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第十二章 教育

第一節 寺小屋

一 中村弥右エ門

 文化のころ中沢村に中村弥右エ門という寺小屋の師匠があった。寺小屋は学校屋敷といって現在の浅吉屋敷即ち坂本金作の宅地であった。学童は六枚橋から瀬辺地までの村々から集まった。
 中村弥右エ門先生は口碑の伝えるところによると、弘城の出生とあるも、近江の人であるといわれている。当時先生を近江聖人といっていた。学殖深くその性慈仁にして人を重んじたので門弟なつかしみ、六枚橋から瀬辺地までの学童が集まり教えをうけた。
 門人は多数あったがそのうちで一番弟子は三上菊左エ門、二番弟子は坂本甚吾、三番弟子は櫛引伝蔵であった。三上菊左エ門は非凡の学識あり正法院の達禅和尚と法華経の解釈に論争を七日間にわたって行い、遂に論敗した。当時の風習として論敗したものはこの地にとどまることができなかったので、松前福山に遁走した。後松前公に召出され、松前侯の菩提寺松前福山法華寺の住職となった。その子長順は明治維新の函館戦争に活躍した。
 なお中村弥右エ門先生はこの地に四、五年とどまり弟子の教育にあたっていたが、感ずるところあり江戸へ出たという。門人は先生を慕い退去を記念に阿弥陀川正法院境内に碑を建てた。

   記念碑
    阿弥陀川正法院庭前地蔵堂側建立、墓石長三尺六寸内一尺二寸、台石彫刻なく一尺八寸五分四方角

 師匠
  中村弥右エ門塔
 一乗院紀偶居士

  碑文
  紀偶当国之出生也 父者弘城溝江氏景武母者青森中村氏女也 尓後於中沢阿弥陀川両村事道為師範焉其性慈仁恵人重教故門人矣有註誤仍欲報謝師恩競而造立石碑為末々令幼童入文字所謂也
   文化二年乙丑五月建之
                        六枚橋ヨリ瀬辺地まて八ヶ村
                                    門人敬白

二 松山操

 中沢村の寺小屋の名称は松月堂と称した。師匠は明治十年九月、小学校制度実施と共に初代の校長となった松山操(坂本柾吉と改名)である。
 松山操は秋田土崎藩士、江戸詰の士族であった。故あって永のお暇を賜わり流浪し函館で松月堂と称する寺小屋を開き児童を教授していた。妻の死亡後、中沢村出身の坂本金次郎(坂本金之助祖父)の娘を後妻とした。結婚と同時に妻の故郷である中沢村に移住した。子供がなかったので妻の親類から貰い子(みわという娘)したが、如何なる理由か離婚し、坂本孫作母と同棲し中沢村で寺小屋を開いた。
 松山操師匠は博学で詩書、五経は勿論易経から漢学、絵画、武芸百般に通じていた。生徒によく、謡、謡曲、などを教えていた。さらに部落冠婚葬祭の儀式を自ら指導し、儀式に必要な造花の製法まで指導する博学の士であった。
 交際も広く江戸時代には旗本大名に出入し、また明治維新の英傑である西郷隆盛、勝海舟などとも親交ありしという。中央で活躍していたら名を残す人物であったろう。あたら中沢村の寺小屋の師匠として一生送らせるには実に惜しい人物であった。
 寺小屋の内情を述べてみるに、師匠の謝礼は全部米で支払われた。外に盆、正月に礼金が届けられた。師匠として尊敬されていたが物質的にはさほど恵まれなかった。
 授業の内容は読み書きソロバンである。そのうち習字は最も大切な科目であった。旧三月二十五日の菅原道真公を祭る日には、半紙を何枚かつなぎ大文字を書いて(半紙一枚一字)長い旗竿につけ、学校で一通りの儀式胡野原に吹き流すさまは壮観なものであった。
 一生徒に必ず父兄付き添い子共の字の上達を祝う大文字の風習は見ごとのもので、日清戦争ころまで行われた。

三 森彦左エ門

 寺小屋の師匠として松山操先生と共に近村で名高い人は、後潟の森彦左エ門先生である。森先生は後潟村で生れ後潟で寺小屋を開いた人である。
 森先生の教導を本村の人は、坂本友次郎、吉田貞助等である。坂本友次郎は雅号を春人といって、書家であり俳諧士であった。遺品は神社仏閣にあるが、晩年北海道に移住、筆を背負って各地を行脚したという。
 師匠森彦左エ門先生の逸話に、弟子に四戸橋の森内惣左エ門がある。彼は九カ年も通い続けたが一丁字も書けない。森師匠云うには、今度退学してもよいが、これだけは一生忘れてならないと「ジャクメツウンロウ」といったそうである。惣左エ門はその後、一生懸命働いて村一番の物しりになった。そして師の云う寂滅雲廊の意味もわかったということである。森彦左エ門先生の徳をしたった門下生は、明治三十五年九月頌徳碑を後潟神社境内に建立した。

       森彦左エ門先生碑
 碑文
 昔時、本村学校ノ設ナシ先生夙夜之ヲ慨テ自ラ教鞭ヲ採リ業ヲ授ル年アリ一熟門下些ノ明識アル蓋先生ノ恩賚也 今ヤ故森彦左エ門先生碑忌辰ニ値フ碑ヲ建之ヲ不朽ニ伝ヘ以テ其徳ヲ表彰スト云爾
                                   門人等 拝識
  明治三十五年九月辰
                                門人首唱者
                                   三上甚作
                                   吉田貞助
                                   大科蔵松
                                   坂本友次郎

四 其の他の寺小屋

 高根村
  同部落に佐々木彦五郎、坂井茂作、山口某の師匠が寺小屋を開いて村童を教育した。開塾の年代は遺憾ながら不明である。
 長科村
  同村の寺小屋は明治初年に坂本万蔵という師匠が開いた。主なる学童は工藤石之助、坂本与作、吉田千代松、青木三次郎。
 広瀬村
  広瀬村に寺小屋を開いたのは越田治右エ門である。治右エ門は文化七年、越前の国に生まれた。士族であるが故あって浪人し、天保八年中師に落ちつき寺小屋を開いた。その後蟹田に移り村童を教育し、さらに広瀬村に移り明治三年没するまで川嶋藤右エ門家宅に塾を開いて村童を教育した。

五 高松勇蔵校長頌徳碑

 高松広瀬小学校校長は明治二十年以来本校の教諭として、校長として学童の指導にあたられた。単に教育の問題ばかりでなく在郷軍人分会及び青年団のことなど村の精神的教育方面に第一線になって指導された。とくに不帰生還の精神を以て出征した久慈軍曹の出征に、伝家の宝刀を贈り壮途を祝し、此の刀をもって陛下のため、国家のため尽くしてくれよと励ました話は、玉松台のある限り永久に語り伝わるであろう。
 このように村の精神的教養に尽くして功績を顕彰するために昭和三年七月十七日、思い出多い広瀬小学校の校庭に頌徳碑を建てたのである。左に除幕式に際し先生の功績をたたえた坂本種一村長の祝詞をかかげる。

      昭和三年七月十七日 故高松校長頌徳碑除幕式ノ祝詞
  本日故高松先生ノ頌徳碑除幕式ヲ挙行スルニ当リ不肖種一村長トシテ茲ニ一言蕪辞ヲ 陳ベテ先生ノ霊ニ捧グ。
  顧フニ先生ハ身ヲ教育ニ投ズルヤ三十有余年、一意専心其ノ一生ヲ広瀬小学校長トシテ貢献シ遂ニ我郷土ノ土トナッタノデアル。其ノ間ニ於テ学校ヲ建ツルコト三回、然シテ学校内外ノ教育ニ努力セル功績ハ死ンデ尚其ノ光リ永遠ニ輝ヒテ居ル。
  先生ノ薫陶ヲ受ケタル生徒ノ前途ヲ眺ムレバ県下実業界ニ其ノ人アリト知ラル、田中吉兵衛氏ヲ始メトシテ幾多ノ生徒ハ県内外ニ活躍ヲシテ居ル、内ニハ職員トシテ団体長トシテ本村ノ牛耳ヲトリ、村ハ平和ヲ謳歌シ、益々其ノ事蹟ハ挙ラレツヽアル、更ラニ又精神教育ノ源泉地ト云ハレテ県下ノ誇リトシテ全国ニ其ノ名モ麗ハシク玉松台ノ美談ハ広ク知ラレテ訪ネル人ハ益々多キヲ加ヘツ、アル。
  抑モ玉松台ノ由来ヲ糺ヌル人アラバ又先生ノ徳与ツテ大ナルモノアリシト言ハザルベカラズ。
  先生ハ本村ノ在郷軍人団創立幹事ニシテ団長ヲ補佐シ団務ヲ掌握シ、団員ヲ鞭撻シ更ラニ動員ニ際シテハ動員ニ際シテハ勇士ヲ鼓励シタルガ如キ又祖先伝来ノ宝刀ヲ嘗テ教ヘタル久慈軍曹ニ贈リ一書ヲ附シテ曰ク先生ハ我ガ家伝来ノ刀ヲ汝ニ贈ルニ因リ、此刀ヲ以テ陛下ノタメ国家ノタメ尽クシテクレト聞クモ涙グマシキ話ハ今ニ伝ッテ世人ヲ鞭撻シテ居ル。
  予ハ明治三十七、八年戦後当時ハ僅カ二十才前ノ青年タリシガ軍事思想普及ノ目的ヲ以テ先生等ノ組織セル軍事講演会ニ若キ弁士トシテ連レラレテ再ビ檀上ニ聞ク先生ノ報国ノ声、今尚耳底ニ存シテ居ル、コウシタ先生ノ至誠ノ叫ビハ今ヤ二十有余年ノ年月ヲ経過スルモ、決シテ没スベキモノデハナイ、洵ニ先生ノ遺徳ハ後世ニ伝ヘテ社会善導ノ資トナッテ居ル。
  回顧スレバ明治維新ノ国土ハ皆ナ吉田松陰先生ノ門弟ト聞ク、一国一村ノ興隆ノ因ハ則チ一人ノ教育家ノ成セル事ト云ハバ、我ガ村ノ今日ハ則チ先生ノ如キ良キ教育家ヲ求メタルニ因ルト云ハザルベカラズ。
  先生ハ一見温厚ノ君子ノ相ヲ顕ハシテアッタ、サレド其ノ説ク力、語ル力実ニ偉大ナルモノハ有ッタノデアル。
  先生ノ功績ハ決シテ空シカラズ、其ノ筋ノ認ムル所トナリ先キニ勲八等瑞宝章ヲ授ケラル、其ノ他県郡ハ勿論各教育会ヨリハ数回ノ表彰状ヲ贈ラレ其ノ功績ヲ表彰セラレタノデアル。
  今茲ニ村有志ハ相協リ然カモ先生ノ建テラレタ木ノ香モ未タトレヌ校舎ノ広々トシタ校庭ニ毅然ト聳ユル頌徳碑ヲ建立シタノモ之レ則チ先生ノ遺徳ヲ物語ルモノデアル、今日ハ朝マタキヨリ風モナク静ナ雨サエ晴レ渡リ先生ヲ追憶スルノ念益々深クスルノデアル。
  頌徳ノ文字モ雨ニ一層鮮カニ人々ニ読マレマス、終リニ一言セン、予ハ村長トシテ此ノ村ヲ治ムルノ道他ナシ、生前ニ於テ先生ヨリ薫陶受ケシアノ温情ト根強キ力ヲ以テ村ノ平和ト興隆ノ道ヲ開カント欲ス。
  之レ先生ニ報ユルノ言葉デアル、希クバ在天ノ霊此ノ村ヲシテ永遠ニ護ラレンコトヲ祈ル。
    昭和三年七月十七日
                           蓬田村長 坂本種一

    恩師五校長頌徳碑建立
 中沢青年団が昭和十二年七月、師の恩は古来三恩の一に数えられているが、近来子弟の情誼が日を追うて頽廃しつつあるを憂慮し、母校中沢小学校に奉職せられし五校長即ち初代校長松山操(孫作老翁)、飯田貞吉、坂本勝太郎、島田末太郎、鳴海貞蔵の諸先生の遺徳を偲び、傘松仏苑に頌徳碑の建碑を計画、中沢小学校の卒業生から募金、建碑したのである。除幕式は傘松観世音の祭典(八月二十二、二十三日)に挙行し、且つ諸先生の法要も執行した。

第二節 蓬田小学校、広瀬小学校、高根小学校

 蓬田小学校は昭和三十九年五月一日、永年の懸案であった中沢小学校と蓬田小学校が統合したのであるが、初め新校舎の新築がなされないので、旧中沢小学校校舎を南校舎(六学級)、旧蓬田小学校を北校舎(九学級)と改め発足した。新校舎は翌四十年十月三十日、大字阿弥陀川字汐干千百九十八番地に普通教室十四、外に図書室、理科室、音楽室、家庭科室を備えた近代的校舎が建築され今日にいたった。
 統合された中沢小学校は、明治十年九月一日、中沢小学校として、中沢北村端三十二番地に創立された。初代校長は坂本柾吉である。同氏について寺小屋の項で説明したが、旧名を松山操といって秋田、土崎藩士で江戸詰の士族であった。いかなる理由か不明であるが、同藩から永のおいとまを賜わり、流浪の身となってから函館に渡り、同所で松月堂と称する寺小屋を開き、児童を教育していた。妻の死亡後、中沢村の坂本家から後妻をめとった。のち、後妻の出身地である中沢村に移り寺小屋を開き村童を教育した。

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蓬田村役場 教育課

青森県東津軽郡蓬田村大字郷沢字浜田136-76

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