦夷館野といっている。桓武天皇の御代、大同年間に坂上田村麿これを征伐したと伝えられる。又一説に田村麿蝦夷征伐の後、僧光坊という仙僧この地へ下り、田畑の開拓に従事したとも云うことは旧地図に僧光坊跡と書かれていることにより証明される。
 旧記によると、田村麿蝦夷征伐後、奥州へ多数の僧をつかわしたとあるから、僧光坊はその中の僧でないかと思われる。又鎌倉時代浄土宗の名僧金光上人が奥州に下り、外ヶ浜阿弥陀川部落の河中より阿弥陀如来像を拾いあげていることから考えると、本村の創立は相当古い。
 本村は南部氏時代には浪岡、北畠氏の支配下であったが、津軽為信が天正十三年油川、奥瀬善九郎を降して後、蓬田越前も南部に落ち行き、以後津軽領となった。津軽領となってから本村は田舎庄後潟組に属した。本村の検地に見られるのは前述のとおりで、正保二年に大瀬辺地村、寛文四年に中沢村、瀬辺地村、寛文四年以降に長科村、郷沢村、阿弥陀川村、広瀬村が新田村として現れている。
 徳川幕府が崩壊し明治二年藩籍奉還、同四年廃藩置県となって弘前、黒石、七戸、八戸、斗南の五県を併せて弘前県とし、後ち青森県と改め、県庁を青森に移した。明治六年三月従来の制度を改め青森県管内陸奥の国を十大区に分け、さらにこれを七十二小区に細別した。大区に区長、小区に戸長、副戸長を置いた。当時本村は第一区第四小区に属した。
 明治十一年七月郡区町村編成法制定せらるるや東津軽郡に属し、小区内の各村は分離して村毎に戸長を置くことになった。
 その間における町村統治者の名称は時々変更し、明治維新当時の庄屋は組頭又は村用係となり、其後戸長となった。明治十五年瀬戸子から郷沢にいたる十五ヵ村の戸長役場を後潟に設け、第七組戸長役場と称し、のち後潟村外十四ヶ村役場と改称した。
 明治二十二年町村制実施せらるるや後潟村から中沢、長科、阿弥陀川、蓬田、郷沢の五ヵ村、蟹田村から広瀬、瀬辺地の二ヵ村を分離し、蓬田村となし、同年五月二日村会議員を選挙し、同年六月村長、助役、収入役の選挙を行い、爰に初めて完全なる自治体組織となり現在にいたっている。
 蓬田村の成立について、坂本種一氏は田畑の開拓された状況から考察して、各部落の草分けと古い堰を蓬田村郷土誌編さん資料に左の如く記している。

   蓬田村の草分け
                                   坂本種一調査
 大字中沢

◎坂本甚左エ門
  久兵衛の本家、坂本家の総本家とも云われている。子孫は明治初年北海道へ移住。古書に仁左エ門とも見えている。 仁は仁義の仁なれば甚左エ門なり。
◎藤田兵作 吉田籐十郎 三上権十郎 坂本嶋右エ門 吉田喜兵衛 吉田籐三郎
  相ならんで古い中沢の草分けの家と云われる家である。
◎御倉堰
  これは御倉と云えば穀倉(殿様の)御倉を意味して、中沢の年貢米は悉くこの水のかかる田(美田)からとれていた。 昔から甚左エ門の田、喜兵衛、嶋右エ門の田地は悉くこの堰から水が引かれていた。
◎甚左エ門堰
  お倉堰の分かれで、甚左エ門田は甚左エ門堰水がかかっている。その反別は約十町歩。
◎嶋右エ門堰
  嶋右エ門が開拓した四町歩余の田は、嶋右エ門堰水が利用されている。お倉堰の分水で堰中で一番後世に開かれたも のである。 
◎治五兵衛堰
  上み街道から北部長科境まで十余町歩の水田に供給する用水は治五兵衛堰から注がれている。治五兵衛が開拓した新 田が大部分を占めていた。

  大字長科
◎小鹿三十郎
  金光上人が宿った家といわれ、古い家で長科の草分けである。
◎工藤儀右門
  阿弥陀川地蔵尊に流田村工藤儀右門とあり、長科では小鹿三十郎同様村の草分けである。
◎九左エ門堰
  九左エ門堰の名があるが、その家がない。九左エ門堰は御倉堰、治五兵エ堰と三本分かれる故昔から三本口といって いる。
◎儀右門堰
  儀右門の長走りという田に注いでいる堰である。

  大字蓬田
◎武井安郎兵衛
  武井家総本家である。子孫は北海道に移住した。武井金次郎は本家の安郎兵衛の天鳥釜を臨終に売って税金も完納し た美談がある。古い家である。

  大字瀬辺地
◎飯田和右エ門
  飯田家総本家といわれているが詳かでない。鬼神のお松の父と兄弟分であった。お松の父は心よからぬ人であったか ら、これを戒めるため腕を切ったと伝えられている。院殿大居士の位牌を持っているところから、祖先は名ある人の子 孫でないかといわれている。

第七節  検地と農民

 封建社会において農業生産が藩の経済の基礎となるものであるから、領主は検地を行い土地制度を確立しなければならない。戦国時代に今川、北条、武田、織田などは自分の標準によって検地を行い、完全に土地を支配し、それによって部下に恩賞を与えたり、社寺に寄進したりすることができた。秀吉はこれら戦国武将より以上に厳重に検地を行った。すなわち天正十年本能寺の変の翌月には、山城に土地台帳の提出を命じ、さらに領土が拡大するにつれ検地を押し進めていった。九州を征服すれば九州に、奥州が服すれば奥州に実施した。

 奥羽検地の時に秀吉は検地奉行の浅野長政に対して、
  検地について不届きのものがあれば、一郷も二郷も撫切にせよ。六十余州を厳密にして出羽陸奥を粗略にするわけに はいかない。たとい人が居らなくなっても差支いないから、山の奥、海は櫓かいの続くまで念入りにせよ。

と命ぜられた。(児玉幸多著「近世農民生活史」)津軽藩には文禄元年、前田利家卿、同慶次利大、同孫四郎、片桐且元、小野木縫殿の五人が、雑兵一万を引きつれて東奥巡検使として下向、四月初旬当地に到着、七月二十一日まで滞在、津々浦々を巡検の上封内百三十三ヵ村、高四万五千石と確定した。
 どんな反抗があり、摩擦があったとしても、一旦検地が確定すると、それを基準として貢租、夫役等が課せられる。検地帳に記載された百姓は所謂帳付百姓としてその土地の賦課に対する責任者として動きのとれないものになる。そして作人としての地位が保証される代りに、その耕地を手放すことも他に移ることも禁止される。即ち検地によって土地と農民が結びつけられてしまうのである。かくの如く検地は農民にとって重要なことであったから、農民は検地のある度ごとにおびえた。
 検地の際の測量方法は今日のごとく正確なものでないから、検地奉行の手心が加わる余地があった。検地縄をゆるく張れば実際の面積より帳簿の面積が大きくなるし、寛大にしようとすれば余裕をとっておく。それで一割も二割もの差が立ちどころに生ずるのである。農民にとっては貢租の率より検地の方法が重大な問題であった。
 ところで信政は元和二年、検地案内の者に不正があってはいかぬと云うので誓詞をとり、また名主、組頭、百姓からも左の証文をとり万全を期した。

  検地案内者の誓詞書
 一、当村田畑屋敷山林まで御改めの上は壱畝壱歩たり共隠し不申候事
 一、田畑共に上中下の位少しも偽りなく可申上候並新田畑共に隠田仕るに於ては仮令親類縁者にて御座候共無隠可申上   候事
 一、宮地寺社地御朱印所は無紛明白に可申上候若他領などへ引きまぎらかし隠し置申御座候得ば是又早々注進可仕候尤   跡にて田地他領へ売渡或は質物様に入置候儀御座候はば其段委細可申上候事
    名主組頭百姓より取候証文之事
   差上申一札之事
 一、今度御検地御案内仕候に壱歩たり共引落申間敷候落地御座候はば早々可申上候弥御帳出来明細引合少し所成共出入   候はば可申上候左なくして少の所成共隠し置申候はば何様之曲事にも可被被仰付候
一、今度の御縄に御引被下候道代之分少もせばめ申間敷候被仰付通り道急度作り置可申候乍然井堀添堤今度御引捨候分   何時御広ろげ候共違乱申間敷候若違乱仕候はば田畑御改曲事可被仰付候
 一、他郷と出入の地内を無沙汰に当郷へ打入させ申間敷事
 一、地代にて借申候屋敷収入有之処を隠しなく其仔細可申上壱歩の所なり共隠し置申間敷候
 一、御家内御法度を背き何成共悪事被致候はば早々可申上候若隠置き脇より知れ申候か又以後顕れ申候か後日申出候は   ば是亦如何様の曲事にも可被仰付候事
 右之通り一札差上申候比表書少も相違申間敷候若相背候はば如何様の曲事被仰付候共少も御恨みに存申間敷候仍而如件    年  月  日
何村
名主
組頭
惣名庄

 検地をする以上正確でなければならぬことは勿論である。年貢を納めない隠田、隠畑があることを堅く禁じた。前記名主、組頭の一札にもあるとおり一歩たりとも引落申しまじく、落地あったときは早々申し上ぐべしと記している。万一隠し田畑が後日に発見された場合は、如何様の曲事にも仰せつけられるようと証文を入れた。
 徳川幕府は隠田畑については、初め獄門家財田畑欠所の厳罪に処していたが、寛保二年から中追放に処した。津軽藩では享保八年、隠田した庄屋を引廻し磔という最極刑に処した。
 寛政律によると、隠田畑、隠津出、盗杣、博奕の宿隠商売の罪を犯したものには、罪相当の過料を課し、五人組中の四軒からも罪相当分を差出させた。大体津軽藩では不正の行為あったときは、五人組を単位にして罪したが、甚だしき時は一村もしくは一組、検地を行わず規定どおり年貢を徴収したといわれている。(板柳町郷土史)
 検見は前述のとおり重大なもので、先ず検地案内の名主、組頭、百姓の誓詞をとり、一方検見役人の心得として左の条目を示し公平を期した。
 一、御検見役人へ御渡条目之覚
 一、検見人心得
 一、畑作物検見之事
 一、大廻り御検見御条目之事
                              (参照 拙著「細越村郷土誌」)
 御検見役人への御条目にあるごとく、検見は百姓の身代が立つか立たざるかの大切なことであるから、升付石積は正確にすることを命じ、検見の方針としては歩刈を以て上、中、下、下々田の田位をきめる。最後の決定は大廻り検見人が決める。大廻り検見人は甲乙検見人の意見を聞き収穫の平均を出す役目で、検見として最も重要な人である。なお検見施行の細則とも称すべき「御検見御竿奉行覚書」がある。

第八節 貢租

 検地によって田畑の広狭すなわち基準がきまれば、それに租率を乗ずれば租米が決定するのである。秀吉の時代には原則として給人と百姓が相対で決定し、損毛などあって決定が困難な時には刈分にして三分の二を給人、三分の一が百姓がとっていた。
 江戸時代に入って六公四民すなわち百石の収穫があると、六十石が領主、四十石が百姓という割合であった。しかし各藩によって特殊の事情があって、五公五民、四公六民という租率もあった。また豊凶、川欠、永荒などで著しく収穫に増減があるので、年々の実収で租率をきめる検見の方法と、過去何年間の収穫を平均し、毎年の検見の手数を省いてきめる定免法があった。
 検見法と定免法と一長一短があって容易に判断がつきかねるが、享保の頃幕府の代官辻六左エ門が定免法によると貢租がきまっているから、収穫が増せばそれだけ農民の作徳が増すことによって、農民の耕作に対する意欲が高まり、領主も検見の方法がなくなり、それに要する経費が節約でき、なお年々の収入が一定するので藩の予算を計上するのに都合がよいと意見書が提出され、幕府が定免法をとってから各藩ともこれに従った。
 しかし太平になれた武士階級は、生活が奢侈となってから決った貢租のほかに附加税を課するようになった。然らば津軽藩では如何なる貢納法によったかといえば、定免法で貞享四年に各村を検地して上村、中村、下村の三段階にして、各田地も上々田、上田、中田、下々田と五等に分けた。貞享四年の田畑貢納法によると、
 一、各村の位を区別し上村、中村、下村の三等とす。山川海陸運輸の便或は村立新古等によりて定む。
 一、各田地の位を区別し上々田、上田、中田、下々田の五等とす。其他斗代田、銀納田、稗田、四ヶ一米取田等併せて  九等とす。其土地の肥瘠と用水の便否と豊凶出石の平均を按察して石盛を定め、これを定積という也。
但物成より二ツ成止る。上村にも斗代田、銀納田あり、中村、下村にも上田、中田有之事
 一、各畑地の位も亦同じ、屋敷地、上畑、中畑、下畑、下々畑其他畑斗代畑、銀納畑、取下畑等九等なり。尤村位に関  係なし。
右を以て如何なる豊年も定積に越て徴収することなきも、歉作にて定めに不叶ときは検見の法を立て租額を減ずる也。  立毛の備わる検見といい、立毛の備わらざるを検地というなり。
但検見には野手米、山手米を納めしめ、検地には免除す。又雑地、川欠、山崩等にて租額を免ずるも又検地という。以上により津軽藩は山川海陸運輸の便否によって、また古村であるか新村であるかを考慮し各村位を決定し、土地の肥瘠と用水の便否と豊凶出石の平均を勘案して田位をきめたのである。貞享の田位決定は明治の世まで変更されることがなかった。左に村位並びに田位の定を示すと
     上村の田位
 上々田 一歩籾 九合三勺三才 比分米一反歩に付 一石四斗
 上田  同   八合六勺六才 同        一石三斗
 中田  同   七合三勺三才 同        一石一斗
 下田  同   六合     同        九斗
 下々田 同   四合六勺六才 同        七斗
     中村の田位
 上々田 一歩籾 八合六勺六才 比分米一反歩ニ付 一石三斗
 上田  同   八合     同        一石二斗
 中田  同   六合六勺六才 同        一石  
 下田  同   五合三勺三才 同        八斗
 下々田 同   四合     同        六斗
下田の田位
 上田 一歩籾 七合三勺三才 比分米一反歩ニ付 一石一斗
 中田  同   六合     同        九斗
 下田  同   四合六勺六才 同        七斗
 下々田 同   三合三勺三才 同        五斗
畑位
 屋敷地 一反歩ニ付 分米八斗 宅地居下共
 上畑  同       六斗
 中畑  同       五斗
 下畑  同       三斗
 下々畑 同       一斗
以上の外に附加税とも云うべき五口小役米がある。貞享以前は麻、胡麻、真綿等を納めたのを田畑上納改正の際、これを廃止し、左の如く定めた。
 一、野手米 高十石ニ付四升
   百姓山野より草刈るときの課税。
 一、山手米 高十石に付五升
右同断山林より柴薪を伐採に課税。
 一、夫米 高十石に付五升
   百姓より仲間小人差出来候処右相止め、さらに仲間小人抱置きたる故に課税す。
 一、津出米 成米十石ニ付一斗六升
   青森、鯵ヶ沢両浜へ収納米駄送する賃銭に課するもの
 一、口米 成米十石に付三斗
   減石補充として課す。
 一、高掛銀 高十石に付七文目
   堤防橋梁等営繕に用ゆる人夫代として課す。
      劣等田畑
 一、斗代田畑の事 但畑田は一反歩に付四斗より一斗まで
           畑は 同 二斗より五升まで
   斗代田畑は下々の位にも至らざる悪地故、其地味に寄て斗代米何程と定める。
 一、銀納田畑の事 但 畑田は一反歩に付一文より二匁五分まで
            畑は   同  五分より二匁五分まで
   銀納田畑は菲薄又は用水欠乏にて、茅仕立、木仕立等多分にある。
 一、見取田畑の事 田は一反歩に付八升より一斗まで
          畑は  同  五升より八斗まで
 一、稗田 四ヶ一の事
   是は悪地にて稲植付兼、又は用水欠乏等のことで一時稗蒔付候節は、本物成之四ヶ一貢納めしめた。但上村、中村の稗田は中村の下々田に相当す。十に八、九は下村下々田の位地で、一反歩の定積一石五合摺を懸けて五斗、六つ成を懸けて 三斗で、比四ヶ一を収むるという。
以上の年貢米及び小役米の外に左の賦課金を納めなければならない。
 一、卯時 其年に依り増減あるが、一ヶ年三十八〆目位を一般より徴収す。
   幕府へ献上馬及び藩主御立駒飼料代として課する。
 一、大々料 一ヶ年七〆目内外にして、内六分は藩より、四分は百姓へ課す。
   五穀豊穣を伊勢神宮へ祈願の大々神楽料として課す。

第九節 年貢米の納入

 年貢米の納入は百姓にとって最も重要なことであった。先ず一村の納入すべき額が示される。年貢は村全体の責任であって、定められた期日に必ず納めなければならない。津軽藩では御収納米、高懸銀、貸下夫喰米は十一月二十九日限り、諸上納は十二月十日限りと定められている。

 もし期限内に納めなければ、御収納高を十分に割り、一分滞ったときは戸〆二十日、一分毎に一等ずつ増した。収納米については百姓ばかりでなく村役人も責任を負わされた。年貢米は最も精選したものでなければならない。従って自作の精米を上納すべきで、給米や小作米又は貸付米を以て年貢米とすることは禁ぜられていた。
 年貢米をこのように精選されたのは、廻米の上、大阪で売却し換金していたので、品質が粗悪であれば直ちに売価に影響するからである。
 特に藩主の御膳米は一粒よりに吟味したもので、一升の米は早朝から日暮れまで五、六人がかりで選別した。津軽藩の収納米調整については早稲の小粒で籾や稗は勿論のこと赤玉、青米、砕米を除いた精選したものを上納すべきことを命ぜられた。 年貢の上納を促進する意味をもって、秋の収穫時から年貢皆済まで農民の行動に制限を加え年貢米を完納させようとした。即ち米の異動が禁止され、他村に出すことは勿論個人間の貸借返済も許されない状態であった。
 一方農民は米俵拵えに懸命に努力した。特に御倉米包装には規定があって、もし不十分であれば返された。津軽藩では二重俵で身俵の編方が藁九本ずつにて編み、縄の太さ廻りが六分のものをしようせしめた。上俵は長さ五尺三寸、編方は藁六本ずつの規定である。網の掛け様は上俵十七おくりにて三廻り半、目数は十五位に掛けることになっている。身俵の縦、横、口縄も太さ一寸五分のものを使用し、四等から十六尋の縄を用いた。納米の責任を明らかにするため、元禄十一年十月に一俵毎に差札一枚ずつ入れ、この差札へ米主何組何村誰と認め、御倉奉行並升取の名と何斗入と書くことを命ぜられた。御倉米包装御定は左の如くである。
 一重一俵 四斗入 被貫目十五〆五百目
 縦縄   四尋  太サ廻り 一寸五分 一尋ハ五尺三寸ノ定メ
 横縄  十一尋  太サ廻り 一寸九分 同
 口縄  十六尋  太サ廻り 八分   同
 身俵  長四尺五寸 網間六寸ヅツ 両ヒゲ六寸ヅツ
 上俵  長五尺三寸 網ヒゲ身俵同様編方藁六本ヅツ
 網ノ掛ケ様 上俵十七スクリニテ三廻り半、目数は十五位に掛ケル事
 御倉立合 御倉奉行ニテ米拵俵精々吟味之上、不宜分ハ相返シ仕直可申付事

 年貢米の包装が完備すると御倉へ納めるのである。後潟組の御倉は蟹田町にあった。蟹田御倉へ左の後潟組の村々が納入した。
  蟹田御倉 掛合二人 頭一人 巻ノ者二人以下皆同ジ
一、浜松村   一、大橋村   一、後方村   一、四戸橋村  一、中沢村   一、長科村
一、蓬田村   一、郷沢村   一、阿弥陀川村 一、板木沢村  一、瀬辺地村  一、蟹田村
 一、中師村   一、今沢村   一、野田村   一、根岸村   一、平館村   一、石崎村
 一、川崎村   一、小国村   一、南沢村   一、山本村   一、広瀬村   一、石浜村
   都合二十七ヵ村
 御倉へ運ばれると倉立会、庄屋、組頭の立合の下に升取量るのである。普通運ばれた俵数のうち二、三俵を抜取り量るのであるが、もし升目が不足であれば全体に追加しなければならぬので、升取の責任は重大で、非常な細心と熟練を要した。
 少しの地ひびきがあっても桝目に影響するので、その場に近づくことを許さなかった。しかして升取の手加減で納入米の増減があった。この間種々な不正が行われた。
 升は新大升を使用させた。但し諸扶持人に遣わすときは京升を用いた。 (青森県史第一巻)

第十節 後方組と銀納

 後方組は夏季季節的に東北風の冷風が吹き、その影響で稲作はよくなかった。藩はこの冷風を防ぐため宝永五年に外ヶ浜並に西浜海辺に杉松の苗木植付けしめ防風林とした。いまもって中沢村以北の海岸に松林が亭々としてそびえ繁茂している。
 後方組の田位は中村の後潟、内真部、蓬田、阿弥陀川、今別、大川原の各村を除いては下村であるところからみても、稲作がよくないことがわかる。
 明和三年に広瀬、郷沢の村民は御検見を申出で凶作を理由に苗代物成、屋敷物成、高懸銀、野手山手米拾石三斗と夫喰拝借とも上納御免を願い出ている。
 元来中沢村、長科村は古田であるが、東北風の影響が甚だしく、安政七年の被害が大きく藩に銀納を願い出でたところ、御検地役人斎藤嘉右エ門、同立合鈴木忠吉外三名が派遣され御検見の結果銀納願が許可された。
 津軽藩の貢納法で前述のとおり銀納は劣等田畑に課せられる税率である。田は一反につき一文目から二匁五分まで、畑は五分から二文目までで、地味が薄く用水が欠乏して多くは茅や木を植えているような田畑に課せられた。
 中沢村、長科村が安永七年に銀納を願い出でたのは畑に対する年貢であった。中沢村は池田の古畑と浪返しの新開畑で古畑は壱町壱反五畝七歩(壱反歩に付き五分)、浪返の新開畑は壱町弐反弐畝拾歩(壱反歩につき三分)である。長科村は鶴蝮、川瀬の畑地で、古畑は壱町四畝拾壱歩(一反歩につき五分)、新開畑は五反歩(壱反歩についき三分)であった。何れも下々畑の地で粗悪地である。
 慶応二年に広瀬村の五人組と庄屋から、田畑銀納願書が藩に提出された。その願書の主意元来小国六ヵ村の稗田同様の悪地で、夏分の東北風と十三潟の吹卸で難渋し、銀納方を(田方壱反歩について拾八匁、畑方五匁)去る申年から四ヶ年お願いしている。然るに昨丑年年期あけになったが、依然として東北風と十三潟吹卸になやんでいる。若し永久銀納方を許可ないときは僅かの田畑を打捨て壮者の者共残らず松前へ渡海しなければならない窮状にあるから、前年同様銀納にしてもらいたい。なお税率は物価騰貴の際であるから倍増の田方は一反歩につき六十匁、畑方十五匁の銀納で許可している。いかに物価が騰貴したとはいえども、従来の税率の三倍半である。三倍半の税率でも田畑の収入以外に漁業の方の利潤があったから藩の申出服した。
 天明の飢饉に次いで被害の大きい天保の凶作には、本村で餓死を出したほどで、食うに食い物がないため妻子を引きつれ秋田方面に逃散した百姓もあった。その凶作も過ぎた天保十五年に中沢村、長科村の百姓は本免廃田方を申出で御検地役人の派遣を願っている。
 一体田畑の検地をうけ水帳に記載された百姓は、帳付け百姓或は本百姓として年貢を納める義務が負わされるのである。ところが天保の大凶作で耕すに人がなく廃田に等しい田地が多かった。年貢の義務は本人ばかりでなく、五人組から村全体の責任であったので、人手が少なくなったので上田、中田、下田の如何を問わず廃田にして村の責任を免れんとしたのである。
 中沢村の本免廃田は七町四反六畝拾壱歩で、長科村は四反三畝六歩である。中沢村の内訳は上田壱町四反七畝六歩、中田壱町弐反四畝九歩、下田三町壱反九畝四歩、下々田壱町五反五畝弐拾四歩である。本村の大字郷沢では全村をあげ他散し、板木沢村の村民がそのあとへ移転したほどでいかに凶作の被害が大きかったか知れる。
 この外に同年両村から別免田方、畑方仕付兼御検地願案内帳がある。本免と別免との相違点は不明であるが、何れも廃田の申請である。田方は弐町五反五畝壱歩、畑方八反五畝弐拾壱歩があり相当広範囲である。

 安永七戊戌年八月
  中沢村 畑方銀納仕上ヶ留帳
  長科村
                           庄屋  佐五右エ門
御検地人  斎藤嘉右エ門様
御立合  鈴木忠吉様
御竿取   御持鑓清蔵様
同右    藤代村山次郎様
案内御手代 沢田惣左エ門様

    中沢村
  池田古畑
一、下々畑 壱反三畝三歩      佐五右エ門
    比銀 六分五厘
  浪返し新開
 一、下々畑 八畝歩         同人
    此銀 弐分四厘
  池田古畑
 一、下々畑 九畝拾歩        □左エ門

    比銀 四分六厘七毛
  池田古畑
 一、下々畑 四反六畝歩       久左エ門
    比銀 弐匁三分
  池田開足
 一、下々畑 弐畝歩         源太左エ門
    比銀 六厘
  池田古畑
 一、下々畑 弐拾四歩        甚左エ門
    比銀 四厘
  池田開足
 一、下々畑 六畝歩         同人
    比銀 壱分八厘
  池田古畑
 一、下々畑 壱反壱畝弐拾弐歩    清三郎
    比銀 五分八厘七毛
  同所開足
 一、下々畑 三畝歩         同人
    比銀 九厘
  池田新開
 一、下々畑 九畝歩         長兵衛
    比銀 弐分七厘
  



  〆
 右者中沢村、長科村畑方銀納仕上ヶ表前前年之通ニ御座候
                         以上
   安永七戊戌年八月
                   庄屋 佐五エ門


 慶応二丙寅年七月
   田畑銀納願書
                庄屋 太左エ門
    口上之覚

 乍恐以書付奉願上候私支配広瀬、瀬辺地、板木沢三ヶ村ノ儀者御存知被置候通田畑地元不宜候所より本納銀納斗代四ヶ一古来より段取上納被仰付罷有候得共元来小国六ヶ村稗田同様之地面故如何様豊熟之年柄ニ而茂悪作而已刈取誠ニ東風真受之場処ニ付夏分ニ而茂東風続之節者一円汐霧吹懸り草木茂枯阿らし候西者十三潟より吹卸季候二十日余り時節浮レニ相成無比類難渋之村所ニ付年々御検地御検見之御取扱ニ相成乍恐御上様之御損失者勿論村方難渋申斗り無御座候
 右ニ準種籾夫喰諸上納米銭ニ至迄御役所表御取扱付相止殊ニ飯料買喰之者勝ニ而極難之村所ニ付永々居銀納ニ被仰付度旨去ル十八ヶ年以前申年委細書付ヲ以奉願上候処田方壱反歩ニ付拾八匁畑方壱反歩ニ付五匁一昨年迄四ヶ度ニ拾七ヶ年之間銀納下ヶ被仰付右年限中何れ共粉骨致廃田畑茂開増成立ニ相成候様被仰付難有仕合奉存候
 随而地面ニ応じ則年より稗并早稲赤むろの稲斗り仕付銀納助情ヲ付少廃田畑茂不残皆開ニ相成其上別段村備籾被仰付広瀬瀬辺地村ニ而籾五拾俵相貯一村家内養育仕御国恩之程冥加至極難有仕合奉存候
 然ニ昨丑年年季明ニ御座候得共元来小国村同様悪地ノ場所ニ付去夏中度々の東風吹続候処草木迄茂枯阿らし田方殊ノ外時節浮レニ相成分は中に至漸々出穂ニ相成候所折々大雨洪水ニ蓬田方中迄茂無御座畑作迄皆無同様ニ付迚茂家内養育相成兼候所より村方一同打寄当所の儀者兎角永々の銀納無御座候得者渡世難相成村処ニ付永久銀納ニ御願奉申上若御聞届ケ無御座候得共乍恐僅ノ田畑打捨盛壮の者共不残松前働ニ罷出諸郷役上納可仕候外無御座候
 乍去近年米価も高値殊ニ色々御物入重ノ御場合ニ付米価下直ニ相成候迄田方ノ儀物□いたし倍増上納ニ而不苦候間銀納地ニ被仰付置旨去八月委細書不ヲ以奉願上候処去丑年一ヶ年限田畑共倍増上納被仰付難有仕合奉存候
 然処昨年ノ儀者前書之通田畑共皆無作同様ニ付買喰の者共銀納銭并諸上納銭共漸々之方便に而奉上納候処重立分ノ者共夏中より飯料持合之者無御座候
 尤近来銘々雑穀ノ貯少々茂御座候ニ付去夏より小国村同様稗斗り相給其上諸品万端弥増高直ニ相成日用凌合難渋可奉申上様無御座日夜相嘆候迄に御座候
 然ニ当秋より本納ニ相成候而ハ是非御収納ニ可相成稲草仕付不申候得者難相成候左候而ハ立所ニ銀納以前ノ姿ニ相成始終御扱向相止ミ不申殊ニ已前ト違ひ年増諸御用扱向繁多ニ相成候儀ニ付諸上納銭并諸公事諸郷役辺茂是迄ノ通難行届候眼前ニ奉存候
 依之場合柄も不願恐至極ノ願様ニ奉存候得共段々前書奉申上候通何分ニ茂正米上納難相成小国同様悪化ノ村所ニ付追々諸品高値ノ場合日用凌合難相成村方難有之候何卒格段以御憐愍米価下直迄田方ノ儀者昨年被仰付候通田方一反歩ニ付三十六匁、畑方一反歩ニ付拾匁ニ永々居銀納ニ被仰付置度旨百姓共一統より願出ニ御座候、左候得バ右御憐愍ノ程永ク忘却不仕諸事被仰付候通御用向太切ニ相守成□上何儀御扱ニ不相成農業相励御用支ニ相成不申候様仕度奉存候間格外ノ御慈悲ヲ以村方願之通永々銀納ニ被仰付置度奉願上候乍恐右之趣宜御沙汰奉願候
                                                     以上
  慶応二丙寅年七月
                              広瀬村
五人組 甚五郎
五人組 三郎兵衛
五人組 専助
庄屋  太左エ門
   外要吉 様
   長良八 様

   御済口
 広瀬、瀬辺地、板木沢三ヶ村田畑悪地ニ而難渋ノ所より是迄数年来田畑共銀納下ヶ被仰付候所昨年季限ニ付田方壱反歩ニ付三拾六匁畑方一反歩ニ付拾五匁づつ銀納上納被仰付候所右村々ノ儀ハ小国六ヶ村稗田同様ノ地面ニ而無比類難村ニ而当秋より本納被仰付候而ハ村潰ニ及候外無之ニ付昨年ノ通永々銀納被仰付度旨委細申出際限も無之難被仰付部ニ候得共難渋ノ旨□□□候間格段以沙汰候当寅年より来ル午年迄五ヶ年ノ間田方壱反歩ニ付六十匁畑方一反歩ニ付拾五匁づゝ銀納上納被仰付候尤田畑共一際手入し已後決而御扱向付申候様被仰付候
 右之通被仰付候間一統難有差含田畑共手入致候様比旨申入候
                                                     以上

   八月六日            御代官処

 天保十五甲辰年七月
  後潟組中沢両村本免田方仕付兼案内帳
長科 御検地
                              代庄屋  房五郎

第十一節 蓬田村の御献上煎海鼠仕立方

 弘前藩の朝廷、近衛家、幕府への重なる献上品は太刀、白銀、蝋燭、馬、串鮑、昆布、干鯛、熊皮、鷹、塩引鮭、塩鱈、煎海鼠等である。
 右のうち串鮑、昆布、塩引鮭、塩鱈、煎海鼠などの海産物は三厩、今別、平館、蓬田の各村で生産されるものである。特に煎海鼠は蓬田海岸で漁獲されるナマコで製する煎海鼠は最も優秀で毎年のように藩の命令によって製造していた。
 一体ナマコは湾内のいたる所で漁獲される。藩政時代既に支那向け輸出品として干鮑、昆布、貝柱、イリコが輸出されていた。これらの海産物を俵物といっていた。陸奥湾内における集荷問屋は青森俵物問屋といって青森の竹野与次兵衛が命ぜられ、湾内各地に支配問屋を設け集荷せしめていた。上磯方面の支配問屋をあげると
 古川、沖館、新井田 三ヶ浦下請
                                 沖館住居
          浅利屋万太郎
 油川、十三森、二ヶ浦下請
         油川住居
          蛯屋長四郎
 田沢、夏井田、飛鳥、瀬戸子、奥内、前田、清水、左堰、小橋、六枚橋、内真部、後形、四戸橋、中沢、長科、阿弥陀川、 蓬田、郷沢、瀬辺地、広瀬 二十ヶ浦下請
後形住居
能登屋七之助
長谷川屋八三郎
 蟹田 一ヶ浦下請
                                 蟹田住居
神屋只八

木戸屋久右衛門
 中師、二ツ屋、石浜、深泊、杉 五ヶ浦下請 
中師住居
大津屋源兵衛
 今津、野田、根岸、平館、石崎、(こ)路々々川、宇田、伝蔵宇田、綱不知、奥平部、砂ヶ森、袰月 十二ヶ浦下請
根岸住居
越後屋権太郎
 大泊、山崎、一本木、今別、浜名 五ヶ浦下請
今別住居
中島与兵衛
 増川、松ヶ崎、藤島、釜ノ沢、本宇鉄、三馬屋、宇鉄 八ヶ浦下請
三馬屋住居
安保幸右衛門

板屋嘉兵衛
(青森市史第四巻)
 藩政時代右にあげた下請支配問屋の手によって上磯地方の干鮑、昆布、イリコ、貝柱等が集荷、長崎港を経て支那へ輸出されていた。
 しかし前述の、幕府等への献上品の特精選品であるイリコは、蓬田村の沖合で漁獲されるナマコを以て製造される。その製造は御献上煎海鼠仕立方があたっていた。
 煎海鼠の幕府への献上が初めて行なわれたのは宝暦七年である。(参照 青森県租税誌下巻)最初の煎海鼠仕立方は森家の祖先(仁左エ門)であった。庄屋で名字帯刀を許されていたという。いつの頃か年代不明であるが津嶋九郎兵衛家に譲ったのであるという。坂本種一氏の調査によると
  外ヶ浜の漁船は勿論平内方面からも蓬田の浜に宿泊して、船一艘何貫という責任貫数を漁獲してイリコ役へ納付して帰る という義務があったから、年間相当量のイリコが製造され、これを藩へ納め、さらに徳川幕府へ献上されたのである。
  何故蓬田産の海鼠でなければならぬかというに、蓬田の海鼠は品質堅く、容易に柔らかくならぬため昔は浪岡ナマコと称 して、丁度翌日浪岡の市に出るころに真の味が出るというので、かくいわれている。平内地方のナマコと品質は全く異なっ ている。随って他のナマコはさがり易くして味はない。蓬田産は長もちすることができて、却って二、三日後には味がつく といわれたものである。
 蓬田村のイリコ製造用のナマコは沖海鼠といわれ、普通のナマコと異なり、沖合いに棲息するもので質いたって堅く生で 食することができない。
  イリコ製造するに蓬を煮た水で、ナマコを煮れば色よくつき、三、四回煮返すると漆のように黒光りして高価なものになると伝えられている。最良品は郷沢産で南後潟、北蟹田の南端にいたれば品質が劣りものにならぬという。
 イリコの代用品フジコ(キンコ海鼠)に三種あって、白、黄、紫である。中良種は紫である。フジコはイリコの価の三分の一である。イリコの効能は第一に視力を強くする。支那人曰くイリコを食すれば不老という。即ち不老薬といわれている。

第十二節 砂鉄

 津軽藩が弘前城を築城するとき多量の鉄を必要としたが領内になく、南部、下北の砂鉄を密移入し小国で製鉄、使用したということである。然からは津軽藩に全く鉄原料がなかったかというとさにあらずで、北津軽郡の今泉の国有林(母沢開拓付近)に鉄資源があり、安政六年に鉄工明珍重吉が長崎で西洋式製鉄法を研究、弘前の商人今村万次郎が投資して今泉で製鉄業を営み好成績をあげたので、万延二年一月二十八日用人楠美庄司を奉行として藩営に移り明治にいたったということである。(中里町誌)
 津軽領内における鉄原料の砂鉄は、屏風山の西海岸、七里長浜の砂鉄と蟹田付近にあった。燃料は津軽半島の特産ヒバ材であったから、小国でも高根でも今泉でも精錬された。蟹田、小倉、高根、今泉、広瀬各村に銅や沢の名称があるが、これらは藩政時代砂鉄を精錬した跡である。
 明治二十九年蟹田及び蓬田の六字と小橋の二字の製鉄に注目採掘しようとした人がある。秋田鉱山監督署長に願い出た小島謙三と矢口庄兵衛の二氏である。蟹田と蓬田の海岸地帯八字の許可申請と、発掘に伴う海岸線破壊による工事予防設計書が郷沢村に提出されているところから考えると、これら八字の砂鉄の埋蔵量は相当あったものであろうと思われるが、果して着工したか不明である。
 別紙写之通り大字郷沢海岸ニ於テ砂鉄採取ノ儀ニ付工事予防設計書差出候趣ヲ以テ障害ノ有無取調工申方其筋達相成候条右 設計書一見ノ上工障害有之節ハ事由以申出相成度尤モ調査方大至急ヲ要スル儀ニ付可否届有之度比段御移牒候也
   明治二十九年八月五日
蓬田村役場
   大字郷沢
    高田勘五郎 殿

    工事予防設計書
 明治二十九年五月二十日秋往第一四五七号ヲ以て青森県東津軽郡後潟村大字小橋ノ内外二字蓬田村中沢ノ内外六大字蟹田村蟹田官地海岸地ニ於て砂鉄採取出願地ハ宅地畑等ニ接続シ充分なる予防設計せざる時ハ宅地畑等を崩壊シ又は海水侵入ノ虞有之場所たるに付右等の障害ニ対する予防設計書可指出願旨御達ニ付左ニ
一、宅地畑等にして砂鉄採取場と接近之場所は之を採取するに先だち境界区域を分劃し砂鉄採取場の地平と宅地畑地平線の高 ニ浪除を設けて以て海水の侵入又ハ宅地畑の崩壊を予防可致候
一、浪除築造ノ方法ハ宅地畑境界区域に二尺毎ニ又ハ三尺毎ニ長杭を地下一尺以上打込地平線の高さ迄に柴木等の類を以て柵 を造り又ハ波浪烈キ場所の砂鉄を採取する時は特に右浪除柵辺より海岸に向け二尺の距離を置き水柵を設け礫砂利を填充シ 二重柵を設くる様可致候
 右予防設計仕候也
    明治二十九年七月九日
                                                  小島謙三
矢口庄兵衛
    秋田鉱山監督署長
     小花冬吉 殿

第十三節 郷蔵と金穀蓄積収支規則

 明治九年、本県区戸長会の決議により、従来の郷蔵は義倉の性質をもっているから、これを改めて社倉となし、人口一人につき籾一升、地租金壱円に付き籾二升ずつ蓄積して、その所有権を明かにして、手返貸付を行った。
 わが津軽藩は天明の大凶作で多数の餓死者を出した。これが救済策に寛政二年、津軽信明は備荒儲蓄制度を確立した。即ち各組に郷蔵をつくらせ、農民から高一〇石につき米三斗分にあたる籾五斗ずつを貯えらせた。これらの備米は義倉として性格上飢饉以外には流用を認めなかった。寒冷不順なわが地方は凶作、冷害におそわれることが多かったが、郷蔵あるが故に幾多の窮民が救われた。
 これも藩当局の郷蔵に対する保護監督が厳重であったからである。然るに廃藩置県以来、官の保護、監督なきため、旧来の美法が廃たい殆ど見るべきものがなかった。
 そこで明治九年、本県戸長会の決議をもって、改めて社倉となし人口一人に付き籾一升、地租金一円に付き籾二升ずつ蓄積、所有権を明かにし、且つ手返貸付を行い、県庁の監督を受けた。
 然るに、明治十一年、郡区編成法が施行され、各町村が自治体として法的に活動することになったので、県庁がこれらについて干渉を解き、専ら各町村の自治放任にまかせた。
 抑儲穀は古来より官庁の保護、監督あるため、整然と義倉としての備荒貯蓄の目的が達せられたのである。これが急に町村の自治に委ね監督がゆるくなると、人々は儲蓄を厭い、凶荒の惨毒を忘れがちとなり、自然に衰替状態になったので、心ある人はこれを憂い、町村会の決議を経て郡長若くは戸長に依託して、従来の慣例により継続維持せられんことを陳情した結果、明治十七年町村会法の改正により儲蓄法は再び県会の認可を得て町村会の権内に属し、強化され凶荒災害の救済にあたった。
 この金穀蓄積収支規則により郷蔵は、明治十九年三月二十五日郷沢村、阿弥陀川、蓬田村は村会の評決により設立、県会の許可を得て発足した。この金穀蓄積収支規則による郷蔵は、何ヶ年位継続したか判明しない。

                  阿弥陀川村外一ヶ村
 客蔵十二月臨時村会ニ於テ評決シタル金穀儲蓄収支別冊之通県令ノ認可相成候ニ付 本年ヨリ継続施行候条比段申達候事
  但規則第十一条但書ハ削除相成候事
   明治十九年三月二十四日
         後潟村外十四ヶ村戸長笹森勇太郎代理
                       筆生  寺田松四郎 (印)
   金穀蓄積収支規則議案
 第一条 凶荒予備ノ為メ阿弥陀川蓬田村共同シテ毎年左ノ賦課法ニ依リ金穀ヲ徴収蓄積スルモノトス
  一 該年度地租金壱円ニ付金七銭八厘
  一 同地方税営業雑種税金(日税月税未定税ヲ除ク)壱円ニ付金五銭
  一 同村費個別割ニ用フル建物拾個ニ付金弐銭弐厘
 第二条 蓄積金ハ納入ノ都合ニ依リ籾又ハ雑穀ヲ以テ代納スルヲ得
   但其場合ニ於テハ割賦金壱円ニ付籾弐斗五升六合(雑穀増倍)ノ積ヲ以テ代納セシムヘシ
 第三条 地租割及営業割個別割ノ免除等ハ総テ村費ノ例ニ依ル
 第四条 従来蓄積セル金穀ハ今般施行スル所ノ蓄積穀ニ併合スルモノトス
   但旧穀貸付ノ分ハ本年ヨリ三ヶ年賦返納セシメ更ニ十八条但書ノ例ニ依ルモノトス
 第五条 蓄積ノ穀物ハ総テ郷倉ニ儲蔵シ現金ハ戸長ニ於テ之ヲ管守シ第九条ノ費用ニ充テ其他ハ悉ク籾殻ヲ買入ルゝモノト  ス
 但籾買入方ハ必ス入札法ニ依リ良品ニシテ且代価ノ下直ナル者ニ落札セシムヘシ
 第六条 蓄積石高阿弥陀川蓬田郷沢村全村人口ニ対シ壱口ニ付籾三斗(雑穀ハ之ニ倍ス)以上ニ至ルハ漸次其超過分ヲ売  却シテ以テ公債証書ヲ買入スルゝモノトス
   但儲穀売却及公債証書買入ノ予算并手続ハ特ニ村会ノ評決ニ付シ県令ノ認可ヲ受クヘシ
 第七条 罹災ノ為メ全村秋収ノ額常年ノ五分ヨリ下ル件ハ村会ノ評決ニ附シテ県令ノ認可ヲ受ケ其年ノ蓄積ヲ猶予スヘシ
 第八条 非常ノ凶荒ニ際会シ蓄積金穀ヨリ貸与又ハ給与セントスルハ其方法ヲ設ケ村会ノ評決ニ付シ県令ノ認可ヲ得テ之  ヲ施行スルモノトス
第九条 戸長ハ蓄積諸費トシテ左ノ範囲内ノ金穀ヲ毎年蓄積金ヨリ支弁スルヲ得若シ蓄積金ナキ件ハ入札法ニヨリ儲穀ヲ売  却シテ其費用ニ充ヘシ
  一金 三円  蓄積取扱人給料
    但年給金三円 一人分
  一金 壱円弐拾銭 郷倉監守人給料
    但年給金壱円弐拾銭 一人分
  一金 弐拾円 郷倉小破修繕費
  一金 五拾銭 出入穀諸費
  一金 六拾銭 郷倉地租地租割村費
 第十条 第九条ノ外臨時費用ヲ要スル件ハ村会ノ評決ニ附シ郡長ノ認可ヲ得テ施行スルモノトス
第十一条 戸長ハ毎年五月ニ於テ蓄積金穀ニ係ル前年度ノ収支(斗立減石共)精算帳ヲ製シ郡長ノ調査ヲ経テ遍ク議員ニ報  告スヘシ但報告書ニ対シ意見アルモノハ郡長若クハ県令ニ具状スル事ヲ得
 第十二条 戸長ハ村会議員ノ投票ヲ以テ蓄積取扱人一名ヲ撰定シ儲穀乱俵(井楼詰ヲ除ク)ヲ計リ立テ減石ニ係ルモノハ其  時々郡長ヘ報告スヘシ
   但計リ立ノ時郡吏ノ臨監ヲ請フモノトス
 第十四条 儲穀ハ総テ四斗ヲ壱俵トシ其穀ハ三日以上干立ノモノニシテ壱俵ノ量目籾ハ拾壱貫目粟ハ九貫目稗ハ八貫目蕎麦  ハ八貫目麦ハ拾弐貫五百目と定ム
 第十五条 儲穀ハ俵毎ニ(一戸ニテ一俵以上ヲ納ムル者ニ限ル)柾札弐枚ヲ製シ納入姓名并収入ノ年月日ヲ記載シ一ハ俵内  ニ刺入レ一ハ俵外ニ刺置クモノトス
第十六条 儲穀ハ手返ノ為メ其年ノ都合ニ依リ現在穀三分ノ一以内ヲ貸付スル事アルヘシ
   但比場合ニ於テハ戸長ハ郡長ノ認可ヲ得テ之ヲ施行スルモノトス
 第十七条 手返貸付ハ其年ノ熟作ヲ確認スルニアラサレバ施行スルヲ得ス
 第十八条 手返貸付ハ其半額ヲ該年地租金ニ半額ヲ現在人口ニ配賦スルモノトス
   但貸付ヲ請フトキハ重立タル者二名以上ヲ総代ト為シ借用証書(各自調印ノ分借調ヲ添ヘ)ヲ差出スヘシ
 第十九条 手返貸付ハ穀四斗ニ付穀四升則チ壱割ノ利石ヲ付シ翌年一月三十日限リ悉皆返納セシムルモノトス
 第二十条 手返貸付穀ヲ不納スル者ハ其負債ノ義務ヲ終ヘサル間ハ再ヒ貸付セサルモノトス
   但第廿一条ニ当ル者ハ比限リニアラス
 第二十一条 手返貸附ノ負債者若シ災害ノ為メ赤貧ニ陥リ又ハ逃亡等ニテ実際弁償スル事能ハサル者ハ戸長ハ郡長ノ認可ヲ  得テ其返納ヲ猶予スル事アルヘシ
   但止ムヲ得サル事故アリ到底弁償セシムル事能ハザル者ハ村会ノ評決ヲ経テ毀損スル事アルベシ
第二拾二条 儲穀積入并手返返納ノ節ハ戸長取扱人立会ノ上俵毎ニ其斤量ヲ検シ且納入毎ニ穀性(一戸ニシテ一俵以上ヲ納  ムル者ハ其内一俵ヲ開キ検査スヘシ)及升目ヲ改メ若シ其穀性宜シカラサルカ或ハ斤量升目等ニ不足ヲ生スル件ハ引替又ハ補足セシムヘシ
第二拾三条 郷倉ヲ開閉セントスル件ハ戸長ヨリ事由ヲ具シテ予メ其時日ヲ郡長ニ届出戸長并取扱人立会ノ上之ヲ為シ閉鎖  ノ節ハ戸長取扱人連名封印スヘシ
 但比場合ニ於テ郡吏ノ臨管ヲ請フ事モアルヘシ
 第二十四条 比規則ハ毎年村会ノ決議ヲ要セス年々継続施行スルモノトス若シ実際改正又ハ増補ヲ要スル事アルハ村会ノ  評決ニ付シ県令ノ認可ヲ得テ施行スルモノトス

    金穀蓄積収支規則議案説明
 夫レ災害ノ最モ懼ルヘキハ凶歉ヨリ甚シキハ莫ク窘窮ノ最モ蹙レルモノハ凍餒ヨリ急ナルハ莫シ顧ルニ我津軽郡ノ地タルヤ気候沍寒米穀ノ外産出スルモノ少ナク且毎歳四ヶ月(十二月ヨリ三月ニ至ル)間ハ積雪中ニ蟄居シテ糧ヲ山野ニ採ルノ利ナキカ故彼ノ上国ノ気候緩和物産繁殖菜草四季田野ニ絶ヘサルノ地ニ比スレハ小荒微歉ト雖モ忽チ生活ノ道ヲ失ヒ凍餒ニ頻スルノ状急ニシテ且惨ナリ試ミニ之ヲ既往ニ徴スルニ昔時天明三卯年ノ凶荒ニ津軽地方ノ人民ハ流離餓死スル者拾万余人ニシテ農民三分の二ヲ減シ幸ニ翌辰年ノ豊稔ニ遭フト雖トモ其廃田ニ属スルモノ多ク当時収蔵拾万余石ヲ減セシト今尚古老ノ口牌ニ存セリハ明治巳年ノ如キ上国ハ平年ヨリ甚シキ差違ナカリシカ津軽地方ニ至リテハ殆ト凶荒ニ陥リ儲穀数拾万石ヲ賑貸シテ僅ニ其死亡ヲ免レタリト雖モ流離困厄今尚其踪跡ヲ得サルモノ多シ如斯実況アルヲ以テ当地方ハ古来厳シク毎町村ニ儲穀ノ設ケアリテ救荒賑恤ノ方法ヲ尽セリ蓋シ当時ノ儲蓄ハ所謂義倉ノ性質ニシテ総テ該町村ノ公共物タリ
 廃藩置県以来官ノ保護ナキヲ以テ廃頽旧来の美法令殆ト見ルヘカラサルニ至レリ次テ明治九年本県区戸長会ノ決議ヲ以テ改メテ社倉ト為シ人口壱員ニ付籾壱升地租金壱円ニ付同弐升ツゝヲ蓄積シテ其所有権ヲ明ニシ且手返貸附等之方法ヲ定メテ一切県庁ノ監督ヲ受ルモノトセリ
 明治十一年郡区編制ノ令アルニ当リ太政官号外御達(十一年七月廿一日)ニ依リ県庁之ヵ干渉ヲ解キ各町村ノ自治ニ任放セリ抑儲穀ハ古来ヨリ官庁ノ保護ニ依リテ維持セシヲ俄然慣行画一ノ方法ヲ改メ単ニ町村ノ自治ニ任スル事ハ人民ニ於テ儲蓄ノ方法ヲ厭ヒ凶荒ノ惨毒ヲ顧ミサルニアラサレトモ民情一ナラサルハ固ヨリ免ルゝ事能ハサル所ナルヲ以テ甲乙町村其勤惰ヲ異ニシ再ヒ衰替ニ属スルノ憂アルカ或ハ町(村)会ノ決議ヲ経テ之ヲ郡長若クハ戸長ニ依託シ従来ノ慣例ニ依リテ継続維持セシ所アリ然リ而シテ明治十七年五月町村会法ノ改正ニ依リ該儲蓄法ハ一旦町村会ノ範囲外ニ出ルト雖モ本年本県甲第二号達ニ依リ特ニ上請シテ県令ノ認可ヲ得タルヲ以テ再ヒ町村会ノ権内ニ属セリ故ニ今従来ノ慣例ヲ参酌シ其規則ヲ編制シテ茲ニ本会ノ評決ニ付ス猶県令ノ認可ヲ得テ永遠之ヲ維持シ以テ凶荒災害ノ臨時費途ニ充テ以テ本村人民不虞ノ患ヲ免レシメント欲スルナリ
 前書決議之通相違無之候也
                  東津軽郡蓬田村々会議員
小畑寿徳(印)
細谷才吉(印)
津嶋粂吉(印)
武井甚七(印)
小松浅右エ門(印)
細谷五郎兵衛(印)
中村巳之助(印)
同郡阿弥陀川村々会議員

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蓬田村役場 教育課

青森県東津軽郡蓬田村大字郷沢字浜田136-76

電話:0174-31-3111

ファクス:0174-31-3112

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