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第六章 各部落の沿革の概要

第一節 中沢村

 大字中沢は旧中沢村にして蓬田村の南端に位し、後潟村と界し、西は田畑開け部落民は一般に農業を本業としている。古来一村として成立せるは記録なきため不明であるが、土器、埋木、金屑等の出土あることから考えると、先住民族の棲息していたことが明らかである。吉田東伍著の日本地名辞書及び郡中名字に村名が掲載されている。日本地名辞書に

  蓬田 後潟村の北を蓬田村と云い、中沢、広瀬を合す。
  (中沢)蓬田西嶺を阿弥陀山、袴越山嶽という。北津軽郡の中里の東にあたる。中沢は内摩部に援ける、建武文書に載せ      られし村名なり。

 建武元年は今から六百有余年以前で、既に其時すでに一村を形成していた。天文年中から天正十三年まで南部領に属し、以後津軽為信の津軽統一の世となり、明治にいたるまで三百年間津軽家の管轄をうけていた。
      中沢(坂本大博氏談)
○中沢村は古い村である。大和民族が移住し農耕をはじめるようになったことは、開拓した堰名によって村の創草がわかる。 中沢には大倉堰、甚左エ門堰、治五兵衛堰等があって、二百年から三百年、この地に子孫が住み農業を営んでいる。
○中沢村は上磯通りでは教育の進んだ所である。中沢で寺小屋を開いた中村弥右エ門がいた。その高弟は坂本甚吾、三上菊左 エ門といって仲々の博学で、就中三上は正法院主と一週間法論したかどで、ついに北海道江差に移住し、その地の法華寺の住職になったという。
 その子の三上長順は函館戦争に参加し戦死したが、僧侶であったが偉い人であった。長順の兄を忠吾といって江戸で劔術 の師匠をした。
○また松前操が土崎藩士で中沢で寺小屋を開いて村の師弟を教導した。三上忠吾と親しかった。いつまでも中沢に置くのに惜しい人物なので函館戦争の開始直前、中沢へ来て、戦争に参加するよう勧誘したら、「天下に道なき時はかくる」といって応じなかった。そこで忠吾は「このイグヂなし」といって去ったと。
○寺小屋の師匠である松山操の薫陶をうけた人々のうちで、県会議員をした赤平重広、小学校の校長をした沢田重一、工藤千 春などがあり、外に中沢村に左の数人の俳人があった。
  春人(坂本友次郎)中沢生れ
  春耕(坂本与作)同
  呉牛(川島順三)弘前生れで移住せる人
  柴文(坂本義徹)中沢生れ、春人、春耕に師事す
 なお、昭和二十三年ころ、坂本甲子が東京の疎開者東条竹秋先生を中心に茜吟社を組織し、竹秋先生の選を乞い俳句を学ん だものは、左の如くである。
 歩洋 坂本甲子   大白 坂本大博
  甲水 坂本種一   豊水 坂本豊水
  秀岳 坂本増吉 鱗波 吉田清助
  香風 工藤正一   銀波 工藤治五兵衛
  □□ 工藤文義   仙翠 坂本三行
  昭花 坂本昭巳   寒竹 中村政五郎
  秀峯 北山秀雄
○明治の末期から大正年代にかけて、中沢村の文化活動について見落しできないのは、斎藤仲庵師のことである。同氏は南部中郷村大字下川原字袋井の生れで、明治四十年ころ長科村に居を構え、のち中沢村に移った。本職はハリ師である。妻は裁 縫の師匠で専ら子女の教養に勤めていた。かたわら斎藤仲庵師は青年団の幹部を集め、歌や俳句を教えた。
○中沢村は油川をおいては、上磯で一番早く尋常小学校が設けられた。
○中沢に上磯の豪農といわれる農家があった。三上権十郎、坂本久兵衛などで備荒米千俵貯蔵していた。当時、上磯の豪家は以上の外、油川の三上重郎兵衛、高根の稲葉三郎兵エ、夏井田の溝江四郎三郎がいた。
○中沢村はこのように豪農がいたのは、東北風の被害が少ない場所であったからである。ヤマセの被害少ない理由は、部落の西側に松の防風林があったからである。この防風林は二かかえに余る大木斗りであったが天明の凶作で粥を食って居るので 薪伐りは山まで行けず此の松を伐って薪にしたという話は村一番の老人が生前の実話である(大正七年九十九歳で死んだ人)。

第二節 長科村

 大字長科は大字中沢の北に位し、県道に沿い北は阿弥陀川と界し、西方は田畑開け、村民は一般に農を業とす。本村がいつごろ成立したか記録なきため不明であるが、石垣金光上人が念仏弘道のため、陸奥外ヶ浜へ来たとき小鹿三十郎の家に宿をとりたるを考えれば本部落が今から七百年以前に成立していたことが推考される。なお蝦夷館野から土器の破片、矢根石の発掘されていることから考えると、先住民族がすでに部落を形成していたと思われる。
 いつのことから、中沢村に寄郷となりしか不明であるが、藩政時代庄屋一人を置いて村治にあたらしめ、明治十二年に至り独立して戸長を置き事務を取扱った。当時の戸長は坂本歓一郎である。
 当部落は藩政時代から明治四十二年ころまで中沢村と入会地権(秣場の争い)争論により、猛烈なる圧迫をうけたる結果、共同心と向学心をかん起し、学校中心主義となり、敵は中沢村であるとの念頭いつも去らず、中沢に敗れることを最大の恥辱としていた。よって経済を強めたる鶴蝮及びバンダイ萢五町歩の原野を開墾した。
    長科(張間音吉氏談)
○長科は農家と漁師と半々位である。
 魚は鰯、鱈、鰊、ナマコがとれた。鰊は明治三十年ころまでとれた。大漁のときは鰊粕をたいたものだ。鰊漁が近づくと村 で太鼓をならすことが禁ぜられた。太鼓の音で鰊がよりつかないからだ。
  鰯は近年までとれた。鰊と同じく鰯粕を製造したものだが、今は粕にたくほどとれない。鱈も近年までとれた。鱈漁は冬の漁であるため、遭難事故がある。大正三年一月には鱈釣りに出た漁船が沈没し四名死亡したことがある。
 ナマコもよくとれた。ナマコはイリコに製造され支那へ輸出された。勿論長科から直接支那へ輸出されるのでなく、油川の津幡、青森の近藤商店の手を経た。
○長科、中沢、阿弥陀川、広瀬の各部落に庭園所有者が多い。各部落が裕福であるのは勿論であるが、金持が必ず庭園を持つ と限らない。趣味がなければ庭園作りをやらないものである。庭園所有者は
 長科
   張間音吉、坂本市郎、藤本繁春、張間四五右エ門、坂本孫九郎、藤本卯之吉
  中沢
   吉田喜兵衛、坂本昭夫、坂本甚吾、坂本清、坂井友太郎
  阿弥陀川
   森光秀、八戸要助、森孫太郎
  広瀬
   田中吉兵衛

第三節 阿弥陀川村

 大字阿弥陀川は長科、蓬田の中間にあり、西は田畑開け遥かに阿弥陀山を望む。村民は農を専業とす。仲には杣夫、炭焼を兼ねるものがある。寛文以前は蓬田村の内にありしが、寛文二年三月、正法院を西田沢村から移築と同時に、蓬田村から分離独立し阿弥陀川村となった。併し、いつのころか不明であるけれども、阿弥陀川、蓬田、郷沢の三村が寄郷し、庄屋をおいたが、明治にいたり村用係をおいた。時の村用係は青木熊之助である。明治十一年郡区町村編成法が施行され東津軽郡に属し、明治十六年後潟村に同村外十四ヶ村の戸長役場がおかれた。明治二十二年町村制実施と共に蓬田村に属した。
 本部落は金光上人の遺跡あるため部落民信仰に篤い。昔青木彦兵衛(俳諧に長じ名を里仙という)という有識者があり、また明治三十六年ころ折居厳達という漢学者がいて、部落民を教導していた。本部落の経済状態は明治三十五年ころまで富裕であったが、同年見継山下戻により、一時成金風に襲われ、ためにその後著しく破産者続出し、貧困の部落となったが、近来部落民の自覚により水田開発による経済立直しを考え部落民が一致し、原野湿地帯十町歩開田し旧に倍する富裕の部落になった。
   阿弥陀川(森光秀氏談)
○阿弥陀川の付近に寺屋敷跡がある。何か別の宗派の寺があったのでないだろうか。
○福島県に蓬田村がある。現在は平田町と合併したというが、以前は姉妹町村となっていた。
○森藤家(仁左エ門家)はナマコの取扱役をしていた。庄屋で名字帯刀を許された御献上煎海鼠仕立方であった。故あって、 のち仕立方を対馬九郎兵衛家へ譲った。
○明治三十年ころ、見継山の払い下げに八戸弥太郎(村長)が運動し、無償払い下に成功した。然るに材木を売った金で青森 遊郭で豪遊し、ついに倒産した。
○阿弥陀川に森藤七、森石五郎、青木彦兵衛、山谷弥太右エ門、八戸倉助など名の知られた人がいた。特に青木彦兵衛は幼名彦太郎といって、寛政七年手代、同十一年郷士、文化四年御年始御目見、同五年御賞一間文下された人であった。

第四節 蓬田村

 大字蓬田は蓬田村役場の所在地にして、北は郷沢、南は阿弥陀川と界し、村民は農を本業としている。中に商業、炭焼、杣夫を兼ねるものもある。旧藩時代に勤番制札所等あり、さらに蓬田越前の居城、大館城址あり往昔繁昌の地でありしを思わしむ。
 本部落は旧藩時代植田久兵衛という師匠あり、子弟の教育に努めていた。然るに本部落は明治二十四年以来、数多の火災の厄にあり破産者を出し、明治二十七、八年ころ本村で最も貧困の部落であった。そこで有志は救済策に開墾、開田を奨励し、且つ勤倹貯蓄の美風をすすめたため、今日では富裕な部落となった。
    蓬田(津島吉松氏談)
○対馬九郎兵衛家は御献上煎海鼠仕立方であった。旧家で馬が七頭あり、夫婦者の傭人が七組いた。田は十町歩つくっていた 豪農であった。
  漁師がとったナマコを買いあげ、イリコに製造、藩へ上納する役目であった。御用イリコを上納するとき、百姓九郎兵衛 と称して、帯刀を許され御蔵へ行った。奉行も監視のため対馬家へきた。対馬家にまさといった美人の娘があった。役人がきたとき席に出て美声で歌ったという。

 対馬家に善知鳥神社から養子をもらったという。その養子にも子がなく有馬家から養子をもらったという。
○蓬田の神社は蟹田の北山神官の霞場であった。青森、広田神社の田川神官が北山家から養子をもらったとき、広瀬から蓬田 までの神社の霞場をつけてくれてやったという。それで現在青森の田川神官がきているのである。
○蓬田は漁があるところで、明治三十年ころまで前浜鰊がとれていた。イワシの漁は春から秋まで続いて、タモでくむ程大漁であった。またタラ、青バ、ソエ、油目、タイ、ツカ等がとれる。湾内では漁獲量の多いところであった。

第五節 郷沢村

 大字郷沢は蓬田と瀬辺地との間にある小部落である。旧藩時代大字蓬田の寄郷村であった。村民は漁業を主としているが、中に農業を兼ねるものがある。概して当部落は富裕な処である。天明の凶歳には一村あげて他村へ移ったが、その後、豊年の続くに従い引越し、安政のころ七戸に、大正年代には三十九戸に及んだ。本部落は原野広く、黒松の繁茂せる所多く、庭園用の松の産地として知られ、青森及び近郷の庭園の松は多くこの地の産なりといわれている。
    郷沢(加藤喜代作氏談)
○昔郷沢を江沢と書いた。
○郷沢の浜田に蓬田越前の家来の屋敷があった。家の前に坪、即ち庭園があり、こじんまりした家があった。
○津軽藩時代に現在の駐在所の上のところに勤番屋敷があった。五人組頭は木刀帯刀が許された。組頭を福井万作といった。
○玉松台の北に昔板木沢という村があった。天明か天保の凶作に郷沢村に移り住むのようになった。
○郷沢の字浜田に昔塩田があった。百年位前のことといわれている。白ネン土で樋を作り海水を引いた。塩釜二個あり、こい 塩水を煮づめていた。高田長次郎の屋敷が塩製造所であった。高汐のため塩田がつぶれ以後、復興しなかった。
○郷沢に福井、高田、越田、木村、大宮等の姓名の人が多い。これは越前、越後、加賀方面から船で塩、砂糖、日用品をつんで売りにきたが、いつの間にか移り住むようになったのである。近江からの移住者は姓を大宮といった。
○郷沢の漁師は長科、蓬田と同じく、鱈、鰊、鰈、ナマコ等がとれた。高汐のため海水が家をのりこえて街道まであがること がある。そこで舟小屋から漁船を出すよう改造された。

第六節 瀬辺地村

 南は郷沢、北は広瀬に界し、村民は農業及び杣夫、炭焼を業としている。いつのころからか不明なれども本部落を小瀬辺地と称していた。藩政時代に堀替、板木沢等枝村ありしが天明、天保のころ廃村となった。
    瀬辺地(久慈宏氏談)
○瀬辺地から二キロ位離れたところに堀開がある。昔大瀬辺地村即ち広瀬村があったところである。堀開に馬頭観音があったが、 参詣の関係で瀬辺地字田浦に昭和三十五年に移した。そのとき、瀬辺地の由来をかいて碑を建てた。馬頭観音の一部が下北 の脇の沢村へ盗まれて行ったという。藩政時代黒松の苗畑があり林業に力を注いだ。
○昔は浜辺は漁師、鱈、鰊、金頭、ナマコ、鰯をとっていた。
○瀬辺地に久慈家、越田家など豪農の家があった。田畑が多く米が豊富にとれたので、船で下北、北海道へ販売に行った。

第七節 広瀬村

 大字広瀬は本村の北端に位し、県道に沿い蟹田村と界し、西は枝村に至るまで田畑開け、遥かに袴越嶽を望む。いつごろ部落が成立せるか不明なれども、石器、土器の破片多数を発見されることから、先住民族が棲息したことが推知することができる。
 貞享年間には本部落を大瀬辺地と称し、枝村に漁師新田(現在小学校下、県道の東側)広瀬村(現在の高根)があった。
 文政年間、小畑弥九郎なる弘前藩士が来り、寺小屋を開き、師弟を育英した。
 本部落は海産多く、また部落民は進取の気に富み、海運業に従事し、藩政時代から遠く北海道、北陸方面と交易していた。    広瀬(久慈留太郎氏談)
○広瀬の消防小屋を建てようと村の森林を伐ったが、途中でウヤムヤになり消防小屋が建たなかったので、村の更正のため、 村につくした偉い人を表彰する頌徳碑を建碑しようと話がまとまり、昭和十七年六月に完成した。
 頌徳された人は田中岩吉、久慈重次郎、越田治右エ門の三人である。久慈重次郎は部落の草わけの家である。久慈家は陸中の久慈から移り住んだ人で、士族であるという。越田治右エ門は寺小屋の師匠で、部落の子弟の教育にあたった人である。 また文政年間に小畑弥九郎という弘前藩士も寺小屋を開いた。田中岩松は田中吉兵衛の親類で部落のためにつくした功績が多い。
○久慈重次郎の先祖が広瀬へ移住したことに色々な話がある。久慈家の先祖は南部藩の家臣である。御前試合で勝ったのが、 うらみを買い腕を切られて広瀬へ移住したという説と、腰元とよい仲になり、不義密通として処分されるところを、家老の はからいで広瀬に落してよこしたという。
○広瀬部落の中央から、広瀬川が陸奥湾にそそいでいる。県道に広瀬橋がかかっており、その南部を古川と昔から称している。 昔は広瀬川は県道沿いに瀬辺地近くまで流れていた。川の向こうの砂地には雑草はもちろん、はまなす等が群生して張るに は美しいピンクの花ざかりを見ることが出来た。明治時代の建物は県道山添えの地区に楽宝寺、小学校、担当区官舎がある。
  大正に入り、久慈由太郎が古川地区の開発に着眼して、当時としては珍しい木製のレールにトロッコを使用して川を埋立 して敷地とした。大正二年、時の村長からその功を認められ表彰を受けた。その後埋立工事が進み人家がふえた。大正四年 に観音様が安田勇善の発起により瀬辺地との境界に建立された。
  昭和二十四年、久慈由太郎を初め先住者の功労をたたえて表彰した。久慈留太郎提案のもとに古川まつりが挙行され、古川地区の人々はもちろん広瀬部落総動員で盛大に行われた。
  現在公の建物は、広瀬小学校、職員住宅、楽宝寺、広瀬担当区官舎、一般住宅は四十五戸(商店四、製材所一)をかぞえ、 およそ二五〇人の人口となった。古川地区の庚申塔はもと中央にあったのが現在は三十三番観音様の場所に移された。三十 三番観音様は文久元年の建立で、同年弘法大師像と共に丸谷仁左エ門が北海道福山城下から持ち来たって寄付されたもので ある。
○広瀬の人々は昔から船持ちが多く、進取的気性に富み北海道や北陸方面に航海した人が多い。広瀬部落の弘化以前の船主を あげると、大吉丸(佐井大吉)、漁徳丸(田中吉兵衛)、八幡丸(川崎藤三郎)この三そうの船は太平洋は近海及び江戸を 中心に、また日本海は酒田を、そして北は北海道の近海で活躍した。
 明治の初めころ青森脇の沢で運搬船の船主である柿友吉、田中長左エ門、柿崎重吉らの船が活躍していた。
   大福丸(川崎和吉)、白竜丸(久慈与助)、昌光丸(佐井与助)、光寿丸(佐井竜蔵)、千歳丸(佐井健次郎)、住吉   丸(田中吉太郎)
  明治の後期から大正にかけて
   永吉丸(柿崎甚五郎)、神拓丸(越田貞蔵)、大改丸(相坂宇吉)、喜辰丸(佐井武五郎)、福吉丸(福浦源作)、
   大福丸(柿崎寅之助)、八幡丸(川崎藤助)、長福丸(川崎貞作)、福寿丸(川崎仁三郎)、観音丸(柿崎与三郎)、   宝久丸(川崎吉蔵)、春光丸(若佐勝太郎)、大洋丸(天内岩夫)、北拓丸(越田市太郎)、光寿丸(佐井清吉)
  大正の時代になると長運丸(久慈長次郎)が活躍したが、現在ではかぞえるだけの船しかない。不良の為である。
  しかし天明飢饉の際、部落民は生活困窮のため、海岸に下り(天保の時代も同様)沿岸の魚を漁獲して辛うじて生活を営 んだ。その当時の漁としては春はカレー、ニシン夏は数多くの種類はなく、秋はイワシ、冬はタラなどが多くとれた。また 広瀬川からは春は、チカ、白魚、夏はアユ、マス、冬はサケその他の雑魚を得て部落民は生活を営んでいた。
○広瀬はもと大瀬辺地といったのは、貞享元年の田畑屋敷書上帖に書かれている。広瀬と改まったのは貞享四年の広瀬村御検 地水帖で明らかである。
○広瀬明生会の明治百年記念行事
 広瀬部落で明治生まれの人たちの集会を明生会といっている。昭和四十二年は明治になってから百年に相当しているので、 明治百年記念行事が各地で行なわれた。
  明治生まれの人々には誇りがある。東洋の一孤島が鎖国三百年の夢が破れ、開国し欧米の文化をとりいれ、思想的にも、 経済的にも、軍事的にも急激に成長し、世界の大国である支那、ロシヤと戦って勝利をおさめ世界の強国の一つになったのも明治時代である。それだけに明治生まれの人は誇りがあった。
 広瀬部落で明治生まれの人は六十七名あり、明生会を組織していた。この人々は明治百年の目出度い年を祝うため、昭和 四十三年九月二十三日広瀬公民館に集り、記念懇親会を催した。参加者は全員の六十七名で明治時代をたたえ、歓談をともした。特に仮装行列をするなど大盛況裡に終った。

第八節 高根村

 高根は大字広瀬の枝村として、字高根と称し西野股沢及び堰根俣沢の沢口にあたり、広瀬川は部落の北を流れ、西と東は田畑にして南北は山々にかこまれた部落である。
 貞享年間には広瀬村と称し、又は山派立と称し、明治二十二年町村制施行にあたり小字名高根と称するにいたった。
 慶長十五、六年ころより製鉄行なわれ、ために業に従うものの移住者多く、一時数百戸に及んだ。木綿屋、造酒屋あり、現今の八幡甚四郎は其子孫なりという。当時使用された酒造、旅篭道具が残っている。今に至るも鉄屑累々として付近の山にあるという。
    高根村(八幡邦雄氏談)
○高根の開村はいつころか記録なきため不明であるが、今草わけの家として伝わっているのは、稲葉三郎兵衛の家である。
○高根はもと広瀬といった。現在の広瀬は大瀬辺地といい、現在の瀬辺地を小瀬辺といった。
○天明の凶作で村人が秋田へ逃散した。残った四、五軒の人々は瀬辺地へ移った。天明以後高根村といった。
 註 坂本義徹氏調査によると、広瀬村と山派立ともいい明治二十二年町村制施行のとき小字名高根村といったとある。
○八幡新兵衛家は大篤志家であった。天明、天保の凶作に、ナダレ蕗を大釜で煮て食わせた。外ヶ浜の窮民は高根まで行って飢饉を凌いだという。
  八幡家は南部八幡から移ってきたという。また佐井家は下北の佐井から移ってきたという。
○高根の主なる人は稲葉三郎兵衛をはじめ、八幡甚四郎、林崎清九郎、八幡新兵衛、小野寺孫十郎の諸旧家がある。
○これらの開拓者は山林をきり開いて、田畑を作った。特に麻の栽培をし着物や漁業用の網を作った。
○高根で注目すべきは藩政時代、製鉄をやった。砂鉄は蟹田、広瀬の海岸に豊富にあった。これは高根にはヒバの美林があっ たので、製鉄業が盛んであった。沢名に銅や沢の名があり、いまも鉄屑が諸方に残っている。銅や沢は小国にもある。この 沢は高根よりになっている。
○製鉄業がおとろえてから、高根の人々は豊富な森林を利用して、薪炭業を営んだ。
○高根に昔製鉄のため四方から鉱山師が集まり、宿屋や造酒家があらわれた。一時的であったが高根の人家は百五十戸以上に なったという。高根に入ってきた鉱山師は津軽の目屋、相馬、南部の人も集まった。
○高根は南北が山に囲まれ、東北風があたらないので米作はよかった。高根の米は南部下北に売られていった。しかし天保の 飢饉に米の移出を禁止していたとき、米を積出した人があって、あとで発見されハリツケになり、それ以後、南部取引はなくなった。
○高根に八幡宮がある。境内に神木の杉の木がある。三人がかかえる太い神木である。村人はお宮にお尻を向けると、神バツがあるというので、道路を考えずに総ての家はお宮に向って建てている。この神木を昭和二十九年の大火復興資金を得るため、伐採売却したという。
○村のはずれにコウベ(頭)平という、昔から亡者が出ると恐れられている処がある。こおは凶作で餓死した人の骨が埋めら れている処である。ある凶作のとき、食に飢えた母子づれが新兵衛家でナダレ蕗のかゆを御馳走となったが、栄養失調のため母親がついにコウベ平で餓死した。子は母親の死を知らず父をさがしていたという話しが残っている。
○高根部落から良材が出た。伐り出された木材は広瀬川に流して広瀬の土場に運んだ。土場から船に積んで北陸へ売られてい った。木材は川に流さないと腐れが早いと云うので、必ず川に流すのだという。
  藩は木材を大切にし、他用は許さなかった。そこで高根に来た役人にカヤのハシでナマコ料理を食わせた。普通のハシで も容易につかめ ないナマコをカヤのハシで食べさせたので、食べることができなかった。そこでついにハシだけは木で作っ てもよいという許しが出たという。無言の抵抗だ。
○高根は山間部落であるためマタギが多い。弘法大師さまが書いたというマタギの書物が林崎清九郎の家にあった。惜しい ことに大火で焼いてしまった。マタギ風習として葬式を喜び、産と祝言はきらった。
  アオシシをとった時は、南の方の木の枝をもって北枕をさせ、アオシシをたたいて、カンヂキを反対にはいてから皮をはぐ。それから内蔵物を干すという。
  高根付近に猿が二十匹、三十匹と群集しているという。最近猿が部落まできた。大猿は高い木の上で監視の役目をしながら、木の実を食べ子猿は下で親猿が落とす実を拾い食べている。高根のマタギは犬(ポインターの一代雑種)を使ってシノビ打は家伝であるという。マタギは鉄砲の外にヒラ(大長柄、小長柄)を使っている。槍だ。親方は犬を出し、獲物は等分 にわける。
○道路は盆のとき修理する。
○年中行事は山伏神楽、虫おくり、権現舞、岩木山参詣がある。

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この記事へのお問い合わせ

蓬田村役場 教育課

青森県東津軽郡蓬田村大字郷沢字浜田136-76

電話:0174-31-3111

ファクス:0174-31-3112

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